読書感想文(301)原田マハ『楽園のカンヴァス』

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回は初めて原田マハさんの小説を読みました。
以前から気になっていたので、やっと読めたという感じです。
大学生の頃に美術に興味を持ってから原田マハさんの小説が気になりつつ、今まで読まなかったのは、実は大したことのない理由があります。
それは、高校生の頃に嫌いだった先生が、原田マハさんの小説をオススメしていたことです。
作品に罪はないと頭では理解しつつも、どこか無意識に避けていたのだろうと思います。

感想

とても良かったです。
日曜日の昼下り、紅茶を飲みながら読み始め、日が沈む頃に読み終えました。
その休日の雰囲気に文章がとても合っていて、今日読んで良かった!と思いました(投稿は恐らく月曜日なので昨日)。

また、この作品の主人公は岡山にある大原美術館に勤めており、その場面から始まります。
偶然にも、私はつい数ヶ月前に大原美術館を訪れたばかりです。
団体の高校生のセリフの岡山弁や、エル・グレコの『受胎告知』によって、作中で明言されるより前から大原美術館であることがわかり、まるでその場にいるかのように館内の様子がわかりました。
こういう体験があるから、色んな経験をしておくのは良いことだなと思います。
話が逸れますが、以前広島県の尾道の絵を観た時も、さらに数年前に尾道を訪れた時の景色、空気が蘇って、とても心地良かったことがあります。

この作品は美術史を元にした歴史ミステリー、といって良いでしょうか。
ストーリーもかなり面白かったです。
途中からは主人公達と一緒になって、「この先どうなるんだろう?」「結局どういうことなんだろう?」と思いながら夢中になって読み進めました。
一方で、美術史に関しては勉強になることが沢山あります。私は美術に興味を持ちつつ知識が殆ど無いので、こういう小説を読むことで色んな知識を関連付けつつ身につけたいです。つまり、今後もっと原田マハさんの作品を読みたいと思っています。
今回この本を読んでアンリ・ルソーの作品をもっと観たいと思いましたし、他の画家の作品も同じように興味を持ち、色んな作品を鑑賞したいと思いました。
本作で重要な役割を果たすピカソも、興味を持ってほんの一端を勉強しつつ、まだまだ知りたいことが山程あります。

以下、いつも通り印象に残った所を引用します。

ピカソは、このとき、マティスの色彩に対する挑戦を、どちらかというと冷ややかに見ておりました。色彩は確かに作品のできばえを決定づける重要な要因のひとつだ、しかしひとつの要因に過ぎないじゃないか、と。

P187

私は以前美術館は一人で行くことが多かったのですが、最近は恋人と行くことが増えました。すると、感想を言い合ううちにお互いが注目している所が違うことに気づきます。
相手は主に色彩に関心が強いようで、モネの絵画などが好きです。
一方で、私は構図に関心が強いようで、印象派の筆致や木々と空の配置などが気になります。マネの『草上の昼食』などが好きです。(昨年、岡本太郎展に行った時などは、流石に色についても意識されましたが)
しかし、当然ながらいずれも絵画の一要素に過ぎません。勿論、だからダメな鑑賞だというわけではありません。けれども、まだ画家の、或いは作品の深淵には辿り着いていないことを痛感します。
私は何となく惹かれる作品があると結構な時間をかけて鑑賞しますが、それでも当然キュレーターや監視員ほど長い時間を作品と向き合うことはありません。
ただこのような事を考えていくと、文学を同じように考えることもできます。文章のリズム、ストーリー、思想、その他様々な要素があり、それがどのような組み合わせでも言葉の表現は文章となります。(ちょうど、絵の具で描いたものが絵画となるように)
私は短歌においてはリズムにかなり関心が強いようで、小説においては文体や思想に特に関心が強いようです。
最近、「文学」という言葉について、「文学」と呼ぶからには「数学」などと同じように学問的であるべきではないか、と思っています。「文学」が芸術だと言うならば、それは「文芸」と呼ぶのが良いのではないかと。そして「小説」というのは「文学」の一形態です。
つまり、一つの作品が「文学」かつ「文芸」かつ「小説」であることも有り得るけれども、「文学」として優れていてもストーリーがつまらないものもあれば、「文学」性はあまり無いけれども「文芸」として優れている(即ち芸術性が高い)ということもある、ということです。
この辺り、わかっているようで自分でもまだよくわかっていないので、いずれ整理したいことです。
話がかなり逸れましたが、文学については一般人でも時間をかけようと思えばじっくりと向き合えるのがいいなと思います。
さらに話を美術に戻すと、それでは芸術とはなんぞやという問いに対して、本文では次のように書かれています。

アートを理解する、ということは、この世界を理解する、ということ。アートを愛する、ということは、この世界を愛する、ということ。
いくらアートが好きだからって、美術館や画集で作品だけを見ていればいいというもんじゃないだろう? ほんとうにアートが好きならば、君が生きているこの世界をみつめ、感じて、愛することが大切なんだよ。

P232

例外もありそうですが、少なくとも世界を見ている作品については首肯できる気がします。しかし人間が生み出すものである以上、それは世界と繋がっている気もします。もしその人間が世界と異なる(?)ものを生み出そうとした時、その前提にはこの世界があるからです。
一方、近年はこれが崩れようとしています。AIの登場です。
『サピエンス全史』において著者が、我々人類はAIの描く世界を全く理解できず、想像もできないはずだ、といった事を書いていたはずです。それは、こういうことなのではないでしょうか。
つまり、AIは確かにこの世界のものを素材としているけれども、そこから生まれるものは人間よりも膨大な組み合わせによって作られるものであり、その中には突拍子もない組み合わせをさらに突拍子もない組み合わせにしたようなものも含まれます。
そうして我々がこの世界を素材にしていることすら気づけないほどのものがAIによって量産された時、我々はもはや何も理解できないでしょう。それが何をもたらすのか、私には想像できません。

おわりに

そんなこんなで、余計な話を多分に含みつつ、結構長くなってしまいました。
原田マハさんの作品はこれから沢山読みたいと思っていますが、どれから読むかかなり迷います。
知っている画家がテーマになっているものがいいかなとは思っていますが、選ぶのも読書の楽しみの一つなので、精一杯迷おうと思います。

ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。


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