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独立研究者という文化的実践(朴東燮)

※ 以下は、独立研究者という文化的実践(朴東燮)前半部の概要を編集部員(仲嶺真)がまとめたものです
※ 本文中の太字(ボールド)は、同記事からの引用です。

独立研究者が語る「知」の本質

2016年3月に大学教員を辞職して独立研究者になった。周りからは「なんで辞めたの?」とよく聞かれるけれど、本人としては「なんとなく」としかいいようがない。理由のよくわからないままに続けていると、「なんでこんなことをしているのか」と、自分でも必死に理由をさぐる。そう、「理由」というものはしばしば、「事後的」に作られるものである。人間は「複雑な現実」あるいは「受け入れがたい困難な現実」とそのまま太刀打ちできないから、その現実を単純化するためにどこかの時点で「理由」を創り上げる(あるいは工作する)生き物である。

「原因」だってそうである。石につまづいて転んだ場合、「なにが原因だ?」と問うことはない。しかし、何も障害物がないのに転んだ場合、「何が原因だ?」と問う。そして、その時に、経験した複数の出来事の中から、ある因子を選び出して、そこに「物語」を一つ作って(たとえば「道路の反対側から、邪眼でみつめられた」というような)因果関係を構成することになる。…人間という生き物は「何か」を知ろうとするとき必ずある「物語」を一つ創り上げるのである。

こうして「原因」という「物語」を作り上げるとき、私たちはあらゆる「原因」を想定することができる。そのときに、「豊かな原因」を探し求める活動的な知性と、「貧しい原因」で満足してしまう凡庸な知性の間には歴然たる「差」が生じる。…たとえば、わが身の出来事を単一の「原因」(誰かの悪意とか幼児期のトラウマ)に帰して「納得できる」人間と、無数の前件の複合的効果として受け止める人間の間には、人間性の深みにおいて際立った差が生まれるだろう。…そのような「知ることのできない前件」の可能性を想像できる人間は、自分が宇宙開闢以来の無限の出来事の連鎖の一つの結節点であり、自分のなにげない行為もまた、他の多くの人々にはかりしれない「結果」をもたらすことの可能性にも思い至るはずである。このような思いに至ることができるのは、知性を励ますためではないかと私には思われる。

本記事の節見出し

「なんとなく」としかいいようがない
「原因」という「物語」
「知」は必ず「物語」を経由して現れる
「プラン」という「物語」
豊かな原因 vs 貧しい原因
研究という制度についていろいろ考えた
「一理論者」になろう
「学術」を「文化的実践」として捉え直す
「独立研究」という文化的実践
旦那芸という文化的実践
「トリックスター的」知識人

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