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泡沫 2-1

 春の強風が通り過ぎたある日、久しぶりに行きつけのバーへ向かった。
 ビールケースや雑誌が積みあがった細い通路を過ぎ、ガランと音を立てて扉を開けると、マスターがやたらと驚いて振り返った。
「あ、つばささん。いらっしゃいませ」
「なんでそんなに驚いてるんですか」
「いや、ちょっと気が抜けてて」
 店内は確かに空いていたが、それでもカウンターに三人ほど来ていた。すぐにまた気が抜けた様子に戻ったマスターがへらへらと笑い、先客たちが揃ってとほほとうなだれた。どうやら皆、常連のようだ。

 他の客とスツールをひとつずつ空けて座り、いつもどおりマスターのおすすめのラムをストレートでオーダーする。銘柄が覚えられない、というか覚えるつもりもなく、いつもマスターに出されるままに飲むだけ。それでも毎回好みの味わいの酒にありつけているのが、この店の何より素晴らしいところだ。
「最近、忙しかったんですか」
「ええ、歓迎会続きでね。あと、会社の若い女の子から悩み相談に誘われたもんで」
「なんですかその羨ましい話は」
「でしょう。全く、魅力的な大人になっちまうと、いくつになっても引く手あまたで困ったもんですね」
 はっはっは、と、喉を開いてマスターが大笑いした。失礼な話だ。

「なんでまた、若い女の子がつばささんに相談するんですか」
「どういう意味ですかね」
「いや、勇気あるなと思って」
「だからどういう意味ですか」
「男でも、なかなか誘えないですよ、つばささんは」
 マスターと自分のやりとりを見ている常連客たちは、揃ってけらけらと笑っている。
 この店の魅力は、客同士が初対面であっても、それぞれがマスターと顔見知りでさえあれば自然と前からの付き合いであるかのように錯覚してしまう、不思議な帰属意識を感じさせるところだ。この、気の抜けたマスターの力量は実は凄い。

「逆に相談しやすいみたいですよ、自分がちょっと周りと違うかなって思う部分がある子が、相談相手に選んでくるみたいです。いつも一緒にいるメンバーとは、すこし違う意見が聞きたいみたいな」
「ああ、いつもとんこつじゃなくたまには醤油にしようかな、みたいなやつですね」
「ラーメンで例えるのやめてくれます?」
「毎日とんこつじゃ胃もたれしますからね」
 丸いグラスに琥珀色のラムを注ぎ、コースターとともに差し出された。「ベネズエラ産のダークラムです」マスターの声が途端にプロのそれになる。濃厚な甘い香りを嗅ぐと、それだけで酔いそうだ。
 生ハムとともにひとくちラムを舐める。一気に店内が静まり返った。追加でオリジナルハンバーガーをオーダーすると、店内のテレビで音もなく流れる白黒映画に目をやった。

「マスター、わたしもちょっと悩み相談していいですか」
 ひとつスツールを挟んだ隣りに座った女性が、軽く首をかしげながら、マスターに声をかけた。水を飲んだり煙草を吸ったり、好き勝手に過ごしていたマスターが、驚いたふりで目を丸くした。
「いいですよ、なんでしょう」
「マスターのお手並み拝見ですね」さっきの仕返しとばかりに、横から口を挟んでみた。マスターはへらへらと笑いながら、緊張するなぁと言って煙草を置いた。
「お姉さんも聞いてください。もう、酔った勢いで話しちゃいます。酔わないとやってられない状態なんですよ、わたし」
 酔っ払い特有の、高めの声で彼女が言った。本人が言う程、実際にはそこまで酔っているようではなさそうだが、酔っている風に見せないと話せない内容なのだろうか。

「2年以上前に、ネット上で知り合った人がいるんですよ。出会い系とか婚活サイトとかじゃなくて、完全に趣味のコミュニティなんですけど。相手は男性で、話がすごく合って、同じ趣味の中でもまた細かいところがよく似ていて、話題も盛り上がるし、ちょっとしたジョークとかも上手で、話していてすごく楽しかったんです」
「おお、いいですねぇ」
「わたし、この男性結構いいなって思ったんです。会ってもいないのに、しかもネット上だけの付き合いなのに、まるで昔からの知り合いみたいに会話が出来て、そんな出会いって意外とあまりないじゃないですか。それに、無理に会おうとかも言ってこなかったんです。ほら、すぐ『会おう』って言いだす男性の方が多いじゃないですか。そういうの、ちょっと怖いから。逆に、会わないのはなんでかなって思うことはありましたけど、でも楽しかったからそれで良いと思ってもいたんです。今思えばそこで怪しむべきだったんですけど」
「何か理由があったんですか」
「そうなんです、まさかの」彼女は勢いをつけて言った。「女だったんですよ、それが!」
 えええ、とマスターが口をすぼめ、馬のような顔をして驚いてみせた。
 そりゃ既婚者だろ、と思って聞いていた自分も、少なからず驚いた。性別を偽っていたパターンか。

「ネットおなべってやつですか」
「そう、男のふりした女だったんですよ。よくもまあ、2年も騙しててくれたなって、怒りも通り越してもう何がなんだか」
 本当やってられないですよ、と苦笑いしながら彼女はグラスを傾けた。
「何で分かったんですか。相手がボロでも出したんですか」
 少し興味が出てきたので聞いてみた。すると彼女は、勢いを急にひそめた。
「今度会おうってことになったんです」
「えっ、今さらですか」
「そう、2年間会わずにやってきたんですけど、急に会いたいって言いだして」
「向こうが?」
「向こうからです。で、実は女なんですって自発的に言ってきたんです」

「えー、よく分からないなぁ。お友達としてうまくいってたんですよね?嘘ついてましたって告白してまで、実際に会いたいものなのかな」マスターが不思議そうに聞いた。「向こうとしては軽いカミングアウトのつもりで言ってきたんですかね」
 暗くうつむきながら、彼女が言った。「それが、違うんですよ」
「違った?」
「恋愛対象として、です」
「おぉー」マスターと自分の声が重なった。「告白されたんですか」
「それが、その…」彼女は言い淀み、ぼそぼそと口を動かして言った。「もう、付き合ってたんです。結構早い段階で」
「ん?」
「ん?」
 マスターと自分が同時に首をかしげた。時系列が全く分からない。
 彼女が、焦れたようなばつが悪いような、妙な苛立ちを見せながら言った。
「知りあって1ヶ月くらいで、お互いにいいなって思って告白し合って、付き合い始めたんですよ!でも、会いたいって彼から言い出さないし、わたしからも会おうかってちょっと匂わせたけどスルーされるし、恋人にはなったけど会わないままずるずる2年経ってたんです。そしたら急に彼から会おうってはっきり言いだして、やっと会えると思ったら、でも実は女なんですけどいいですかって。いいわけないでしょ!って話ですよ」

(つづく)

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