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ネタ枯れの季節に ― 自分探検家


さいきん、ネタに困るという方が目につきます。

連続投稿を思ってる人には、たいへんでしょう。

わたしも1000日連続で書いたことがあり、毎日必死でした。

なんだけれども、ネタ探しなんてしたこと無かったので探す面白さもあると思う。

素直な時ほど、ネタは来てくれる気がします。僭越ながら書かせてください。


「ネタ」と本人は言うのですが、何で毎日書くのかというと、自分の小宇宙を探索したいのかもしれない。

内にはどんな星があって、どんな山や川、お花が咲くのかを、実は今までよく知らなかった。

あるいは、自分のことなのに、ずっと記憶も想いも部屋中にとっ散らかしのままで生きてたのかもしれない。

おぉーい、ちょっと休ませてくれ、座って見まわしたいんだよ・・みたいなタイミングが来たでしょう。


たとえば、いくつかの恋をし、働き、結婚し、子どもを産み、育てる、働く。

小学校に上がった時から、目白押しのイベント濁流に翻弄され続けて来ました。

あれよあれよという間に、次のステージに押し出されて行く。

しかも、進学も恋も就職も結婚や出産も、どれもこれも初めてでした。

はじめて舞台にあがった役者なのに、さあ、ぶっつけ本番だ、演じて見ろ!といきなり人生の幕が上がる。

しかも、ほとんど他人のアドバイスは役に立たない。

なぜなら、みんなたった1つの細い道しか辿っていないから。

なのに、百戦錬磨みたいなことを言ってわたしを混乱させてくる。

あんまり他人の言葉を信じすぎてきて、行き詰まる。

いらっとし、「お前もほんとは自信なんかないんじゃろが!」と広島あたりの発話をしてみたくなる。



誰もが、人生の濁流下りを無我夢中で凌いで来ました。

いや、そればかりでも無かったのです。

ときどき、整理整頓し、掃除洗濯をした。

やり終えると、なぜかすっきりするという体験も実はして来た。

ふいに、あっ、ブログ書いて発信してみたいっとあなたはなぜか思った。

発信してみる。

これも初めてなので、右も左も分からない。でも、かなり真剣出してる自分がいる。

と、連続投稿なんていう文字が目に入って来る。

書くのは難しいけれど、面白かったりする。世界の誰かが反応してもくれる。

興味や好奇心、他者と交流する。たしかに、メリットがある・・。

でも、じぶんを整理して言葉で表現するなんて、ほとんど経験が無いのです。むずかしぃ・・。

で、しばらくすると、「ネタが・・」ということになるんだと思う。


そこに、辞めちゃおうかなぁとか、頭をよぎる。

ほとんど誰もこんな話、読んでくれないし。きっと、文才が無いんだし。

仕事のような強制でもないんだし。楽しくないのに続けるなんてへんだし。

もっとうまい人って、ごまんと居るんだし、なにもわたしが・・。

忙しいし、ネタも尽きて来たみたいだし。

「・・・し」がいっぱい。

辞めちゃおうかなぁと、頭をよぎる。

でも、なんだか、辞めるにはまだ未練があることにも気づいていると思います。

苦しさもあるけど、楽しさもある、たぶん。お仲間の声も嬉しいなぁ・・。

なんだろこれ?


本人は意識してないと思いますが、スッキリしないといけない時期に来てるのかもしれません。

自分の小宇宙を探索し、今の位置をつかみたいのだと思います。

このまま、濁流に流されるには、あまりに分別ある大人になっていたのです。

実際、ブログに10代、20代の人たちの参入はすごく少ない。

激流くだりに夢中になってる当人には、振り返りポイントはもうすこし先になるでしょう。

ポイントに至ったひとにとって、これは切実な行為です。

趣味や気晴らしにしては真剣すぎるでしょ?惹かれるでしょ?


これで良かったんだ、これじゃだめだとかいう点をリストアップしたい。

ただ、ノートに箇条書きで書き出すのとは違うのです。

1つ1つの記事を書いて行き、そうして1つのかたまりを作る。

たとえば、1か月かたまり、半年かたまり、みたいな。

リストと言うよりも、総体としてのあらわしをして、「わたし」を掴むでしょう。

分析的に「わたしとは」を書き出すのとは違うのです。

1つ1つ記事を毎日書くというプロセス自体に意味がある。


1つ1つは、とりたててわたしを整理してもいないし、わたしの課題を述べてはいません。

かたまりという大きな流れの中で、言葉では言い表せない「わたし」というものを浮上させてゆく。

思考というよりも、感性、感覚として捕まえたいのです。

思考や論理でいくら理解しても、にんげんは行動には移れませんから。


一番そばにいるくせに自分が一番見えない「わたし」というものにアプローチしていると思います。

言葉では現わせない「わたし」を、言葉から成るかたまりたちを使って現わそうとする。

本来とっても難しいことをここでチャレンジしているわけです。

だから、面白い。だから、悩ましい。

だから、辞めたくなるし、依然として続けたくもある。

探検家は、いつも又裂きというアンビバレントな感情を持つでしょう。

13年ほど書き続けたわたしは、今も辞めたくなるし、依然として続けたくもある。



こんな話がある、こんな人がいる、こんなところに行って来たという外世界の出来事よりも、

内面に起こったことや変化こそ、探索者に相応しいネタだとわたしは思います。

それを素に置けば、自分自身の目を介して見れるのですから。

これは、自分のためなのです。

整理整頓し、身ぎれいになって、また、仲間と生き直すのです。


もちろん、わたしたちは外とも濃密に繋がっている。

外と内の関係を表現しますし、外である読み手とも会話をします。

でも、基本、内向型の人の場合、外に助けてもらいながら、じぶんに触れるためのネタなのです。

だから、ネタに敬意、感謝、思いやりを持てれば、もうbest of bestです。


そういうことを、実は、何度もなんどもこれから繰り返すのです。

部屋は一度片付けても、また、乱れるから。それは仕方ないです。

じんせいとは、プロセスです。

わたしとは、プロセスです。

「こういうものである」と確定させたいでしょうが、ずーっと流動して行き、留まることはないもの。

だから、せっせと書いては自分に見せてあげる。

1つ2つ、書いたからといって、見事な認識なんて来ません。

でも、これはじぶんのためなのです。

素に自分を置いて行けば、結果として自分が分かる。

自分が自分に添うて行く。

これ以外の願いって、この世にあるんでしょうか?


ネタに困ったなぁと思うたびに、ああ、これはプロセスなんだと、

結果はずっと先に成らないと分からないもので、何も期待なんかできないんだと、

でも、この1つ1つが確かにわたし自身であることだけは間違いないと、

そう思いながらずーっとわたしは書いている。



P.S.

ネタ、という話なんですが、ほんとはリアルな自分自身へ探りを入れたいでしょう。

その探り方、添い方、素直さを他者は直感的に理解します。共感します。


どんなふうに小宇宙を探索してもいいのだけれど、

いちおう、洞窟探検家なんだもの、「洞窟」が無いと入れません。

探索するたびに、「ここですよ。洞窟、ここにもありますよ」というラベルがいる。

ということで、「ネタ」とはきっかけでしかないと思う。

入口を探してますということかなと思う。

ネタをどこから持ってくるかというと、そりゃもう、外か内かということになる。

きっと、寒いと出歩かない。そうすると、出来事が少なくなる。

わたしたちは、人の中にいてはじめて気づきが起こる生き物ですから。

仕方無いんです、冬は。

という霊験あらたかなアドバイスは、ありきたりですよね?へへ。

大丈夫ですっ。

ほら、光が増えてきました。

もうすぐ春が、来ます。

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