自由と孤独

人は孤独である。或いは私は孤独である。

発想の自由は論理と相容れない。
人はなぜ論理的な思考をするのか。
他者と対話するためである。
論理的な思考をしなければ、そこに論理はない。すなわち自由だ。この自由とは、ルールが無いということだ。
ルールとは何のためにあるのか。
他者と共通の基準を作るためだ。
同じ基準があるから他人の考えがわかる。
同じ基準がなければ、他人の考えはわからない。
自由であれば、他人の考えはわからない。
自由は孤独である。
人は自由である。

どうすれば孤独でない自由が生まれるか。
自分の自由に他人を引き込むことか。
しかし、それでは一方が不自由となる。なぜなら、それは自由によって生まれたルールに則ることだから。
ではどうすればよいのか。どうすればよいのか?
双方が不自由であってはならない
⇔双方が自由でなければならない
⇔双方が論理的であってはならない
⇔双方がルールを持たない
ここでの論理やルールとは、既存の論理やルールのことである。
他者との対話を成り立たせるにはルールが必要である。
ではルールを持たない者同士が会話を成り立たせるにはどうすればよいか。
自由が自由と共にルールを生み出すことが必要である。
しかし、ルールは不自由である。
自由な会話とは、常に不自由から脱却しようとするものである。
不自由からの脱却は共通理解からの脱却である。
そうして人は孤独となる。
私は自由となる。私は孤独となる。
どうすれば孤独でない自由が生まれるのだろうか?

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