歴史の嵐の中で立つこと -『ウィトゲンシュタイン家の人々』の魅力【エッセイ#50】
小説やテレビドラマにあるいわゆる「長篇大河ドラマ」の面白さの一つに、一緒に登場人物と時を過ごす感覚を味わえるというものがあります。
何せ長い分、波瀾万丈なエピソードが多く、複雑に入り組んだりしているため、まず体験するこちらも時間を必要とする。そして、少々のだれ場などは問題ではなく、寧ろ、総体としての「時の印象」が重要となる、それが、一緒に時を過ごすということなのでしょう。
アレクサンダー=ウォーのノンフィクション『ウィトゲンシュタイン家の人々』は、そんな「大河ドラマ」の中でも、重厚で面白い、私の中で最近の収穫でした。入り組んだ「歴史」と「時」を味わえる、文庫本にして、500頁以上の大作です。
いわゆる「一族ものの大河ドラマ」であり、小説でも、トーマス=マン『ブッデンブローク家の人々』、マルタン=デュ・カール『チボー家の人々』、北杜夫『楡家の人々』等、名作が存在します。しかも、これはフィクションでなく、実話。
しかし、とんでもない実話です。何せ、ここで描かれるウィトゲンシュタイン家は、19世紀後半ヨーロッパ屈指の、超のつく大金持ち実業家一族。しかも出てくる人物が、ほぼ全員、音楽や芸術の才能を持ちながら、死に取り憑かれ、最高の才能を発揮するか、非業の死を遂げるかのどちらかになっているという、最早、小説家でもなかなか思いつかない一族なのです。
まずは、ウィトゲンシュタイン家の財産を築き上げた、父カールの波乱万丈の人生がさらっと語られます。その二人の子供の悲劇的な最期に触れられたのち、実質的な二人の主人公、四男パウル、そして、末っ子の五男ルートウィヒに焦点が移ります。
このパウルは、最高のピアノの才能を持ちながら、第一次世界大戦で右腕を失い、しかも、左腕だけで活動を行い、ラヴェルから有名な『左手のためのピアノ協奏曲』を贈られた名ピアニスト。
そして、ケンブリッジに留学して、バートランド=ラッセルに師事したルートウィヒは、哲学者となります。『論理哲学論考』で名高い、二十世紀を代表する哲学者、ルートウィヒ=ウィトゲンシュタインです。
こんな一家なため、著名な芸術家がぽんぽんと何気なく出てきます。四女マルガレーテ(グレートル)の肖像画を描くのは、あのグスタフ=クリムト(実際にその絵は残っています)。ウィトゲンシュタイン家の家庭内演奏会に来るのは、ブラームス、リヒャルト=シュトラウス、ツェムリンスキー、シェーンベルク、マーラー。
パウルがプロになってからは、ラヴェルやコルンゴルト、プロコフィエフ、ブリテンも出てきます。音楽的才能があり、悲劇的な生を送った母レオポルティーネのために、音楽だけで繋がっていた子供たちの性質が伺われる、殆ど20世紀前半の音楽史のような、あまりにも豪華な共演です。
そうそう、もう一人、芸術家になり損ねた男ですが、ルートウィヒのギムナジウム(日本の高校のようなところ)時代の同級生の話も、ほんの少しあります。ルートウィヒと同様に、学校では不適格者の烙印を押され、教師たちへの不満を述べていたその少年の名前は、アドルフ=ヒトラーといいました。
しかし、左手のピアニストとしてのパウルの再デビューと、第一次世界大戦の終焉後、物語は後半になるにつれて、混沌の度合いを増していきます。
何せ物凄い財産のため、戦後インフレによる財産プロテクトの問題、そして、ナチス・ドイツによる資産相続と没収の攻防と、あらゆる争いに巻き込まれていきます。血統と互いの財産権を巡り、スパイまで飛び出してと、果てしない泥沼に陥ります。
そうなると、家族も離散して、ではあるのですが、元々特に男性陣が変人の一家のため、あまり悲惨な感じがしないのが、何とも奇妙な感覚です。
それは特に、パウルのエキセントリックな行動によるものも大きいです。彼こそは、兄たちの悲劇的な死を間近でみて、しかもピアニストとして致命的な右腕の喪失まで体験しながら、尚且つ生き抜こうとする力を持っていました。それは同時に、ウィトゲンシュタインという呪われた一家から離れようとする力でもありました。そうした彼の動きを通して、一家の陰影もまた深く見えてくるのです。
おそらく、この作品をもっともよく表しているのは、ルートウィヒの言葉でしょう。ある日、銀行の全ての自分の預金を放棄し、小学校の教師として生活していくことにしたルートウィヒに、姉の長女ヘルミーネは驚愕します。そんなヘルミーネに、ルートウィヒはこう言います。
まさに、この本は、人にはあまる歴史の大風をまともに受けた一家の、奇妙な動きそのものと言ってもよいでしょう。常人は唖然と見守るしかないその動きは、また同時に、何としても倒れずに前に進む人間の姿を捉えた、一つの普遍性をも備えているとも言えます。機会がありましたら、ぜひ読んでいただければと思います。
余談ですが、500頁の大作を読み終えて、なぜか私の頭に残っているのは、ルートウィヒとパウルの馬鹿馬鹿しい手紙のやり取りだったり、一家全員で音楽を奏でていた姿だったりします。色々問題を抱えつつも、その瞬間だけは幸福で結束の固い家族とみられていた、最初の頃の姿です。
そして、そうした光景を覚えて、冒頭のエピグラフに戻ると、この家族にしか分からなかった、何か不思議な絆のようなものを、感じてしまうのでした。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。
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