書くときは、すごく冷静
雨の中、桜が咲いています。ここは4分咲き。
かつて、チェーホフは『桜の園』を書いた。
いえ、全然関係ない女の園のお話ですほろほろ。
1.女の園で
「困るわぁ~」とかのじょはよく言ってた。
たとえば、福祉職場でマネージャに、「こうこうこうで」と起こってる問題について報告する。
「あの人がこんなことを言いました、こうしてました。
利用者さんに悪いんじゃないでしょうか。で、」というその「で」の先を聞いてもらえない。
マネージャは、部下からの告げ口や愚痴だと思うのでしょう、そこから先を聞きたがらない。
「まぁまぁ、そういう傾向もありますが先ずは受け止めましょう」なんて言って遮断した。
かのじょは、事実を示して、で、だからこうしたいと続けたかった。
なのに、いつもそこで終わらされた。
いいえ、かつてかのじょが告げ口や愚痴を言った記憶がわたしにまったく無い。
かのじょの(自称)味方であるわたしとしても、なんだかスッキリしない話だ。
同僚の女性と話してても、へんなことが起こるという。
「だって、あなたもそう言ってたじゃない!」って、後に同僚から十羽一からげにまとめられてしまう。
「ええ”-っ!」
かのじょは「あの人はA、B、Cを言っていた。それは利用者さんによくないから」と言った。
同僚たちも、「あの人はA、B、Cを言っていた。それは利用者さんによくないから」と言う。
ここまでは確かに同じだった。かれらは、そこで終わってしまう。
でも、かのじょは「Dではどうかしら?」と後半で提案もしていたのだ。
でも、Dという話は捨てられる。。あれ?
かのじょは、解決をしたい。だから、先ず事実を確認する。
でも、マネージャや同僚は、解決より先に、好悪の、是非の判断が先に来た。
珍しく、かのじょがD解決案までマネージャに話すことに成功する場合もあるが、
でも、「そんな、専門家みたいなことを言いますね」と退けられた。
いやいや、いくらおっとりしたかのじょでも、必死に勉強して来たのだ。
既にかれらは結論出していたのだ。愚痴だな、と。
いいえ、かのじょは、あの人が良い人か悪い人かなんて問うていない。
事実を踏まえて、問題をぜひ解決をしたい。
だから、事実の吟味が実にじつに大切なのだ。
でも、「あなたも悪口、いってたじゃん?」と後に同罪扱いとなり、かのじょは仰天する。
ええ”-っ!わたし、そんなこと言ってないっ!
みんな、水の中で泳いでるから、あんたも魚ねというのだ。
違う!わたしは、魚なんかじゃない! 解決したいイルカよっ。
魚みたいな、哺乳類よって。
事実と意見をまぜこぜし、嫌になっちゃうという。ほとほと。
2.あたまの良い人
『頭のいい人が話す前に考えていること』という本があるんだそうな(安達裕哉 著)。
わたしは読んではいなく、レビューを見た程度です。
かなり大胆なタイトルだ。
お金持ちでない者が、お金持ちに成るにはとは書けない。
著者は自分が頭が良いと思って書いているはずだけど、そんな人は素敵には思えない。
という”意見”を、わたし魚も置くとし、書かれていた”事実”はこうだ。
「感想と意見と事実を整理する。
判断に必要な情報をすくいあげる。
自分は何を求められているか考える。それが理解できるまで、しっかりと話しを聞く。
そして必要なことを言語化をする。言葉にして伝える。」
確かに。。たぶん誰も異存がない。
わたし魚も、これをやれてるような気がうっすらする。いや、とても苦手だ。
かのじょが、職場のごたごたを言う時、聞いてるふりするのに苦労している。
わたしは、女の園は触りたくない。
聞く前に、先にわたしは判断している。マネージャ魚と同じなのだ。
でも、わたしは彼らとはちょっとだけ違う。
かのじょは頭が良い人だなってずっーと思って来た。
確かに、かのじょはわたしとの間で、これをして来たのだ。
かのじょは、事実と意見をするどく弁別する。
だから、自分のことを、出来ないことがある=ダメな人、ではないとハッキリ言うのだ。
理解できるまでじっと全集中で聴く。
で、桜が咲いた陽気のせいで、なぜ、じっと解釈無く聞くのかとまた聞いてみた。
「だって、わたし、解決したいんだもん。」と仰った。
傾聴だ、受容だとかいう姿勢を、かのじょはあまり気にしてない。
とにかく、自他が置かれて困っているなら、その状況を変えたい。
かのじょが、100%集中するのは、事実を分けるためなのです。
頭がいいからじゃない。
意外なことに、へろへろと何もしないように見えるかのじょは、バリバリに解決志向なのです。
分かるとは、分けるから来たと魚世間では言い伝えられているが、そんな魚、わたしは見たこと無かった。
3.頭が良いと思われる人
こういうことをあなたは言いたいのね?とわたしに確認しに来る。
ああ、、わたしは正確に捉えられている、受容してもらっているという気になる。
ああ、、この人、分かってくれている=この人、頭が良い、となる。
頭の良い人って、ほんとは必死に事実と意見を弁別しているのだろう。
こちらを受容したくって全力で聴いてたわけじゃないのだ。
わたしは、争いなどのストレス場面では、じぶんの身が安全かを背負う。
事実を吟味する前に、攻撃するか逃げるかという防衛機構が駆動されてしまう。
かのじょの同僚やマネージャーと同じように、リアルに起こっていることを解決したいというより、先ずはじぶんを守りたいのだと思う。
たぶん、魚類はそう生きて来た。
この水中ワールドでは、「お魚ではありません」族も紛れ込んでるが、それは少数だ。
なぜ、事実と意見とを分けることを魚族は気にしていないのか。
多くの人は、考え(思考)では行動に移せない。
好きだ嫌いだ、怖い、嫌だという感情を使って行動に移している。
だから、感情はひじょうに重要だ。
仕事や、こうして書くことにも感情を使ってる。
だから、意見や感想がエモーショナルな色を帯びるのは当然だ。
しかも、とても素早く感情が起こる。
事実と感想とを分けるというのは一見正しいが、魚族の自己の生存戦略に触れてしまう。
が、感情動物のままでは、なかなか文章は書けない。
小説なんか、ぜんぜん難しい。
やっと、言いたかった本論へとたどり着いた。へへ。
4.吉本ばなな、が書く時
先の著者、安達さんは、こう書いているそうだ。
「相手が考えていることを整理して、言語化してくれるなら簡単です。
しかし上手に言語化して伝えてくれる人は、基本的にいないと考えたほうがよい。」
いや、かのじょはまるでお筆書きのように、天から降ろされた言葉で事象をズバリ表現して来る。
「あなたは、〇〇みたいに思っているのね?」と聞かれたわたしは、きみは、巫女だったのかと驚愕する。ことがある。
「はい」とわたしは素直に頷いてしまう。
単に事実を感想と弁別しているわけではないのです。
それを「上手に言語化して伝えてくれる」というワザを、このシャーマンは炸裂してくる。
で、吉本ばななさんがこう言っていた(『小説家としての生き方100箇条』)。
「書くときは、すごく冷静。
数学とか物理とか、そういう感じで書いている。
だからこそ、自分が書いていると思わないようにしないと本当に難しい。
自分以外の偉大な何かの管になっているような感じです。」
作家で「降りて来る」のをそのまま書くという人は多くて、お筆書きのような「管になっている」という。
「ガイド」の略が「管」。導管。
わたしがお慕い申しあげる、村上春樹さまもそういっている。
ほんとに、そういう作家が多い。で、彼らは巫女になって、天の物語を紡ぐ。。
ばななさんは、「書くときは、すごく冷静。数学とか物理とか、そういう感じで書いている。」という。
その時、彼らは、事実(降りて来るもの)と自分の感想とを厳密に分けているのです。
でも、それを継続している間、すごく違和感があるはずです。
だから、「自分が書いていると思わないようにしないと本当に難しい」というのです。
「管になっている」イメージが途切れると、わたしはこう思うとかいう解釈が菅に滑り込んできてしまう。
自我の解釈流れが入らないよう、必死にふんばってるでしょう。
40歳のわたしも、2日間、管になっていたことがあった。
「管になっている」わたしと、いつもの「自我わたし」とが共存していた。
2つの”わたし”がいることを明確に意識していた。
2つ居るって、すごく違和感があった。
叡智のかたまりのような「管わたし」を維持するよう、「自我わたし」を排除し続けた。
わたしは、事情ですべてを諦めていた。
目、アゴ、肩、クビ、口。すべてを脱力させていた。
そして、みんなの為だけを願った。
すらすらとシャーマンになった口が処理して行った。
たしかに、「管になってい」た。すごく冷静だった。
物語を展開する。
さまざまな脳内のエゴ同僚たちが邪魔をしてくる。
じっと、解釈なく、生成されてくる物語を見詰め続ける時空がいる。
意見と事実を分け、しっかりと話しを聞き続ける。
その時、意識空間だけでなく、体内のエネルギー配分も変わっている。
息の仕方、目の使い方、アゴや肩の緊張度合い、頭と首の角度、アゴのおとがい筋、それらがチェンジしているでしょう。
きっと、42歳のチェーホフもそんなふうにして『桜の園』を紡いだ。
彼は、外では桜の幹に斧を打ち込む音が聞こえる、と結んだ。
いえいえ、ここの桜はまだ平穏で暮らせてます。
あなたも文章を書く時、「管になっている」ことがあるのかな?
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