映画『ザ・ホエール』の感想ととりとめもないエッセイ

あるレストランのキッチンで働いていた頃、休憩時間に談笑しながら私は言った。「動けないくらい大きくてぶよぶよの体になりたい。そうすれば、何もしなくても怒られないから」。
私にいつも良くしてくれたおばさんはそれを聞いて、えーそれおかしいよと言い、同意を求められた少し年下の女の子も苦笑いをして頷いた。
でも私には、私の言っていることが分かった。私はもうあの時、疲れきっていたんだと思う。誰にも何も期待してほしくなかった。家に帰って好きなものを食べたい気分だったし、やろうと思えばそれができると思った。

今日、私はあるスピリチュアルカウンセラーのYouTubeチャンネルを観て、被害者意識、という言葉を学んだ。
子どもの頃に親の顔色を見て育たざるを得なかった子どもが、その時の願いや傷を表現できず大人になっても影響を受け、蓋をしたその感情を、言葉ではなく態度で静かに表すという生き方を選ばせる意識。不健康そうだったり、悲しそうだったりうまくいってなさそうだったりする様子で、察して、とばかりに。
私のことだ、と思った。
親に対して怒っているのに表面では仲良くして、でも奥底では怒っているから少し何かあると猛烈に恨み辛みが吹き出してくる。でもそれも言えない。
怒っている自覚があるのに、いつまでも実家に住んでる。同じ家賃を払えばアパートも借りられるのに。生活を変えるのが嫌いだからとか、持病があるからとか色々理由はあるけど、でも同じくらい、実家暮らしを憎んでいる。それでも一歩踏み出せない。今も、ドアの向こうで父親が酒を注ぐ音がする。何年もずっとこんな調子だ。

こんな風になっちゃったのは誰のせい?

その答えを察してほしいから近くにいる、というのはまったく理にかなった話だ。
何で嫌いなのに出ていけないの?
長年の問いに、答えを得た気がした。

『ザ・ホエール』を観た。
「動けないくらい大きくてぶよぶよの体」の主人公チャーリーを見ながら、わけもなく涙が止まらなかった。話の展開云々が始まる前、冒頭のシーンからずっと。
私は羨ましかったんだと分かった。長い間、自分に似合わない生き方をすることで怒りを表明してきた。しかも無自覚に。
自分に似合わない生き方なんて言っても、抱えている違和感や空回りする手応えは自分にしか分からない。言葉にすることが怖かったんだろう。喋るたびに怒鳴られるような時期があったから。今のどこが失言だったか自分で考えろ、と家から閉め出されたこともある。まだ幼稚園とかだったと思うけど、そういうの全部嫌だった。察しろ、と母親に求められていた。
だから言葉にできなくて、他人に分かるはずもない「自分に似合わない生き方」なるものを実行して冴えない自分を見せて、あーあこんな自分になったの誰のせい?察しろ、とやっていたのだ。かつて自分がされたみたいに。

でも「動けないくらい大きくてぶよぶよの体」は分かりやすい。
それが羨ましかった。
羨ましかったんだと気付くと同時に、被害者意識なる新しい概念とこれまでの自分史を振り返ってとにかく泣いた。チャーリーの傷を思って泣いた。こんなに泣けるのが不思議だと思うくらい泣いた。

正直に書く、というのがひとつテーマだったと思う。チャーリーも、娘のエリーも、ものを書くタイプの人間だ。
私は最近書いても続かないことが多くてフラストレーションが溜まっていたけど、書くという情熱をもつキャラクター達の生き様を観て泣いた後に何も書かずにいられなかった。それに、書かなかった大きな理由として、好意的でない反応が怖かったからというのがある。別のところで小説を書いているけれど、反応はいつも気になるし怖い。
でも、チャーリーは言った。正直に書け、と。
全編を通して説得力を得たその言葉に触発されて、今すごい勢いで書いてる。これまでどれだけ、「不謹慎だって言われるかな」とか考えてびくびく書き直してたか分かる。

英語は好きだけど初見の映画を字幕なしで観れるほど上達してないので字幕つきで観たけど、好きな訳だった。
しいて言うなら、物語のキーになるフレーズで、「ほんの少し」というのがあった。for a while. そのwhileは当然タイトルにもなっているホエール、whaleにかかっていると思う。とはいえ日本語では分かりづらいから、そこにルビを振ってそのユーモアを共有してほしいなあと感じた。気になったのはそれくらいかなあ。字幕がおかしくて話が頭に入ってこない映画とかたまにあるけど、そういうのではまったくなかった。好きな字幕だった。

あと宣教師トーマスがチャーリーの現状、その大きな体を「霊でなく肉に従ったから」という聖書の一文を引用して説明したことについて。
あまり書くとネタバレになるし観た人しか分からないと思うけど、そもそもアランのしたことを肉のせいにするのはおかしいよね。相手が同性だからという理由で愛情を全て性欲に帰結させるのはおかしい。人を救いたいとか大層なこと言う前に想像力と人に共感する神経を磨けっつーの坊っちゃん。いい人だと思ってたら……とか、その逆とかあって面白かったですね。いい人悪い人で済まない複雑さというか。
そしてチャーリーの体についても。
トーマス坊っちゃんは「肉に従ったから」だと言ったけど、私はむしろ霊よりのことだと感じた。愛し合うって霊的なことでもあるよね。
そしてアランを失った後の苦しみと悲しみに苛まれながら生きて、今の身体になるまでの過程は、間違いなく霊的な営みだったと思う。生きてるからもちろん肉でもあるけど、悩みながら生きる行為は霊性なしにはできないと思う(普段霊性て単語とか使わないからアレだけど、つまり精神的活動なしに生きれないよねって話をしてます)。
そもそも生きるってさぁ……と反論したくなるほどトーマスの理屈は個人的に胸糞でしたね。

あれやこれやあ最終的に私は号泣しながらラストを迎え、感想はここで終わりなのですが、ひとつ思ったこと。
泣きながらスタッフロールを見ていたら、右下にあるものが現れました。
「次におすすめの作品」の文字とサムネイル。

ああああああああああーーーーと思った。
映画館で観ればよかったああああああ。
雑誌で見かけてからずーっと気になってた作品ではあったんです。でも東京でしかやってなくて、腰が重くて行けなかった(茨城在住)。
時すでに遅し。
こういうことは、前にもあった。いつか『キンキーブーツ』のステージを観に行きたいなとほんのり夢みながらもぼんやりしていたら、三浦春馬はいなくなってしまった。その時、人生は二の足を踏んでる暇なんてないんだと思ったのに。
私の人生。親のために「自分に似合わない人生」を演じてる暇なんてないんだ。めいっぱい生きよう。
でも、葛藤してきたこれまでもちゃんと人生なんだよなあ。苦悩するって行為はそれ自体がきちんと生きてるってことだと思う。そう思いたいしチャーリーの人生は美しかった。

またもう一回観よー。

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