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最近、おまじないのように使ってる”ほろほろ”のこと


1.毎日書けないワケ


毎日、書くと決めてた3年間に比べると、興奮も無いかわりに圧迫感を持たずに済んでます。

こころの平穏には、いいです。

でも、毎日書いてた時のように、じぶんで書いたものに泣くなんてもうない。

ああ、、わたし、もう、ほろほろと泣けない!

クールな大人になったん?


気に入らなければUpしなければいいんだもの、気は楽です。

いや、正確に言うと、気に入らなければUpできません。

その基準が、じぶんでもよくわからない。

ただ、胸が「気に入らない!」と言えば、わたしは従わざるを得ない。

ということで、毎日、書いてはいるんだけど、許してもらえない。

最後まで許してもらえずに、ゴミ箱に行く子が死屍累々。


つたなくとも、たいしたこと言って無くとも、いいのです。

が、ちゃんと地面に足が付き、手が”実感”を掴んでいるというような確信を、胸は要求する。

素に書けているかどうかを胸は見ているんだと思う。

素に書かかれていれば、彼はOKを出す。

さぁ、どんどん書こうよって言ってくる。


思考で書く時、胸は納得してくれません。わたしはモヤモヤする。

タバコを吸いに席を立って換気扇の下に行く。

と、じぶんが思考過多なんだなとようやく気が付く。

すると、原稿を見ていた角度を胸が変えて来る。

あっ、こういうふうにすればいいんだっ、、みたいな”ひらめき”が来るのです。

やっと、じぶんがモヤモヤしてたことに気がつく。

机にしがみついてパソコンをペタペタ打ってる時には、なぜか思考に縛られていることが分からない。

前世、換気扇だったわけではないのです。

一晩寝てからとか、散歩に行くとかして、一旦離れないとこの角度は変わりません。


許される時、じぶんでも、書きながら”暖かみ”や”軽さ”が違う。

たぶん、「自由に書く」という言葉が当てはまると思う。

こころ解放される。

でも、思考で書いてる時は、書いていても面白さがないのです。

思考は必要ですが、彼が主人に成ってしまうとつまらないのしか書けない。

思考は、自分にしか興味が無い人だからでしょう。

でも、胸は、あなたと話したいのです。

この胸は、また、じぶん自身とも話がしたいのかもしれない。

そんなやり取りして、生き残った子をわたしはUpしてます。

わたしは、あなたに読んでいただきたいのですほろほろ。



2.ほろほろ鳥が鳴く


さいきん、やたらと「ほろほろ」を使ってます。

おじさんですから、実は、最初はちょっと恥ずかしかった。

でも、もう慣れました。


わたしは、ビビリだし、見栄もある。

けど、不思議なことに、この「ほろほろ」を文の最初の方に入れると、格好つけたり気張ったりが出来なくなることに気づきました。

背広着て人に会うんじゃなくて、ジャージ姿で会うぐらいに文体が違ってくる。

なるべく本音を言おうとする。

その方が、わたしにとって、”自然”なのです。

たった1つの擬音というか、オノマトペというんでしょうか、

これが最初の方に挿入されただけで、わたしの構えがガラリ変わってしまうのです。

魔法の呪文みたいな気もする。


あなたも、なぜわたしが入れてるかを不信に思っていたかもしれません。

いえ、狂ったんでも、痴ほうが進んだのでも、前世の呪いのせいでもないのです。

最近のわたしは、隙あらば「ほろほろ」を突っ込もうとする。



3.関西人の素敵さ


この「ほろほろ」がどこから来たかというと、久保田紺さんの川柳からです。

関西に来て、たまたま彼女を知りました。

今まで軽んじてた川柳という形式に目覚めさせてくれた方です。

 「あの人とはなんにもなかってんほろほろ」

わたしは、これにしびれてしまった。

もう彼女は亡くなっていますが、こういうのもあります。

 「笑ってしまった 許していないのに」

 「着ぐるみの中では笑わなくていい」

 「こんなとこで笑うか血ィ出てんのに」

 「うちに言うたら秘密ではなくなるで」

ああ、、川柳って素敵だっ!と思った。さすがだ、と関心した。

なにがどう面白いをじぶんでも説明できませんが、たぶん、関西らしくて良いのです。


わたしは、コテコテの関西人をさいきん、目指している。

わざわざ、何も知らない関西に越して来たのです。

だから、心機一転、立派な関西人になってやる!みたいな気持ち。

退職後の年齢だもの、そりゃ無理でんねんっと言われるとは思う。

けれど、やってみなきゃ、分からんで!ホンマやでっ!みたいな気合がある。


で、「あの人とはなんにもなかってんほろほろ」ですが、絶対に怪しいわけです。

東の国なら、「あの人とはなんにもなかったんです、ええ」で終わりとなる局面です。

東は、さらり事実ベースの表現を使いそこで終わりにする。他者の介入を嫌います。

でも、久保田さんは関西弁でほろほろなんていう”余計なこと”を差し挟さんだ。


何にも無かったんですと言いながら、ほろほろとわざわざ断った。

おかげで、限りなく怪しくなるわけです。

その女心の怪しさ、いい加減さ、ずるさ、腹の座り、が素敵です。

容疑者が胸張ってヘロヘロと交番の前を歩いてくみたいな。

実に、無限に怪しいんです。

何、あってん!言うてみぃ!といいたくなる。


関西の表現には、読み手との行き来があります。

ボケたら、嫌でもツッコミ返さないと、子どもでも許してもらえない地域だと噂されている。

昔あった「トラの穴」みたいな厳しい掟がござります。(タイガーマスクを知らない人、ごめんなさい)


ということで、わたしも「ほろほろ」と入れて、きりりと思考を落とすのでしょう。

けっこう、ほろほろは霊験あらたかなのです。

変わり者のわたしにしか利かないのでしょうか。知らんけど。

とにかく、書いてて、楽しいのです。

楽しい。これにすぐることって、この世に無いのです。

書くことが楽しくなくっちゃ、と思うのですほろほろ。



4.文体


思考に支配されると、あなたも書くことが辛いんじゃないでしょうか?

こう書かねばとか、これが正しいとかいう文書作法の記事があるんだけど、けっこうわたしは疑問です。

そう書けるのなら、とっくにそう書いていたわけです。

そうはできないという自分の履歴、偏り、拘りの方がある。

そのあるという事実の方がたいせつでしょう。

偏っているというのが個性なのだとしたら、そこを削ってまで書かねばならないことってあるん?

昨日、泣き虫さんのことを書きましたが、

わたしを毎回ぐいぐい引っ張った彼女の”文章”はむちゃくちゃだったんです。

読み手への敬意と自分への誠実ささえ担保できるのなら、「書き方」なんて二の次なのです。

1stは、なんといっても自由さという開放感だと思っています。

創造とは、こころ捕らわれなく動くことだもの。

つまり、なぜ書くのかは、じぶんのこころのためでしょう。

作家や詩人や芸術家に成るためじゃなくて。

わたしのこころが喜ぶためなら、「ほろほろ」だって、「おろおろ」だって何でも良いのです。きっと。

思考の構えを解くために、あなたも工夫をしていると思います。

他者の記事をいっぱいいっぱい読む。

好きな映画見てを、小説を読む。できるだけ散歩する。人とお話をいっぱいする・・。みたいな。

文章書きは、みんな苦労してると思うんですね。


あなたは、かつて、わたしに「あなたの文章には文体がある」と言ってくれました。

なんのことかと、あれからずっと考えている。

太宰治は独特の文体(スタイル)があります。

彼は、女言葉でこころを泳がせたのだと思う。

スタイルとは、書き手のこころの自由を促す様式、モード、リズムなんですね?

わたしという「偏り」に沿いながら、わたしがこころ浮き浮きと書いて行く。

その結果が、「文体(スタイル)」という言葉だったのですね?


「ほろほろ」が、わたしを道からはずれないよう囁き続けます。

この山鳥の声を聞くと、他者を求めるこころがわたしに芽生えるのです。

そして、わたしはあなたと繋がろうとする。

わたしは、頭ではなく、ちゃんとあなたに目を向け直す。

あなたに語り掛けて行く・・。

コミュニケーションしたいのですというわたしの想いを、ほろほろが連れて来る。

さいきん、わたしは、ほろほろにたすけられている。



P.S.

 「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」

奈良時代の僧侶、行基の歌です。

ふと、切なさが込み上げてくることがあります。

山奥のわたしの育った家では、たしかに山鳥の鳴く声が聞こえてた。

耳が遠い昔を覚えてる。


調べると、なんと、有名どころが使ってました。

種田山頭火の、「ほろほろほろびゆくわたくしの秋」

松尾芭蕉の、「ほろほろと、山吹散るか、滝の音」

古来からわたしたちの胸に刻まれてきた響きだったのでしょう。


「ほろほろ」を調べました。ごめんなさい、この子、りっぱな副詞でした。

1 葉や花、涙などが静かにこぼれ落ちるさま。はらはら。「山吹の花びらが—と散る」「—(と)涙を流す」

2 山鳥などの鳴く声を表す語。「山鳥が—(と)鳴く」

3 力を入れなくても、ばらばらになるさま。「口の中で—(と)崩れる」

4 大勢の人が出て行くさま。

「修法 (ずほふ) の壇こぼちて—と出づるに」〈源・夕霧〉

5 物が裂け破れるさま。

「綻 (ほころ) びは—と絶えぬ」〈源・紅葉賀〉

6 歯でかんで食べる音を表す語。

「栗などやうのものにや、—と食ふも」〈源・宿木〉


いやー、、いろんな場面で使えることが分かったのは大収穫でした。

もっと使ってくれと彼は言っている。ような気がする。

というか、先祖たちは、いろんな場面で使って来たのでした。

うまく想いを言えない時、先祖たちは「ほろほろ」と言って来た。

なぜか?


わたしとあなたなのです。

わたしが、あなたに触れる時。

わたしたちの間に情緒を奏でる子なのでしょう。

できれば、わたしは毎日、ほろほろと書いてはあなたと繋がりたいのです。

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