読書感想文(367)小林秀雄・岡潔『人間の建設』

はじめに

こんにちは、笛の人です。

今回は有名な二人の対談集である有名な本です。
私は岡潔の文章を森本真生編『数学する人生』で読み、とても良いなと思いました。その後、『春宵十話』『一葉集』『風蘭』『春風夏雨』と読み、多大な影響を受けています。
一方、小林秀雄は高校生の頃から知っていながら、本を読んだことは一度もありませんでした(国語の問題で出題されたことはあったと思います)。
なので、本当は小林秀雄の本を読んでから、この対談集を読もうと思っていたのですが、先日本屋さんで見かけた時にピンと来たので、こちらを読んでみることにしました。

感想

とても良かったです。
初めの方は、お互いに忖度が働いているのかなとも思えるようなよそよそしさが少しだけ感じられましたが、途中から小林秀雄が「わかりません」とはっきり言っていたり、お互いの意見がきちんと交わされていて、良かったです。
この本の感想文をnoteや読書メーターでちらほら見ていたのですが、「知的な雑談」「示唆に富んだ」といった感想がよくあり、結局何なんだろう?ともやもやしていました。
読み終えた今、確かに示唆に富んだ知的な雑談だったなと思います。
正直、私はまだ深くこの雑談を理解できていないのですが、分かる部分から考えてこの本の影響を受けたいと思いました。120ページほどの短い本なので、何度も読み返したいです。

いまの絵かきは自分を主張して、物をかくことをしないから、それが不愉快なんだな。物をかかなくなって、自分の考えたこととか自分の勝手な夢をかくようになった。

P17

この対談は50年以上前に行われたものですが、この傾向は絵に限らず現代でも続いている、いやむしろ加速しているように思われます。
他人と違うこと、自分らしさというものを大事にし過ぎて、自然との調和を省みない感じがします。
かく言う私も人と異なることに価値を見出してきた人間なのですが笑。
いや、ちょっと違う気もしてきました。
逆に、創り上げられた価値観を皆で信じ、その中でより共感を集めようとするところが大きい気がします。
人と異なろうというより、人より優れようというのも多い気がします。
インターネットという「バザール」でより多くの共感を得られるのなら、それが普遍的人間的なものだと考えてしまいそうですが、それは違います。
評価されるために作られた評価されるものは、まるでクレメント・グリーンバーグの評論に添って作られたアートのようです。これがインターネットという巨大なものの中で起こっているように思われます。

なんの話だっけ……?
わからなくなってきたので打ち切ります。次。

岡 世界の知力が低下しているという気がします。日本だけではなく、世界がそうじゃないかという……。小説でもそうお思いになりますか。
小林 そうでしょうね。
岡 物を生かすということを忘れて、自分がつくり出そうというほうだけをやりだしたのですね。
 よい批評家であるためには、詩人でなければならないというふうなことは言えますか。
小林 そうだと思います。
岡 本質は直観と情熱でしょう。
小林 そうだと思いますね。
岡 批評家というのは、詩人と関係がないように思われていますが、つきるところ作品の批評も、直観し情熱をもつということが本質になりますね。
小林 勘が内容ですからね。

P23,24

特に後半部分が印象に残りました。
文芸批評というのはただ分析するのではなく、そこには批評家の情があるということだと思います。
となれば、最近よく言われる「感想文」と「評論」なんてのも大した違いがありませんね。強いて言えば、感想を論理的に書いたものが評論と言えるでしょうか。それなのに教育では「思いました」ではなく「考えました」と書きなさい、或いは断定的な文体で書きなさいなんて指導をやっています。笑止千万、そんなことより内容をもっと濃いものにすることを考えてほしいものです。

一方でアレフニュルとアレフとの間のメヒティヒカイトは存在しないと仮定したのです。他方で、アレフニュルとアレフとの間のメヒティヒカイトな存在すると仮定したのです。この二つの命題を仮定したわけです。どうしたってこれは矛盾するとしか思えません。(中略)ところがその二つの仮定が無矛盾であるということを証明したのです。(中略)それは知的には矛盾しない。だが、いくら矛盾しないと聞かされても、矛盾するとしか思えない。だから、各数学者の感情の満足ということなしには、数学は存在しえない。(中略)だから感情ぬきでは、学問といえども成立しえない。
(中略)
小林 ぼくらがもっている心はそれなんですよ。私のもっている心は、あなたのおっしゃる感情なんです。だから、いつでも常識は、感情をもととして働いていくわけです。

P42,43

この辺りを読んでやっと岡潔がよく言う「情的にわかる」ということが少しわかった気がします。
また、岡潔の数学世界はこの「感情」を土台にしており、だからこそ論文の序章にその論文に至る経緯を書いたそうなのですが、西洋の数学者はこれを削除してしまったのだとか。感情(主観)を抜きにした客観的な論文を作りたかったのでしょうが、そんなものはあり得ない。あり得たとしても、今はまだそれが良い方法だと示せていないということを、アインシュタインの相対性理論を例にして書かれていました。
ただ、もしかすると、そういった客観性を重視する人にとっては、その「客観的」な論文を感情的にも納得して読めるのかもしれません。
そもそも情的にわかるということを岡潔は文化的土壌に根源を置いているようですが、文化が違えば情緒も異なるように思われます。
また、現代のもっと卑近な例をとって考えてみても、同じ日本人でも情的に納得されずに食い違うことは日常茶飯事です。
そして、レベルの低いところでは、これを情的に分析することでわかり合うこともできるような気がします。

おわりに

他にもいくつか印象に残ったところはあったのですが、最も印象に残ったのは上で書いたようなところです。
また、学校の先生を軽んじ過ぎているという話もあり、さもありなんと思いました。というか、それも50年前から言われてたんですね。それを放置した結果が今の教育界である、と。
愚痴になる前にさっさと終わっておきます。
読んでくださってありがとうございました。


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