読書感想文(300)ピップ・ウィリアムズ『小さなことばたちの辞書』(最所篤子訳)

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回は記念すべき300本目の読書感想文になります。
300本目に選んだこの本は、最近友人にオススメされたものです。
ちなみに、読む前は辞典編集に関わるということしか知らず、それならとりあえず辞書編集を題材にした日本の小説である三浦しをん『舟を編む』を読まなければ!と思って先に読みました。

感想

私は海外文学を読み慣れないので結構読むのに時間がかかりましたが、とても良かったです。
ただ正直にいえば、私はまだまだ当事者意識が薄く、この物語を深く読めていないだろうとも思いました。
この作品ではオックスフォード英語辞典編集の歴史と共に女性蔑視の歴史もテーマとしています。
現代においても未だに様々な男女平等が叫ばれていますが、私はまだまだ当事者意識が薄く、「確かにいけないことだ」と思いつつも心はどこか他人事のような感じがしてしまいます。
また、身体的な性差として、物理的に出産するのは女性であり、そのことについてもこの作品で描かれますが、やはりどこかリアルに想像できない所があります。こんな男がいるから世の中良くならんのだ、と恥ずかしさと情けなさを感じます。

ただ、長い期間をかけて読み進めながら、この作品の中心はどこにあるのだろうと考え続けていました。
先に述べた女性の権利は確かに大きなテーマの一つですが、それは主人公がある程度成長してからの話ですし、また後半では戦争もテーマの一つとして浮かんできます。
そんなモヤモヤを抱えたまま本編を読み終えると、著者あとがきに次のように書かれていました。

この小説は、言語を定義する手法が、私たちをどう定義する可能性があるのかを理解しようとした、私なりの試みである。

P506

作者自身の言葉で作者の意図を知るのは何だかずるいような気分もしますが、これを読んでひとまず「なるほど」と思いました。
作者は辞典編集者が男性に偏っていることから女性の言葉が抜け落ちているのではないかという発想の元、それが同時代の女性の参政権を求める運動や戦争と繋がったとのことでした。
また、この作品は歴史を踏まえたフィクションであり、本書で重要な役割を果たす「bondmaid」が本当に辞書から抜けていたことや、辞書編集の校正に関する資料の情報を基に作られていることを後で知りました。
以上のような事を踏まえると、歴史とテーマを見事に調和させた全体像が見えてきます。この全体像を踏まえた上でもう一度読み直すと、また面白い発見があるのだろうなと思います。

以下、特に印象に残ったことを引用していきます。

「わたくしたちは英語の裁定者ではありませんわ。われわれの仕事は記録することであって、裁くことではないのですもの」

P38

「でもふたりでリリーのことを話すと、リリーは生き返るみたい」
「そのことをきっと忘れないようにね、エズメ。ことばはね、わたくしたち人間のもつ復活の道具なのだから」

P45

この場面、今読み返すと、母の形見のピンを大切にするリジーが対比的に描かれているのかもしれない、と思いました。
リジーは話せるけど、読み書きは苦手だったはずです。また、リジーは話す時に十字架のネックレス(?)を握るのも、物に対する意識の比重が大きいように感じます。
これが言葉以外の記憶や力を表すのか、或いは言葉の優位を示すのか、今はわかりません。なんとなく、優劣の問題ではないような気はします。

ことばに終わりはなかった。ことばの意味にも、ことばの用法にも。あまりにも歴史が古く、現代のわたしたちの理解は、本来のことばの木霊――歪曲にすぎないものもあった。以前、わたしはその逆だと思っていた。過去から来た奇妙なことばは、後に完成するものの不格好な下書きであり、わたしたちの時代に、わたしたちの舌で形作られることばこそ、真の完成形なのだと思っていた。だがじつは、最初に発せられたことばよりあとに現れるものはすべて、その転訛であることにわたしは気づき始めていた。

P270

これは第四部の冒頭部分ですが、始まり方がかっこよくて震えました。

「メイベル、"モーブズ"ってどういう意味?」
「ときどきふっと悲しくなることさ」

P310

この本には色んな言葉が出てきますが、一番印象に残った言葉です。
あとは「セクラ(安全)」でしょうか。

ボンドメイド。奴隷女。わたしたちを定義するために使われることばは、わたしたちが他者との関係で果たす役割を説明していることがほとんどだ。一見害のなさそうなことば――"乙女""妻""母"ですら、わたしたちが処女かそうでないかを世間に向かって公言している。

P336

これは国文学を学んだ人間としてすぐに理解できました。
日本文学史上偉大な功績を残した和泉式部、清少納言、菅原孝標女、藤原道綱母などの呼称は全て親や子によって決まっています。
現代においても、子供たちの保護者の集まりでは「〇〇くんのママ」「〇〇さんの奥さん」など。こちら男性にも当てはまるかもしれませんが。

「政府は、あたなたちのサフラジストが分別くさいことばをいくら並べても、耳を貸さない。でも、わたしたちがやることは無視できないわ」

P376,377

これは最近よく話題になる「環境活動家」にとても似ています。
この人達はこういうのを踏まえて活動しているのかもしれません。サフラジェットによる放火などは史実としてあるようです。
思想の方法までが同じかどうかは判断できませんが、形式はとても似ているように思います。
これは繰り返してはいけない歴史だと思うのですが、解決策は思いつきません。

戦争のせいで、過去よりも今がずっと大切になった。未来なんか今に比べたらどうなるか全然わからない。僕は自分が今、どう感じるかを信じるだけだ。君がすべてを話してくれた上で、僕は前よりもっと君を愛してると思う

P411

これは主人公の夫となるガレスのセリフです。
このセリフについては二点書いておきたいことがあります。
一つ目は最後のセリフについて。この場面では、エズメが過去に婚前の性交渉により妊娠、出産し、生まれた子を養子に出したことを指します。恐らくこの事が汚点のようなものと二人が捉えているように思うのですが、現代人にとってもっと身近な汚点として浮気などがあると思います。過去の自分の罪を告白するべきか否か、というのはしばしば恋愛論で議論されることです。私は包み隠さず全てを話し合いたいと思う派ですが、そんなことは墓場まで持っていけ派も結構多いような気がします。
二つ目は少し話がズレるのですが、最近『法華経』について少し学び、「方便」をどう扱うか悩んでいます。このガレスの言葉が真実の心から発せられていることを認めた上で、もし方便を認めるならば、このセリフをそっくりそのまま偽りの心で言うことができてしまいます。やはり「方便」は嘘に過ぎないのではないか、という気持ちがどうしても残ります。

戦争が、人間の本性を変え得るなら、間違いなくことばの性質も変えるだろう、とわたしは思った。(中略)
「そのことには、きっと最後の巻で触れることになるだろうな」とスウェットマンさんは、わたしたちがこのことを話し合ったときに言った。
「詩人たちがうまくやってくれるだろう。彼らは、いろんなものの意味に含みをもたせる術を心得ているからね」

P429

ここに文学の意義の一端が書かれているように私は思いました。
新しい意味を持ったことばを使って表現したり、ことばに新しい意味を持たせるのが詩人の、或いは文学者の役割の一つなのではないでしょうか。
新しい意味を持ったことばを使うことは社会を反映して残したり認識を広める歴史を作る作業であり、ことばに新しい意味を持たせるのは芸術であるのではないでしょうか。こう考えると、似ているようで全然違います。

最後にもう一つだけ。
この作品を読んでいて、人の死がかなりあっさりと描かれているように感じました。作中人物は勿論深く悲しんでいるのですが、描写はあっさりしています。
最近の日本の小説では、死に至るまでの過程を感動的に描くことに凝ることが多いように感じますが、それらとは全く異なる印象を受けました。
これは国の違いなのか、この本のテーマと異なるからなのか、実際人の死はあっけなく訪れるものだからなのか、わかりません。
この辺りのことも頭の片隅に置いておきたいなと思いました。

おわりに

思っていた以上に長くなってしまいました。
この本は今の所今年最も長い期間をかけて読むことになりましたが、その分内容もかなり濃かったように思います。
まだ深く読めていない部分も多いので、また読み返したいです。
次に読み返す時は、男女平等の問題や性的マイノリティーの問題についてももっと勉強した上で読みたいなと思います。

ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。


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