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破天荒にもほどがある -岩野泡鳴の「自伝的小説」

以前、自然主義作家の徳田秋声について書きましたが、日本の近代文学において、「自然主義文学→私小説」という系譜があります。その「私小説」の中に私が勝手に「悲惨自賛小説」と呼んでいる作品群があります。
 
主人公は貧乏な作家で、「飲む、打つ、買う」に溺れています。妻子はいるが、それを顧みずに愛人がいて、絶えず小説が書けないことを悩みつつ、大抵何でこんなにモテるのか分からない位に卑屈で、性格が悪い。

そんな男が、妻子や愛人や友人といざこざを起こす生活破綻の記録、みたいなイメージの作品です。




 
自然主義文学以降だと、勿論太宰治を代表として、檀一雄、葛西善蔵、嘉村磯多、島尾敏雄。ちょっとほのぼの味を加えて宇野浩二。平成以降は車谷長吉と西村賢太でしょうか。

西村賢太が芥川賞を獲った時、島田雅彦が選評で「悪行自慢のお家芸」と評していたと思いますが、正に的を射た言葉だと思います。
 
無論、私生活はさておき、それぞれに優れた作家ではあります。しかし、これらのおそらくは元祖的な存在でありながら、その度合いが突き抜けてしまっている作家がいます。それが、自然主義文学の異端、岩野泡鳴です。
 
彼の「自伝五部作」(長い長い五部作です)は、その異様な熱気、誇大妄想度、破天荒でけったいな行動原理によって、最早自然主義文学とも呼べない、おかしな何かになっています。


岩野泡鳴


 
岩野泡鳴は、1873年生まれ。英語教師として生活しながら、小説、詩、戯曲などを書き続け、31歳の時、私小説『耽溺』で、自然主義文学作家として認められます。

しかし、愛人を立て続けにつくり、お決まりの心中未遂騒動を起こし、生涯に2回離婚。当然、いずれも自身に愛人が出来てからの離婚です。
 
長大な「自伝五部作」を残したものの、メジャーな作家とは言えないまま、1920年、47歳で死去しています。




 
その自伝五部作の第1篇『発展』は、一応3人称の語りで距離をとっていますが、泡鳴の分身である「義雄」が主人公です。つまり、この義雄は、英語教師の傍ら、作品を創り続ける貧乏作家です。
 
義雄は年がら年中いろんな持病や苦痛を抱えては、妻の千代子を罵倒し、「自我の絶対孤独」を主張し、小説や詩を発表しますが、原稿料の取り立てにも苦慮しています。




 
ちなみに、泡鳴自身は、『神秘的半獣主義』なる文章を発表して、自身の文学のマニフェストとしています。このおどろおどろしい名前の思想とは、一体何なのか。私もよく分かりません。
 
とりあえず脱線の多い文章を読んでみると、人間の善悪や感情に囚われず、情熱と強い意志を持てば、現実を超えた何かすごい神秘的な世界に触れられる、みたいな内容です。
 
それゆえでしょうか、義雄は多くの私小説主人公と違って、異様に行動力があり(うまくいくとは言っていない)、人を罵倒しまくっても、すぐ忘れて誰かを恨むということがあまりなく(だからいいとは言っていない)、何か一見難しそうな詩を書いています(いい作品とは言っていない)。

子供が亡くなっても、知らんと妻の千代子を罵倒するのは、何というか、悪意も憎しみもなく、とにかく現実を超えた熱に取り憑かれている感じがあります。


 
そんな彼は自分の芸術を理解しない千代子に不満をたれつつ、ある日、女優志願のお鳥を愛人にします。しかも、義雄の淋病までうつしてしまう始末。これは、現在も問題になっている不適切な関係で、被害を受けた女性のお鳥は・・・

「野呂間! 意久地なし!」
「・・・」
「かかアの前ぢや、何とも云へんぢやないか?」
「あれでもかい?」
「さう、さ。―では、離縁の離の字でも云ふたか?」
「云つて、何の役に立つ?」
「役に立たんでもかい? めかけ、めかけ、と云はれて、こつちは人聴きが悪いぢやないか?」

旧漢字を一部修正


・・・非常に雄弁且つ直截に、義雄を罵倒します。何というか、義雄自身が、ところかまわず相手を罵倒しまくるので、相手も負けず劣らず、勢いだけで生きているような人間ばかりが集まってくる感があります。
 
それは、本妻の千代子も同じです。千代子とお鳥と義雄が一堂に会した場面では、修羅場と呼ぶには勢いがありすぎる罵倒合戦になります。

「わたしが帰って来てからでも独歩や秋夢のような悪友と交際して、隠し女を持って見たり、濱町遊びを覚えたりしたんです」
「そりやア、お前、観察が足りないので(中略)そうして俺の行動と努力が各方面に大胆勇猛になつて来ただけのことだ」
「そんな六つかしいことア分りませんが、ね、待ち合に行つたり、めかけを持ったりしているものがー」
「めかけぢやない!」
聴き咎めたのはお鳥だ。
「何です」と、今にも飛び掛かりさうにして、「めかけぢやありませんか?」
「違ふ!」
「めかけです!」
「違ふ! 女房が女房らしうせなんだから、人にまでこんな迷惑や病気などをかけるようになつたのだ!」

旧漢字を一部修正


もしかすると、太宰が一生かけても小説に描けなかった場面を、泡鳴は描けたと言えるかもしれません。いや、だからといって偉くも何ともないのですが。



 
そんな義雄ですが、とにかく金もないし、小説を発表してもうまくいかない。そこで、突如、自宅を抵当に入れて、北海道に事業を起こしに行きます。それが、第1篇『発展』の末尾。破天荒ですね。
 
そして、読者全員が絶対うまくいくはずがないと考えるであろう、その北国行が、第2篇『毒薬を飲む女』(タイトル通りのことが起こります)、第3篇『放浪』で語られていきます。
 
しかし、まどろっこしいところを読み飛ばしつつ、何だか段々とその勢いにあてられてくる感があります。彼の作品はとにかく激しい会話が主体です。地の三人称で説明する部分が短く冷静で、切れ味があるため、余計に会話の熱が突き抜けてやってくるのです。
 
そして、第4篇『断橋』になると、いよいよどん詰まりになり、第5篇『憑き物』でクライマックスを迎えます。彼の作品で、ある意味一番有名な箇所は、『憑き物』の、北国での心中未遂場面でしょう。
 
ここでの切れ味は抜群で、ここまで滑稽かつ悲惨で、ある種の爽快感がある場面は、なかなかないのではないでしょうか。心中なのに? と思うかもしれませんが、彼の作品を評論する者の多くが絶賛する、この場面。
ちなみに私は初読時に爆笑しました。



 
この小説について、小説家の安岡章太郎は、こう書いています。
 

岩野泡鳴の『放浪』五部作は、傑作である。今日の常識からは、問題の箇所もあろうが、千五百枚ほどの全編に生命と自我の意欲が漲って、特に主人公と彼をめぐる女たちとの交渉や会話には、溌溂とした気迫がある。

安岡章太郎『歴史への感情旅行』


そして、義雄について、彼の「自身と自我の独立」を通俗的な願望から出たものではなく、寧ろ一種の自己献身が感じられると続けています。
 
これは確かにその通りで、義雄には、周囲に翻弄されつつ、小説や事業の背後にある、何か大きなものへの献身によって、ひたすら身を粉にしている感触があります。それこそが、つまりは、破天荒さと呼べるのかもしれません。
 
そしてその破天荒が、時折(本当に時折ですが)、一種の敬虔さをも感じさせるのが、この作品が並みの私小説から逸脱しているところなのでしょう。



 
 
ただし、この作品を、諸手を挙げて推薦することは、私には出来ないです。安岡が書いている通り、現代だと、不適切にもほどがある表現が、それなりに多い。ここでは書けない、セーフかアウトかで言うと、アウトど真ん中のアウトのようなものもあります。
 
今まで私がエッセイに書いたもので、モーツァルトとかジャズとか映画とかであれば、何のためらいもなく、心から推薦します。しかしこの作品はかなり人を選びます。
 
名作とはとても言えないですし、長くて退屈に思ったり、不快に思ったりする人は多いと思うので、読むのはあくまで自己責任でお願いしますと思っています。



 
それでも、この作品について書きたかったのは、やはり、こうした文学もこの世にはあるのだというのを、自分でも再認識したかったからかもしれません。劇薬で合法すれすれの、ある種の力を持った「ヤバイ」何か。
 
あらゆる劇薬と同様、破天荒は、使用上の用法、注意をよく守って服用しないといけない、ということなのでしょう。
 


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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