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道徳的ではない僕たちへの応援歌『天気の子』感想

2019年に公開された新海誠監督の「天気の子」のパッケージ版が発売された。Amazonのダウンロード版を購入して再鑑賞したので感想を書く。

ネタバレ全開で行くので見てない人はブラウザバックで。

なおダウンロード版は500円くらいでレンタルできるので、自粛のお供にぴったりだ。時期的に少し遅いかもしれないけど。

あらすじ。

「あの光の中に、行ってみたかった」
高1の夏。離島から家出し、東京にやってきた帆高。
しかし生活はすぐに困窮し、孤独な日々の果てにようやく見つけた仕事は、
怪しげなオカルト雑誌のライター業だった。
彼のこれからを示唆するかのように、連日降り続ける雨。
そんな中、雑踏ひしめく都会の片隅で、帆高は一人の少女に出会う。
ある事情を抱え、弟とふたりで明るくたくましく暮らすその少女・陽菜。
彼女には、不思議な能力があった。

新海誠を指して「セカイ系の名手」と呼ぶ声をよく聞くけれど、実はよく理解できていない。そもそも世界系の定義が不安定だ。
よく囁かれるのは「きみとぼくの関係性が社会を抜きにして世界の運命と直結する」というもの。
セカイ系の定義が定まっていない以上、新海誠=セカイ系と呼ぶのは憚れる。でも上の定義を当てはめるのであれば、天気の子はセカイ系に違いないのだろう。

物語の終盤で主人公の帆高はある”選択”をすることにより、世界の形を決定的に変えてしまう。東京は雨の止まない街になり、ほどなくして大部分が浸水してしまう。東京に住んでいた人々は家を奪われ、インフラは崩壊。首都としての機能の大部分は死んでしまったに違いない。
日本は霞が関に政治の心臓部分が集中しているので、政治的な機能もどうなったことやら。
でも関係ない。すべては大切な女の子をこの世に繋ぎとめるための選択だったのだから。

一方で、帆高の精神が未発達な少年のそれだったことは明確な事実である。警察に捕まった彼は車中で泣きながら呟く。

「陽菜さんと引き換えに空は晴れたんだ。みんな何も知らないで……。こんなのってないよ」

ここで帆高は警察(そして視聴者)に対して何も説明していない。美しいアニメーションに騙されそうになるが、そもそも会話を成り立たせる台詞ではなかった。小説版でこの部分がどう表現されているのか気になる。文字だけを追うと、ひどく浮いたセリフになっているのだ。
しかし結果的に、帆高が論理的な言葉を未だ持ち合わせていないという事実を伝える”演出”になっている。

彼は自分自身の世界を生きている。自分自身の世界だけを生きている。
セカイ系は「きみとぼくの関係性が社会を抜きにして世界の運命と直結する」物語だと語られる。しかしそもそも帆高はセカイのことなど何も知らない。
グランドエスケープをBGMに描かれた陽菜さんを取り戻す名シーンは、重大な選択を下すシーンではあったけど、帆高にとって難しい選択を行うシーンではなかった。
帆高にとって世界とは比較対象になるような重りではなかった。天秤に乗るような役者ではなかった。世界なんていなくなっても良かったのだ。

ここに従来のセカイ系と呼ばれる作品群との違いがある。従来のセカイ系は「ヒロインもセカイも救ってやる!」という無理難題な理想を達成すること描く物語であった。セカイ系の主人公たちは大切なヒロインも、僕たちが活きる世界も救うヒーローだった。
彼らは見ず知らずの人間であっても救ってしまう、最高に格好いい英雄だった。大衆を救う心を持つ者たちに、その勇気に僕たち視聴者は心を打たれてきた。

でも帆高は違う。世界を救うことなど考えなかった。少なくとも陽菜さんと世界のどちらを選ぶかの選択に迷う姿は一切描かれなかった。
帆高は陽菜さんと生きる”息苦しくない生活”を取り戻すために空を飛んだのだ。

そして、主人公=ヒーローであることに慣れすぎていた僕は、東京の街が沈んだ光景を見て絶句した。
本当にまったく欠片すらもこの展開を予想していなかったのだ。

だって想像できるか。
興行収入250億円を突破した映画監督の”夏休み映画”で、世界が壊れることを肯定する物語が描かれることなんて。
僕は想像できなかった。
陽菜さんは救われ、なんやかんやで世界もついでに救われるエンディングを、最期の最期まで待ち構えていたのだから。

それだけでも十分なインパクトだった。でも物語はまだ終わっていなかった。ラストの「大丈夫」である。

沈んでしまった東京の街に戻ってきた帆高は、陽菜さんに掛けるべき言葉を探していた。僕たちの選択で変わってしまった世界を背景に、愛を語る言葉を探していた。そんな帆高に対して彼の悩みを知る人々は言う。

「知ってるかい。東京のあのへんはさ、もともと海だったんだよ。ほんの200年くらい前まではさ。江戸そのものが海の入り谷だったんだ。それを人間と天気が少しずつ変えてきたんだ。だからまあ、元に戻っただけだわ、なんて思ったりするね」

「自分たちが原因でこうなった? 世界の形を変えちまった? んなわけねえだろ。うぬぼれるのも大概にしろよ
(中略)
まあ、気にすんなよ青年。世界なんてさ、どうせもともと狂ってんだから」

彼らは陽菜さんの肩にセカイが乗っていることを知らない。
まだ大人ではない帆高は彼らの言葉に逡巡しながら陽菜さんと再会するまでの坂道を歩く。
(※これは余談だが、天気の子は成長の物語ではない。帆高が大人になる話ではない。そもそも物語は成長を描くための道具ではない。成長はひとつの演出に過ぎない。これは大童澄瞳氏が「映像研には手を出すな」でも描いている。そしてこの物語で帆高は最後まで帆高のままだった。サリンジャーはもう読んでないかもしれないけど)

そして、坂道の果てで帆高は世界のために祈る陽菜を目撃するのだ。
帆高は知っていた。自分にとって世界は天秤に乗せるような代物ではないけれど、陽菜さんにとっては”自分を賭してでも救うべき対象”だったのだ。陽菜は晴れ女としての職業を愛していた。晴れが訪れて笑顔になる人々の喜びを、自分の喜びのように享受できる人間だったから。
東京の街が雨に沈む景色を、平気な顔で眺めることなんて出来ない尊い女性であることを、帆高は再認識するのだ。

そこでとうとう帆高の決断は”選択”に昇華する。彼はあの時、選んだのだ。
「陽菜さん」と「陽菜さんが大切にしていた世界」のどちらかを。
選択したことすら意識になかった彼の心の中に、ようやく認識が降り立った。

「違う、やっぱり違う! あのとき僕は、僕たちは確かに世界を変えたんだ。僕は選んだんだ。あの人を、この世界を、ここで生きていくことを!」

この構成は本当に見事だと思う。
・AとBの中からAを選択する(しかしBの重要性は理解できていない状態)
・Bとは何かを逡巡する。
・AにとってのBは何かを自覚する。
・それでもAを選んだことは間違いではなかった。
・ゆえに僕たちは”大丈夫”だ。

劇場でこのシーンを見て震えた。
僕は劇場で「天気の子」を3回観ているけど、この震えをどうしても言語化できなかった。このダイナミクスに僕は劇場で震えたのだ。
そしてこの震えは僕の創作の遍歴にも関係してくる。

さて、ここからは僕についての話だ。
僕はアマチュアで小説を書いている。そして僕が得意としているのは「何かを諦める物語」である。そのために僕はあらゆることを冒涜してきた。僕の書いた小説を読んだことのある人には少しは理解してもらえるかもしれない。

僕は書きたい物語のために、
人のセクシャリティを冒涜した。
物語を書くという行為を冒涜した。
人を数億人殺した。
あなたたちの言葉なんて存在する意味がないと謳った。

影響力など微塵もない身分だからそういう演出をすることに迷いはなかった。でも罪悪感はあった。SFは億人を殺すフィクションだ。そこに罪悪感を覚えるのは場違いかもしれない。
そもそもすべてはフィクションの中で行われる戯言に過ぎない。
多くの人にとって物語は必要なものではない。なくなっても然したるデメリットはない。でも、世の中には物語が必要な人間もいる。

もしあなたが物語を書く人間であるならば、こういう逡巡に意味がないとは言わせない。

新海誠は数百億円を超えるプロジェクトで、東京の街が死ぬことを肯定する物語を描いたのだ。
小説版のあとがきで彼はこう語っている。

(「君の名は」の想像しない規模のヒットと、そこに向けられた批判の数々に対して)
そういう経験から明快な答えを得たわけではないけれど、自分なりに心を決めたことがある。それは、「映画は学校の教科書ではない」 ということだ。映画は(あるいは広くエンターテインメントは)正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことを──例えば人に知られたら眉をひそめられてしまうような密やかな願いを──語るべきだと、僕は今さらにあらためて思ったのだ。教科書とは違う言葉、政治家とは違う言葉、批評家とは違う言葉で僕は語ろう。道徳とも教育とも違う水準で、物語を描こう。

新海誠は一般に道徳的ではない物語を描いた。
その行いに僕は羨望の拍手を送りたい。物語は道徳的である必要はない。表現の自由? そんな理屈は関係ない。僕たちは自由にあらゆるものを冒涜できる。描きたいもののためにすべてを海に沈めることができる。

「天気の子」は傑作だ。美しい美術、視覚的に楽しいアニメーション、感動的な音楽。そして道徳的ではないメッセージ。
「主人公たちは自分たちの行ったことに自覚的でない」という批判は見当違いだ。そのすべてを薙ぎ払ったことにこの映画の価値はある。

物語が必要でない人たちにこの映画をおススメしよう。
この映画は美しい美術と、視覚的に楽しいアニメーション、感動的な音楽を体験できる。恋人との家デートでDVDを見るのにぴったりだ。ひとときの感動に包まれてほしい。

道徳的ではない物語を描いてきた人たちにこの映画をおススメしよう。
僕たちは一生、物語を創り続けることができる。
この映画をお守りに。

新海誠監督の次の作品が楽しみです。

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