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泡沫 2-3

 彼女は空になったグラスを揺らしながら、ヒューガルデンをオーダーした。自分も残りのラムをくいっと飲み干し、同じものをと追加した。もう3杯目だ。このまま、今夜はオーバーペースになりそうだ。
「もう、だんだん現実と仮想がよく分からなくなってくるんですよ」
 呂律の回っていない、完全に酔っ払いの口調で彼女が言った。
「相手が実は女性だって知って、一度は距離を置きかけたんです。そうしたら、数日してから、会ってみたらやっぱり男性でしたっていう夢を見たんです。朝起きたらどっちが現実だったかわからなくなって、混乱してまた連絡を取ってしまって。メールのやりとりでは向こうは相変わらず男性口調だったり、自分のことを『俺』って言うんです。それでついこっちも普通に男性として今まで通り接してしまって、そうしてまたしばらく経ってから、いつ会おうかって話になるんですけど、そのときにはっと気づいて。ああそういえば女性だったんだった、どうしようって。その繰り返しなんです」
「そりゃ、こんがらがりますね」
「でしょう。女性だってカミングアウトしたんだから、もう諦めて女として振る舞ってくれればいいのに。何で男性のふりを続けるんだろう」
「パソコンの前に座ると、男スイッチが入る癖がついちゃったんじゃないですか」かつての自分を思い返しながら、言った。「彼はもう、演じている自覚もないんじゃないかな。もはや男性の『ふり』ではないんですよ。ネット空間という場では、男性でいることが本来の自分になってしまっているんだと思います。仮想空間とはいえ、第二の現実なわけですから」

 彼女が首をかしげた。「つまり、今まで自覚していなかっただけで、実は性同一性障害だったってことですか」
「いや、いたって普通の女性でしょうね」
「二重人格ってやつですか。解離性同一性障害?」
「そんな大層な話でもないと思いますよ。誰だって、自分の中に男性的な部分と女性的な部分と、両方あったりするでしょう」
「まあ、わたしにも男性的な部分はあるかもですけど」彼女は顔をしかめた。
「人間誰しも、完全に男性か女性かどちらかということはないと思います。現実では、肉体的な性別ってのがあるのでどうしても肉体的性の方に精神的性も引っ張られがちですけど、バーチャル空間のように肉体がない世界だと、引っ張るものがないぶん、男性的な面も女性的な面も無理なく出せるんですよ。で、ほんの遊び心で、普段の肉体的性とは逆の性別をアバターとして選んだから、口調をそちらに合わせている。まあ、違和感なく男性を演じていられたってことは、彼はもともと男性性が強いタイプだったんじゃないですか」
「すみませんお姉さん、先程から何を言ってるのか分かりません」
 わざと感情をなくした表情をつくり、機会のような口調で彼女が言った。思わずげらげらと笑ってしまった。「ですよね」と言って水をひとくち含んだ。明らかに飲み過ぎだ。

「結局、彼はどっちなんですか。男なんですか、女なんですか」
「知るか!」笑って言った。
「ひどい!」彼女も眉を吊り上げながらも笑った。
「この際、あなたが決めればいいんじゃないですか」
「どういうことですか」
「男であってほしいなら、会わずにネット上だけで付き合う。女であることを受け入れるなら、会ってみる。どっちがいいですか」
「えー…」
「むしろ2年間会わずに、オンライン上のアバターだけで順調に付き合ってこれたんでしょう。今さらわざわざ会って、わざわざ同性愛という現実に落とし込む必要自体あるんですかね。言っておきますけど、本当面倒くさいですよ、日本では」
「分かってますよ。わたし、女同士で付き合うつもりなんてないんですよ」
「じゃあ、会わなきゃいいでしょう。男性として接していればいい」
「本当は女だって分かってるのに?虚しくないですか、それ」
「今、彼と話していて虚しいんですか」
「今は、そんなことないですけど。でも、いつまで続くかわからないじゃないですか」
「じゃあ、会っちゃえばいいでしょう。彼はパソコンの前にいる限り、ずっと男のままですよ。彼を男だと期待する気持ちが拭えないから、あなたもいつまでも振り切れない。でも、会っちゃえばその瞬間に彼は女になります。そこで判断すればいいじゃないですか」
「何をですか」
「女である彼を前にして、あなたがどう感じるか。ふたりにとって最も良い関係が、一体何なのか。もしかしたら彼のほうも、あなたに対して恋愛感情を抱くのは、男の状態のときだけなのかもしれない。女の状態になったら、恋愛じゃなく友情に変わるかもしれない。そうしたら親友になれるかもしれないですよ。それだけ気が合ってるんですから」

「それは一番都合が良いですけど」彼女は憮然とした表情で言った。「そんなにうまくいきますか」
「さあね」
「親身なのか無関心なのか」彼女が笑った。
「もし彼が、女の状態でもあなたのことがやっぱり恋人として好きなんだとしたら、それはそれで本当にすごいことです。自分としては、女同士だから嫌だと言わずに、気持ち自体を真剣に受け止めてあげてほしいと思います。あなたが悩むのは、彼がそうなってからでもいいんじゃないんですか」
 彼女は黙った。

 白黒映画が終わり、エンドロールが流れ始めた。お会計を、とマスターに声をかけると、彼女も時計にちらりと目をやり、スツールの下に置いていたバッグを手に取った。
「お姉さん、連絡先教えてください」スマホを点灯させながら彼女が言った。
「嫌です」
「ちょっと!」彼女が笑った。「彼に会ったら報告しますから。教えてくださいよ」
「嫌です」
「ひどい!じゃあ次いつ来ますか。いつも何曜日に来てるんですか」
 マスターが笑いながら、伝票を差し出した。「つばささん、神出鬼没ですから。ここで逃すと多分もう会えないですよ」
「神出鬼没の醤油ラーメンですから」
「真夜中の怪しい屋台みたいですね」
「だからこうして酔っ払いに絡まれるんですかね」
「何の話ですか、もう」焦れた彼女が、スマホを持った手を振りながら言った。

(つづく)

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