ぬめりうねりくねりするり 泉太郎
あっという間に新年、かと思っていたら、時すでに1月も後半。
過ぎ去ってしまった一年を振り返るのに「あ」の一文字だけではとても足りはしませんが、年末から新年にかけては、本当に「あ」っと言う間でこと足りるので驚きます。
実際には「あ」という一文字すらつけ入る隙間もないほどに、年の終わりに次の始まりがぴったり食いついてやってきます。せわしない師走の先にはすでに新年の謹みが見え隠れし、年末の大掃除の内にはまるで元旦の晴れやかさがあらかじめ潜んでいるようです。
一年の始まりも、一日の始まりも、一秒の始まりも、気が付けばいつのまにか始まっており、今というこの瞬間は、いくらつかもうとしてみたところで、するりとその手の内から逃げだします。
どうやら芸術も同じ宿命を背負っているそうで、20世紀ドイツを代表する思想家のテオドール・アドルノは、芸術とはなにか、についてこう語っています。
アドルノのいう「芸術」とは、前提としてこれから来たるべき姿を常に内に含み、流動し続けるものとして語られ、彼はそれを、言い切られず、閉じられない、「開かれた概念」だと言います。
これこそが芸術だ、と、つかもうとすれば、するりとすべって抜け出していってしまうもの。
それは、まるで、
永遠につかみ取ることのできない、
うなぎ、
のようなものでしょうか。
そんなことを思い起こさせる作家がいます。
泉太郎というアーティストです。
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泉太郎は日本の現代美術作家。映像作品を中心に、様々な素材を用いて有機的で不可思議な展覧会空間を組み立てます。人の知覚に関する広く鋭い考察をもとに制作を続け、その実践は常に素朴で挑戦的です。近年ではパリやバーゼルなどの大型美術館でも展覧会を開催し、世界的に高い評価を得ています。
泉は自身の作品で、ぬらりとしたうなぎに「かたち」を与えていました。
つかもうとすれば手の内からするりと抜け出し逃げていくうなぎを鉄製の囲いに閉じ込めることで、つかむことのできないうなぎに、一時かたちを与えています。
会場の一角に置かれた6つのモニターには、それぞれ違うかたちの囲いに閉じ込められたうなぎが映し出されています。遠くから見るとほぼ動くことなく静止画のように思えますが、よく見れば水面にちらつく小さな光の揺らめきと、それに呼応する薄く鈍い鋼鉄の反射、周囲の床面にとび散った大小不定形な水のたまりと、囲いにそっと身を添わせ、静かにぬめりうねりくねりゆらめくなまめかしい体表。
しばらく眺めていると、左端の画面から一匹のうなぎがとび跳ねて、囲いの外へと逃げ出していきました。
つかみ取れないうなぎを囲いに収めることは、うごめき続けるうなぎにひとつの仮のかたちを与えることです。それは画面という囲いに収められ、映像として一時のかたちを与えられた現在というものの在り方と重なります。
かつてこの世のすべては本に書き留められるために在り、そして写真に撮られるために在る、と語られた時代がありました。そして世界は今もなお、新しい囲いに収められるため存在しています。
うなぎが収められていた鉄の囲いはアルファベット、文字のかたちをした枠でした。
6つの画面に並んだ記号は「 so mean 」。訳せば「あら、いじわるね」といったところでしょうか。
作品としてこの言葉に意味があるのかないのかはわかりません。またこの言葉の意味について説明することに意味があるのかどうかもわかりません。
あるひとつの表現は、下手な翻訳で簡単に台無しになってしまうことがあります。
また作者の意図をどれだけ汲もうが、常に作者の言うことだけが正しいとも限りません。実はときに作品は、作者を少しだけ超えています。
中身があるようでないような、そんな意味の「 so mean 」。
うなぎが跳んでいったあとに、残るのは意味の抜け殻です。
しかしそもそも芸術に言葉で意味を付け足すことは、本当に必要なことなのでしょうか。作品を見て感じること、それがすべてで、それ以上にとって付け足す言葉なんて、いわゆる蛇足と呼ばれるものではないのでしょうか。
足がないからこそ蛇は蛇なのであって、蛇に足があるのであればそれはもはや蛇ではありません。あり余る余計なもの、それこそが蛇足であって、蛇にとっての長い足など無用の長物となりえます。
中国の古い故事によれば、鰻も蛇も似たようなものだが、益のない蛇と違って鰻は実益がある(美味しい)ので、漁師も喜んで鰻は捕る、と伝えられていますが、それにちなんでしまえば、蛇、それこそがそもそも無用の長物とも言えそうです。
伝えるのは紀元前二世紀頃までに中国で編まれた韓非子の一節ですが、ほぼ同じ時代に編まれた戦国策に記されているのが蛇足についての一文です。蛇の絵を最初に書き上げた者が、大杯に注がれた酒を飲むことができる、といった場面で、一番に絵を描きあげた者が大杯を片手にしたまま、調子に乗って蛇に足を描いたことから、二番目に描き上げた者が「それは蛇ではない」と言って、盃を取り上げて飲み干した、というお話。
しかし、そもそも足は足すから足なのであって、足さない足ならわざわざ足と書く必要があるのでしょうか。長物だからこその足と考えることもできますし、むしろ逆に長くもない足など、それこそ無用の長物でしかなさそうです。
ましてや蛇に足は実際なくとも、蛇に足はありうる、という可能性すらも蛇から奪ってしまうことにはいささか考慮が必要なのかもしれません。美しい無数の足を持つ蛇を人が想像することに、はたして意味はないのでしょうか。
最終的な結論は蛇に聞いてみるほかないのでしょうが、もしかしたら、それは余計なことなのかもしれません。なぜなら蛇は足などなくても前へ進むことができるからです。
実際のところ、蛇はその肋骨と腹板と呼ばれる鱗を利用して自身を前方へと進ませています。蛇は肋骨と連動する鱗を縮ませたり伸ばしたりしながら、まるでアコーディオンのように自身の腹を、まさに蛇腹のようにして、前へ前へと進みます。
だとするならば、人間の考えうる美しい無数の蛇の足など、しょせんは心ばかりのものでしょう。蛇はすでに足さずとも、その最上の足を持っています。構造の違いはあれど、前へ進むという機能を考えれば、蛇の鱗は人のつま先にあたり、肋骨は足の骨、つまり、蛇の蛇腹は蛇足です。
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行きつ戻りつ考えて、無駄を足し、芯を掘り、意味を知り、ぬかを喜ぶ。
作家が作品制作を通して行っていることは、「芸術とはなにか」を提示することではありません。それはむしろ「芸術とはなにか」という枠づけから逃げゆくものの姿を目を凝らし見つめ続ける行為であり、またそれを懲りずにつかもうとし続ける行為です。
枠づけながらも同時にそこから漏れ出ていくものを見つめ、閉じられないものを閉じようともせず、滑沢を摩擦に変え、古さと新しさを交互に入れ替えて、意味から意味を引きはがし、認識を更新します。
いえ、それはもしかしたらもっと素朴に果敢で、きっと走りながら食べ、剝かれながら羽ばたき、切りながら肩まで浸かり、ねじりながら眠りにつくような、そんな作業なのかもしれません。
床に飛び散った水滴と鈍い鉄枠の反射、一定の呼吸、ぬるい水のひそやかな揺らめき、それらのすべてにうなぎが収められているように、逃げていくうなぎを目で追いながら、その手に生まれるぬめりもまた確かなうなぎと感覚します。
東京オペラシティ アートギャラリー
泉太郎展 「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.」
2023.01.18[水] - 03.26[日]
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