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境界線の痛覚

知り合いの紹介で、ある展示を観てきた。

結構考えさせられる内容で、帰りには両肩が重くなるほどだったが、意外と引きずるほどではなかった。

私が下手な言葉を連ねるよりもまずビジュアルかと。会場は撮影自由。

茶席が設けられていた。元からある畳の染みが少々怖いが、使用する部分にのみ新しいござがひかれていた。古い建物の特徴と渋みが一体となっている。

「喫茶去」の掛け軸が。

おなじみ「ドリッピング」または「ポーリング」。色の選択が優しい。土台の色が黒か白かでかなり印象が変わる。

おやおや、これは何という…。私は昔水戸芸で観た刈谷博の作品「百体のからだをつつむもの」を思い出した。後ほど、ここでパフォーマンスが行われるそうだ。

…これはまたコンテンポラリーな。何故かキャプションが白紙。

…こんな下の方にも。

…またも白紙のキャプション。

ここまでご覧になれば、この会場が何なのか、わかる人にはわかるかもしれない。

つまり、そういう場所。かつては社会から隔絶されたという。

既に奥に見えている、保護と隔離の歴史。

ここにいるような状況がもしも「どこまでも」続いたら。

出口なし。

こうして今は「展示」されているけれど。

当事者も職員もそれは毎日が戦場だったはず。

きれいごとなんて通用しない、自分が生きているのか何者なのかここがどこなのか何故自分がここに居るのか、もうめちゃくちゃで。皆が普通に流せることも流すわけにいかなくて。皆が普通にできることが自分にはできなくて。皆が上手く交わしているものを自分のアンテナは受信しまくっていて。

むきだしの神経を私もできるだけ守りたいと願っている。紙一重のところで活動している美術家の宿命かもしれないこのむきだしの神経。しかし納得はできない。持ってて悪いか?むきだしの神経を。

そして思いを何らかの形で表現しようとする。

たとえ「産みの苦しみ」が伴うとしても、我々は表現することをやめないだろう。

…痛覚の姿。

悲しいほど敏感な痛覚。

鉄パイプの隙間からのぞく外界は。

このドアは内側からは開けられない造りになっている。下部の窓からは食事を出し入れするのだという。内側から外側へできる訴えは音を出すことと叩くことぐらい。ここは患者を様々な危害から守るための部屋。

痛みの記憶とともに我々は考える。

考え続ける。

きっと昨今よくいわれる「癒し」などというものとはほど遠い世界だったであろう。


この展示、たった2日間とはもったいない気がする。

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