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泡沫 1-1

 何を隠すつもりもなく、誰を避けるつもりもない。
 それがいかに自身の本音で、隠し事や敬遠よりもずっとシンプルな感情であるにも関わらず、他者にそれを真相真意伝えるのは不思議なほどに難しい。

 毎日の日課で手元を手繰れば、自分に何の関係もない他人事がやたら詳細に活字で飛び込んでくる時代。「ヒト」の脳内のニュースストック小屋は日々膨張を続け、それはまるで無限にも思える。だが、貯められることとさばくことはまた別の話。

 さばききれない情報量に、誰もがパンク寸前の頭と心で、それでもまだ他人の頭の中まですべて知りつくそうとする。
 そして自分自身もまた、他人事を知りつくしたい「誰か」のために、頭の中をご親切にビジュアル化し、晒しながら歩いている。

 しかし自己発信を進んでしている人ほど、実は隠したい部分を限界かつ巧妙に隠している。あまりに巧妙すぎて、隠していることを自分でも忘れてしまうほど。

 馬鹿げた話だが、真に隠し事をしていない人間というのは、傍目から見ると、隠し事をしているよりもずっとミステリアスに映るようだ。
 頭をからっぽにして何も考えずにぼうっとしているときほど「何が不満なの?何か言いたいことでもあるの?」と、眉をひそめて突っかかられるのだ。全く、温厚な性格というものは、やっていられないと、つくづく思う。

「あの、つばささん、今夜って予定空いてますか」
 春の陽気も手伝い、すっかり集中力が切れかける昼下がり、眠気をごまかしながらモニターに向かう自分に、入社1年目の男性社員が恐る恐るといった様子で話しかけてきた。先輩社員に、自分に関して色々誤解と先入観を刷り込まれているのだろう。新卒社員とは哀れな役回りだ。
「空いてますよ」
 さらりと答えると、彼はあっ、と声を出したのだか息を飲んだのだか分からない音を発して、軽くのけぞった。
「あの、今日、部署の若手で飲もうってことになって。つばささん、よろしければご一緒にいかがですか」おどおどしつつ彼が言った。
「若手…でもないですが大丈夫ですか」
「あ、はい。つばささんくらいの方までお声かけする感じで」
 ということは、最年長か。まだギリギリ若手に入りますよ、と暗に言われた中堅社員は、悪気のない物言いの新卒社員に苦笑いで答えた。
「行きますよ」

 典型的な一族経営の職場を離れ、やたらと母体の大きな現在の職場に移ったのは約一年前のことだった。
 それまでは、一年もあれば全社員と一通り飲み交わせるくらいに小さく、そして人との距離が近い環境だった。それが今ではまったくの真逆、一事業部だけで会社ひとつ分の人数を抱える。あまりのスケールの違いに初っ端から面くらい、一年経った今でも面くらい続けている。どの範囲で人付き合いをすれば良いのかが未だにつかめていない。
 
 単純に席が近い人と仲良くしていれば良いのか、業務チームを組んだ相手とその都度仲良くしていれば良いのか、いい歳をしてそんな処世術にうんうん苦しんだ末に、そもそも職場で仲良し友達を作る必要があるのかという根本的な考えに至り、気づいたらすっかり浮いていた。
 
「じゃあ、これからも若手のみんなで連携して、若い力でこの部署を盛り上げていきましょう!乾杯!」
 かんぱーい!と掲げられた大量のビールジョッキが、明るいオレンジの木目の店内にきらきらと輝きながら、景気のいい音を立ててぶつかりあった。
 黒いシャツに黒いエプロンの店員たちが、間髪いれず威勢よく大声をあげている。テレビでよく見かける「正しいサラリーマンの飲み会」が目の前で繰り広げられているのを、特に言葉も発せずぼうっと見ていた。

「いやあ、つばささん、来てくれてありがとうございます」
 乾杯の音頭を取った男性社員が、左斜め向かいから話しかけてきた。彼は確か、新卒からの叩き上げ社員だ。
「いやいや、こちらこそ声をかけてもらえて嬉しいです」
「今回は、つばささんとか、中途採用の皆さんにも全員に来てもらうのが、ひとつの課題だったんですよ。特に、つばささんはレアキャラだから、いやあ今日は貴重な回ですよ」
「レアキャラですか」

 以前、ゲーム好きの友人に付き合い、レアキャラクターが発生したとかで町はずれの銭湯まで歩いて行ったのを思い出した。
 長い歴史を思わせる風貌の街銭湯の前に、スマートフォンの画面を見ながらうつむいている人がぽつぽつと集まっていたのだが、同じ目的で来ているのに、誰ひとり声を掛け合うことなく、お互いにお互いをいないものとしているのがやたら異様だった。レアキャラは孤独だ。

「つばささん、飲み会とかあまり来ないでしょ」
「そもそも皆さんそんなにしょっちゅう飲んでるんですか?」
「このあたりは結構行きますよ」と言って、彼は周りの男性社員数名を指さした。「まあ、女性陣はいろいろチームが複雑みたいだけど」
 自分の右隣にいた女性社員が「ちょっとー!」と声をあげて彼を指さした。そのとき初めて、自分を境に左側が男性、右側が女性と分かれていることに気がついた。
「この人、女子が仲悪いとか言ってるんですけどー!ひどーい」「ひどーい!」「つばささん、本気にしないでくださいよ!」と、女性陣が一斉砲火する。右耳の鼓膜に危機感を感じながら、とりあえず笑ってごまかした。

 砲弾を受けた男性社員は、口元だけで「怖い怖い」と言って女性サイドに軽く背を向けた。すると今度は右隣の女性が話しかけてくる。
「つばささんって、お昼は誰と行ってるんですか」
「ひとりが多いですね」
「えっどうしてですか?」
「ひとりで何食べるんですか?」
「よく行くのは、ラーメンとカレーと寿司と天丼ですかね。あと隣りのビルのガーリックステーキ屋」
 ええええええ、と、女性陣の声が揃った。先程から実に見事な一致団結だ。
「なんですかその課長みたいなセレクト!」
「つばささんがラーメン食べてるイメージがない」
「もっと、カフェでランチプレートとか食べてるんだと思ってました」
「分かる!パニーニとか食べてそう!聞いたことないチーズのやつ」
「あとサラダバーとか!有機野菜!有機野菜!」
「ごはんは絶対十穀米にチェンジしてそう」
 わかるわかるー、と皆が盛り上がっている。本人が目の前にいるのに、彼女たちは架空の自分を見て会話しているようだ。一瞬、誰の話だかよくわからなくなる。聞いたことないチーズとは一体何だ。そんなもの怖くて食べられない。こう見えて腹が弱いのだ。

「ちょっと聞こえたんですけど、つばささんの昼飯のセレクトが俺と気が合いすぎてる」
 盛り上がる女性陣をぼんやり眺めていると、今度は左側が乗っかってきた。
「隣りのビルのステーキ屋って、俺たちもよく行きますけど、つばささん、あそこにひとりで入ってるんですか」男性三人が目を丸くしている。
「よく行きますよ、元気付けたいときとか、風邪引いたときとか」
「ええ、見たことない!そもそもあの店に女性がひとりで入ってるの見たことないですよ!ほぼ、男しかいないじゃないですか。俺だってひとりじゃ行かないですよ」
「そうですか?普通にカウンターで食べてますよ。ああ、だから、テーブル席の方に背を向けてるから気付かれないのかなあ」
 えええ、と三人が声を揃えた。その後も、ラーメンはどこで食べるんですか、寿司はどこですか、カレーはどこですか、チェーン店のあそこですか、いやいやカレーは絶対にインドカレーしか食べません、と盛り上がっているうちに、女性陣からは完全に興味を失われたようだ。

「まあ、そのセレクトじゃ、女性チームで一緒に昼飯行ける人いないですね」
 男性のひとりが、こちらに目を向けているんだかいないんだか、分からない微妙な角度でジョッキを傾けながら苦笑して言った。

 女性なのに、女性と仲良くしていないのはおかしい。それは、学生時代から嫌というほど突き付けられてきた言葉だ。
 それは半分は正しい事だった。女子学生たちは、ベースとなるグループを持ち、そこを起点としながら幅広い交流を持っているようだった。女子学生同士が別行動をしていると、仲が悪いものとして周りに勝手に受け止められる。
 女性は常に集団行動をするもの、どこかのグループに属するもの、という暗黙の了解が、不思議なことに特に男性の中には強くあるらしい。

 自分は普段からグループに属さず、その時々で近くにいた相手と一緒に行動していたのだが、あるとき突然、男子学生のひとりから「お前、クラスの女子と仲が悪いんだろ?」と気まずそうに切り出されたときには、シンプルに驚いた。その発想が、自分には一切なかった。
 自分は彼女たちに、良くも悪くも、何の感情も抱いていなかった。ただのクラスメイトだ。女性同士だから仲良くしなければいけないとも、気が合わないから距離を置こうとも、何とも感じていなかった。そう伝えると、その無関心こそが不仲ということだ、と笑われて終わった。

 男性と女性であれば、簡単に通じるはずの道理が、なぜ同性同士では通じないのか。
 学生時代にはどうしても分からなかった。そして、今もまだ分からずにいる。

(つづく)

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