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【北海道開拓の思い出】#12 青函連絡船と日本海沿いの汽車旅

昭和19年10月1日に祖母死亡の電報が来た。父はすぐ富山へ行く支度をしていた。何十年か振りで母の最期だけ見送りたかったのだろう。その父の支度を見て私も行きたいと云うと、父はすぐ支度をしなさいと云った。何もないのに何日くらいいるのかも分からないのに姉のよそ行きなどを風呂敷に包んだ。

2日の朝、富内駅から富山の入善と云う駅までの切符を2枚100円で買った。私は5歳の時に登川から幾春別へ行く汽車に乗った時以来2回目だった。福山で生まれた子供は汽車を見たことがないのがほとんどだったと思う。

函館で連絡船に乗るとき、桟橋を渡ることの恐ろしかったこと。ザブンザブンと波がぶつかって桟橋が揺れて船へ乗れるかどうかと、とても恐ろしかった。

連絡船に乗ってから間もなく、父が海を見せるために私の手を引いて甲板へ出た。その時、初めて海を見た。ずいぶん広々としているなあと海を見ていると「甲板へ出ないでください」と云われてすぐ戻った。

青森から汽車に乗り、日本海を走る。行けども行けどもどこまでも赤い実のリンゴが窓から手を伸ばせばとれるほど近くになっている。

随分たってから崖のかぶさっているような所へ行った。父が「親不知子不知(おやしらずこしらず)」という所だと教えてくれた。その時は何でその名前なのかと思うくらいだった。富山までもうすぐだと云われたが、なかなか着かなかった。

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