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背に生えた刃 4-2

「独身になって、初めて気付いたんだけど、わたしの友達っていつのまにかほとんど結婚してたの。やっと遊べるようになったと思ったら、遊んでくれる友達がいなくなってたの!驚いたよ、もう、嫌になっちゃう」
 手酌でスパークリングワインを注ぎながら、彼女は苦笑いして言った。ビールを飲む気分じゃないと言って、彼女がさっさとボトルを入れたのだ。ふたりでは飲みきれないと制止したのだが、「大丈夫、大丈夫」と全く聞く耳を持たない。明日は二日酔い決定だ。
「ああ、言われてみれば、うちの友達もそうかもしれない」
「でしょう!自分自身が結婚してると、誰が結婚して、誰はまだ独身で、とかそんなに意識しないじゃない。だから全然気付かなかった。こんなにみんな結婚してたんだって、改めてびっくりした」
 ソファの背にもたれて、彼女は続けた。

「別居したての頃に、学生時代の友達の集まりがあって、そのとき来ていた子たちに今こういう状況でって話をしたの。そうしたらみんな、別居してると自分の時間が持てていいねって言うの。家に旦那さんがいると、どうしても何らかの制約があるって。結婚した以上、毎日外食ばかりしたり、夜じゅう自分の部屋にこもって趣味のことをしたりなんていうわけにはいかないよね」
「ああ……わかるかもしれない」
「子供がいないうちは別に毎日一緒にいなくてもいい、週末婚とか昔流行ったけど、まさにあんな感じがいいって友達は言う。でもね、別居が羨ましいなんて言われると、余計にどうしていいかわからなくなった」
 彼女の表情が少しずつ曇り始めた。先程までしきりに口元に運んでいたグラスを、腹の上に置いた両手で包むように支えている。
 彼女にそう語った友人たちの意図することは、よく理解できた。友人たち自身が、本当にそうしたくて言ったわけではないだろう。
 おそらく、友人たちも感じていたのだろう。笑顔を作って話す彼女がどれだけ思いつめているのか。友人たちは、結婚には多様なかたちがあると伝えたかったのだ。一緒にいると息が詰まること、やむを得ず別居を選んだことを、彼女が深く考えすぎないように。
 誰もが、まさに完璧な夫婦に見えたふたりに、離婚という道を選ばせたくなかった。

「わたし、結婚してる間も、余暇はちゃんと遊んでるつもりだったんだけど、やっぱりセーブしてたんだなって初めて思った。今すごく時間が有り余ってるんだもん」
「ちゃんと奥さんやってたんだね」
「そうなの、無意識のうちに」
 彼女は笑った。
「でも、職場の飲み会には誘われるようになったんじゃないの」軽い気持ちで聞いてみた。「男性の先輩とか、女の子でも後輩たちなら、まだ独身も多いでしょ。こっちから声をかけたら、誰かしら一緒に飲みに行けるんじゃない?」
 すると、急に彼女がすっと視線を落として黙った。驚いた。職場に言っていないのか。
「人事部の人には書類上の手続きもあるし、報告してるけど……他の人には言ってない」
「そうなの?というか、隠せるものなの?」
「結婚してからも職場では旧姓を使ってたから、わざわざ自分から言わなければ、他の人にはばれないんだよね」苦笑いして彼女が言った。
「あぁ……確かに」
 複雑な気分になった。たかが職場、プライベートなことを隠すのは自由だが、ある意味で嘘をつくことと同じだ。彼女の生真面目な性格上、それに耐えられるのか。

「夫婦の共通の友達には、言わないわけにはいかないし、彼の方に聞いた人も多いから隠せないけど・・・出来れば言いたくないっていう気持ちがあるの。言わなくてもいい相手には言いたくない。わたしの暗い面はやっぱり人には見せたくないの」
「そう、前にも言ってたね」
「つばさも知ってるとおり、あの職場ってわりと、純粋な人が多いでしょ」
「うーん」かつての同僚たちの顔を思い出しながら答えた。「部署にもよるけど」
 あはは、と彼女が声をあげて笑った。「純粋じゃない部署ってどこよ」
「営業部だろうね」
「確かに、彼らは純粋ではないね」
「まあそれは冗談として、意外とあの会社、離婚率高くない?入社したとき、大人ってこんなに離婚してるんだって驚いた記憶がある」
 それは確かな記憶だった。学生時代には、婚姻件数に対する離婚率が三割を超えていると言われてもぴんとこなかったが、社会に出てみるとその数字が面白いほど実感できた。

 確かあの人と、あの人と……と、ふたりでしばらく思い浮かぶ名前を挙げていった。ひとり挙げるごとに、うつむく彼女の傾斜の角度が深くなっていく。
「これは、言っちゃいけないことだけど」
「何?」
「同じくくりに入るのかと思うと、ね」
 これ以上ない低い声で彼女が言った。これには、自分も声をあげて笑った。
「つばさ、笑いすぎ」
「いや、あなたのせいでしょうが。まあでも、正直でよろしい」
「違うってばー。彼らが良い人たちだってことはよく分かってるよ。一緒に働いてて、ああやっぱり、離婚してる人はこうなんだなぁとか、変なふうに感じることは全然ない。ああ嫌だ、すごい失礼なこと言ってる、わたし」
 彼女はふるふると首を振ってから頭を抱えた。根本的に真面目すぎるのだ、彼女は。
「そう思うでしょ、自分でも。要は、君が離婚したって聞いても、周りの人も同じように思うってことだよ。離婚ぐらいで、良い人、明るい人だっていう印象は変わらないよ」
 自分がそう言うと、彼女は眉を寄せたまま顔を上げた。
「うん……それよりも、くくりに入るという方がね」
「入る方?」
「そう、離婚経験者の人たちに、仲間だね、あなたもこちら側の人間だねって囲われるのが、すこし怖い……かな」
 控えめに語尾をすぼめて、彼女は言った。
 笑いながらもその言葉に、自分はすくなからず衝撃を受けていた。

(つづく)

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