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フィンセント・ファン・ゴッホ 3

耳を切り落としたそのあとで

耳の怪我はじきによくなりましたが、フィンセントは少しずつ精神的に追い詰められていきます。近隣の住民たちからも気味悪がられて、フィンセントを精神病院へ収監するよう市長に求める請願書まで提出されてしまいました。結局5月にはアルルから北へ20キロほど行ったところにあるサンレミという地域にある元修道院だった病院にフィンセントは入院します。病院でフィンセントは絵を描くことが許され、すぐにこの病院とその周辺は彼の絵画の主要なモチーフとなっていきました。まず窓から見える景色を描き、次に精神病院の庭を描き、そして病院周辺の景色、例えばヒノキのある風景、オリーブの木、そして「星月夜」を描いています。

フィンセントの体調は回復に向かったかと思えば、突発的な発作が起こったりして安定しません。ときにフィンセントは数週間も部屋から出ずに、自画像を何枚も描いたり、自分で所有していたドラクロワやミレーなどのモノクロ版画を見ながら、それに色をつけて模写をしています。巨匠たちの絵を模写することについてフィンセントは、現代の音楽家がベートーベンの楽曲を弾くことで、ベートーベンを解釈し直すようなものだと言っています。

テオとヨー

春に結婚をしたテオとヨーは、夏に妊娠がわかります。その際にフィンセントは弟夫婦にお祝いのお便りを送っていますが、同時にそこには不安な気持ちも入り混じっているのがみてとれます。テオの妻ヨーはアムステルダムの良家の娘で、イギリスの大英博物館で働いた後、英語教師として働いていました。パリに住んでいたヨーの兄を通じて、テオはヨーと知り合いました。ヨーを気に入ったテオは猛烈な求婚をし、はじめは断っていたヨーも一年後にやっとそれを承諾して結婚に至ります。フィンセントやテオの妹は、ヨーの印象について「とても賢く、そして優しい女性」と端的に語っています。


1989年秋から1890年春までに、テオはフィンセントの絵を3つの大きな前衛芸術展に出展します。この時、初めてフィンセントは画家として広く一般に知られることになります。その結果、評論家アルベール・オーリエによって、「天才」と名指された熱狂的な批評が美術雑誌に掲載され、高い評価を得ることになります。またそのうちのひとつの展覧会を見たクロード・モネは「フィンセントの作品がもっとも素晴らしかった」と語っています。

オーヴェル・シュル・オワーズへ

フィンセントは少しずつ、またパリへ戻りたいという気持ちになっていました。しかしそのための治療を受けられる場所が必要でした。最終的にパリから30キロほど離れたオーヴェル・シュル・オワーズで、美術愛好家で医師のポール・ガシェがフィンセントの面倒を見てくれることになりました。

1890年5月、フィンセントは、テオとその妻ヨー、そして1月末に誕生した同じくフィンセントと名付けられたテオの息子が住むパリに到着しました。数日間はテオの家で過ごしましたが、気疲れに耐えられず早々にガシェ医師のいるパリ郊外オーヴェルへと旅立ちます。


ちょうどそのころテオは会社の上司との折り合いが悪くなってきており、グーピル商会から独立をして、自らの画廊を持とうかと考えていました。それには共同出資者が必要でしたが、そこでヨーの兄であるドリーズが名乗り出ます。しかしドリーズの提示する分け前にテオは納得がいきません。しかしグーピル商会の上司が軽視している新しい現代画家たちの需要は増え続け、彼らとつながりのあるテオにとっては大きなチャンスでもありました。それに対してフィンセントはテオと合同の会社を設立する夢をまだあきらめてはいませんでした。しかしテオにとって、妻や生まれたての子供だけでなく、兄までを養わなければならない今、会社を辞めて独立することは経済的に大きな賭けでした。

オーヴェル・シュル・オワーズでのフィンセントは相変わらず絵を描き続ける毎日でした。彼はこの土地にいた70日の間で、約80枚の絵画と60枚のドローイングを描いています。フィンセントはテオに、オーヴェルがいかに素晴らしいところか、そしてぜひ一家で遊びに来るように、またなんならオーヴェルに引っ越してこないか、と手紙で催促をしています。6月8日の日曜日にテオとヨーが息子を連れてオーヴェルを訪れた際には、フィンセントはとても喜び、そのすぐ二日後には「日曜日は本当に素晴らしい思い出の一日になった。きみたちはどうかまたすぐに戻ってこなければならないよ。」と手紙を書いています。


6月30日にテオはフィンセントへ、家庭の問題、上司との対立、会社独立の計画や家族の体調不良など自身の悩みを長い手紙にして送っています。

7月6日、その手紙を受けてか、テオを心配するフィンセントはパリを訪れます。そしてフィンセントはテオとドリーズに対して、フィンセントの夢であるテオとの共同会社の設立について話します。しかしドリーズはそれをあっけなく断りました。フィンセントは久しぶりに来たパリにしばらくの間滞在するつもりでしたし、多くの友人の訪問の約束があったにも関わらず、それを待つこともなくオーヴェルに帰ってしまいました。テオとヨーはフィンセントが意気消沈していたことに気が付いていましたが、それをどうすることもできませんでした。

7月25日 テオからヨーヘ

7月25日、テオは妻のヨーに手紙を書いています。「もしフィンセントが自分の絵を買ってくれる人たちを見つけることができたとしても、それまでにはこれからまだずっと長い時間が必要かもしれないことが、私は怖い。でも彼があんなにも自分に対して厳しく、またあんなにも素晴らしい仕事をしているのに、私は彼を見捨てることなんかできやしない。いつになったら彼にとって幸せな時間は来るのだろう?彼は心底善良で、これまでに何度となく私を救ってくれたんだ。」

7月26日 ヨーからテオへ

7月26日、ヨーはテオへ返事の手紙を書いています。「いったいフィンセントになにがあったのでしょう? 彼がわたしたちのところへ訪れたあの日、私たちの距離は離れすぎてしまったのかしら? 私の愛する人、テオよ、私は確固たる決断をしたわ。私は二度とあなたと言い争うつもりはない。フィンセントについて、これからは常にあなたの望む通りにするわ。」

7月27日 フィンセント

7月27日、37歳のフィンセントは画材を持って、野外に絵を描きに出かけました。そこでフィンセントは自分の胸を拳銃で撃った後、そのまま旅館に戻ってきます。弾丸は肋骨にあたって跳ね返り、腹部に入ったままでした。ガシェ医師は自分が外科医ではないことを理由に弾丸を摘出することを拒否します。ガシェ医師はフィンセントを絶対安静で見守ることにして、すぐにテオへ知らせを送り、翌朝テオは兄の元に急行します。テオが着いた時点ではフィンセントはかろうじて話すことができたものの、29日午前1時半にその息は絶えました。


テオによれば、彼がベッドに横たわるフィンセントに寄り添って、この絶望からの回復を望んでいることを伝えた時、フィンセントはテオにそっと「悲しみは永遠に続くよ」と答えたと言います。フィンセントは死を受け入れ、数分後に目を閉じ、その目は二度と開くことはありませんでした。

8月にテオはフィンセントの回顧展を開こうと画商のポール・デュラン・リュエルに協力を求めますが断られます。10月9日にテオは発作に襲われ倒れ、病院へ入院します。10月12日に今度は精神病院へ移されます。入院時のカルテには「慢性疾患。過労と悲しみ、精神衰弱。」と書かれていました。

テオは、兄弟で共同会社を設立する、という兄の夢を一緒に追えなかったことをひどく後悔していました。そしてフィンセントが死んでから半年後、圧倒的な罪悪感の中で、うなされるようにテオも息をひきとります。

その後

テオが死んで後、未亡人となったヨーに残されたのは、まだ1歳にもなっていない小さな息子と画家フィンセントが描いた数百枚の絵でした。ヨーはこれらをすべてオランダへ持ち帰ります。まずはアムステルダム郊外の小さな村で、宿屋を営みながら、息子を育て、小説の翻訳などをして生活し始めます。そしてテオが死んでから10年後、ヨーはアムステルダムの画家ヨハン・コーヘン・ホッスハルクと再婚をし、一家はアムステルダムへ引っ越します。家族は幸せな時間を過ごしますが、しかしその結婚から10年、もともと体の弱かった夫ヨハンは亡くなり、ヨーはまたしても未亡人となってしまいます。夫ヨハンの死後、ヨーはまず元夫テオの墓を掘り起こし、兄フィンセントの隣に埋葬しなおします。そしてこの時から、ヨーは再びファン・ゴッホという性を名乗り始めたのです。

これまでにフィンセントの絵の展覧会を企画し、ギャラリーと提携し、その作品を世に出してきたヨーでしたが、ここからフィンセントとテオの往復書簡を全三巻の書簡集として編集し出版します。次にゴッホ兄弟による書簡のやりとりを追った展覧会を開催し、ファン・ゴッホ兄弟の情熱的で献身的な関係は瞬く間に伝説となってヨーロッパ中を駆け巡ります。

ヨーは手元に残ったフィンセントの絵を完璧に管理し、絵を売ることを第一優先としませんでした。ヨーは本当に良い作品を手元に残したまま展覧会に出品し、それを巡回させることで作品を世に広めていきました。名作を安売りすることなく、最終的に現在アムステルダムにあるファン・ゴッホ美術館の基礎となるコレクションをヨーは守りきることができたのです。ヨーはテオと同じく、どの作品が素晴らしいかを判断できる確かな目を持っていました。

その後、ヨーはさらにニューヨークへ移り、そこでフィンセントの手紙を英訳する仕事を開始します。晩年にはもう一度オランダへ戻り、62歳で亡くなっています。彼女の死の際においてもまだフィンセントのすべての手紙の翻訳と編集、出版は完了してはおらず、その後、その仕事は息子のフィンセントに受け継がれました。


つづく

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