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泡沫 2-2

 マスターが、すっかり忘れていたらしいハンバーガーを持ってきた。思い切り頬張ると、バンズの内側がカリッと音を立てる。メニューの隅にこっそりと書かれた品なのだが、これがクラフトバーガーショップにも負けず劣らず美味しい。店の雰囲気のせいもきっと大いにあるだろうが。
 腹が減っていたので、大きめにかぶりついて飲みこんでから、若干怒りの色が収まった彼女に話しかけた。
「その人、トランスジェンダーだったんですか。それともレズビアン?」
「ではないです、普通に女の人だそうです。それに、女の人を好きになったのも初めてだって言ってました」
「あっ、そうなんですか」
「ネットおなべは、軽い気持ちで始めたみたい。いくつかアカウントを持っていて、男だったり女だったり、年齢も全く変えて、いろんな人格を演じるのを楽しむ程度で。それなのに、長い付き合いの相手が出来たのが、こともあろうに男キャラクターのアカウントだったんだって」

 なるほど、と納得した。何を隠そう、自分もネットおなべの経験があった。ただ自分の場合は、オンライン上には男として参加するのが常だった。
 男でもなく女でもない性を自認しているのに、日常を女としてのみしか過ごせない自分にとっては、オンライン上で男としての人格や時間を持つことは、自分のバランスを保つために絶対必要だったのだ。
 彼もまた、現実とは違う人格を演じることで何らかのバランスをとっていたのだろう。

「それにしても、嘘を告白してまで会いたいなんて、余程あなたのことが好きになったんですねぇ」
 彼はどれだけ「会いたい」の一言を言うために悩み、迷い、恋した相手を失うかもしれない恐怖に苛まれただろう。その恐怖に向き合い、乗り越えるのに要した2年という時間が、彼の思いの深さを物語っているように思えた。
 感動すら覚えながら自分が言うと、彼女は額に手を当てて、絞るように言った。
「でも、ずるいですよ。彼はわたしを女だと分かった上で好きになってるんです。わたしは本当のことを知らなかったのに、相手は分かった上なんだから。そんなの、全然対等じゃないです」
「確かに、向こうは付き合い始めた段階で既に、女同士だってことの葛藤は乗り越えてしまってるんですもんね。こっちとしちゃ、驚きますよね」マスターが言った。
「どうだろう?恋愛の入口で、同性を好きになってしまったって悩むのと、深い関係で安定したところで実は同性だったと知るのと、どちらがよりショック大きいんですかね」
 どちらでも特に悩んだことのない自分は、酔った頭を無理やり回転させながら言った。

「つばささんだったら、相手に嘘つかれていた場合、許しますか」マスターが聞いた。
「許すも何も、自分の場合、相手の性別はあまり関係ないので」笑って言った。「あっそう、で何食べる?くらいで流すと思います」
「え!」彼女が目を丸くした。「嘘でしょ?」
「別に気にしないです。相手の性別なんて、黒髪か茶髪か、背が高いか低いか、くらいの違いにしか感じないです」
「それって…つまり、お姉さん的には女同士でもいいんですか?」
「むしろ大歓迎です」
「お姉さん、そういう人なんですか」彼女は、自分とマスターを見比べて言った。マスターは、へらへら笑いながら「僕も驚いたんですけどね」と言ってグラスを拭き始めた。

「わたし、今までそういう人に会ったことがないんですよ。だから、彼に対しても、怒り半分、あとは何で女だって分かってて好きになったりするんだろう、って疑問が半分で」
「中身で好きになったんでしょ。結構な話じゃないですか」
「あのね、お姉さん。それが通用するのは中学生までですよ。中身で好きになれるからオンラインの出会い最高!とか、思っていられるのはオンライン初心者のうちだけです。そうやって初めて会った相手が吹くほどブサイクだったりして、やっぱり外見が大事だよねって現実を知るんです。だいたい、わたしが何歳だかわかってますか、わたしとしては彼と結婚することになるかな、くらいまで考えてたんですよ。普通の男性と、普通に出会ったつもりだったんです。貴重な時間を費やしてたのに、もう」

 彼女が何歳かは知らない。が、「どうして2年間会わなかったんですか」と、素朴な疑問を口にしてみた。「オンラインの出会いの場合、何が普通なのかはよく分からないですけど、結婚を考えていたならなおさら、会うのが普通だったんじゃないですか」
「それは…なんか…、ずるずるしちゃったんですよ」
 歯切れ悪く彼女が言った。
 自分が感じていた一番の違和感はそこだった。これだけ自己主張の強い彼女が、のらりくらりとかわされているのを黙って受け入れている様がどうしても想像がつかないのだ。

 いつの間にか別の客と談笑していたマスターに声をかけ、別の銘柄を頼んだ。瓶を紐でぐるぐる巻きにした、海賊が飲んでいそうなラムを勧められたのでそれにする。
 今度は、すっと伸びた細長いグラスに注いで、差し出された。
 ひとくち舐めて、聞いた。
「それで、今は彼のことは好きですか」
 え、と言って、ぼんやりした顔の彼女が頭を上げた。
「嘘つかれていたことで、一通り怒って、怒りが収まってみたら、どうですか。それでも、やっぱり彼のことが好きですか。会わずにいれば、好きなままですか」
 彼女は、しばらく黙っていた。そして、長い沈黙の後で、ぽつりと言った。
「困ってるんです」
「好きなんですね」
「本当に…困った」そう言うと、漫画のようにがっくりとうなだれた。

(つづく)


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