見出し画像

背に生えた刃 4-1

 いつの間にか、季節は冬から春へ、春から夏へと移り変わっていた。
 彼女を自宅に招いた日のことは、自分の中で静かに尾を引いていた。ふとした瞬間に、彼女の耳にかかる栗色の髪を思い出す。斜め下を向いて、一気に語り終えた彼女の。
 彼女を傷つけていたのは、自分だけではないと分かっていた。彼女にカミングアウトした友人もまた然りだ。マイノリティなのに恋人と幸せを生きる友人が、マジョリティなのに母親となる望みを叶えられない彼女の、切れかけた糸を震わせたのだ。

 春の初め、ひとり、早期流産について調べ始めた。流産するケースの中では、7~12週目という妊娠早期での流産は割合としては最も多いそうだが、妊娠全体では早期流産する確率は8~15パーセントだという。これは、自分には見覚えのある数字だった。
 全人口に対する、セクシャルマイノリティの割合である。
 彼女もまた、妊娠を経験した女性の中の、マイノリティのひとりだった。分野は違えど、少数派に属する者であるという点で、やはり彼女と自分はよく似ていた。そして、彼女に自身のセクシャリティを打ち明けた、例の友人ともよく似ていたはずだった。

 何かが少しでも違えば、彼女の糸は切れかけるどころか、相手の幸せも受け入れられるほどの、強度ある太さを取り戻せたはずだったのだ。

 何がどう違えば良かったのか。そんなことを考え始めた夏のある日、ふと別の彼女を思い出した。離婚に悩む、元同僚の彼女だ。和食屋でぱたぱたと涙を落したあの日から、気づけば半年が経っている。
 今なら、いくらか落ち着きを取り戻しているだろうか。彼女の、繊細な気遣いが恋しかった。他人の傷に敏感で、すぐに痛みを和らげようとしてくれる、あの穏やかな声と静かなうなずきが、今まさに必要だった。
 彼女に誘いのメールを送ると、すぐに彼女から返事が返ってきた。

『久しぶり!ごはん、いいね。私も先週、離婚届を提出してすっきりしたところです。つばさったら、またすごいタイミング(笑)積もる話がたくさんあるよ』
 開いた口がふさがらなかった。またしてもやられた。彼女お得意の、必殺・爆弾返し。とはいえ今回は、こちらは何の爆弾も用意していないというのに、まったく。
 予定は今回も一瞬でまとまった。

 選んだ店は、広々としたライブハウス&バーだった。四方を客席に囲まれた中央のステージで、日替わりでジャズバンドが生演奏を聴かせる。開放的な空間でありつつ、しっとりとした雰囲気をも持ち合わせる店だ。
 ラフなネルシャツ姿の奏者がサクソフォンで高らかに歌い上げる中、薄暗いエントランスホールを抜けて淡いベージュのスーツ姿の彼女が駆け寄ってくるのが見えた。
「ごめんね、お待たせ!」
 仕事上がりの会社員ならではの、てきぱきとしたスピード感と明るさを纏って、彼女は颯爽と現れた。
 全然、と言いながらソファ席に並んで腰かける。ステージを観ながら会話も食事もできる、この店のとっておきを味わいつくせる良い席だ。

 一杯目は、ふたり揃ってロゼのスパークリングワインをグラスでオーダーした。ビールじゃなくていいの、と聞くと、泡の気分なの、といたずらっぽく笑う。自分の知らない、大人になった彼女の夜の顔のように見えて、思わず目をそらした。
「じゃあ、乾杯。おつかれさま」
「ありがとうー」
 縦に伸びたシャンパングラスを合わせると、ちりん、と鈴のような音を立てた。
 中ジョッキをがっしゃんと音を立ててぶつけ合っていた新入社員のころを、なぜだか唐突に思い出した。それぞれが生意気にも仕事の不満も感じ始めつつ、その愚痴を言うこと自体が新鮮で楽しかったあのころ。

 すっきりと甘いロゼをひとくち舐めたところで、彼女が「ありがとう」と言った理由をやっと察した。自分は単純に「仕事おつかれさま」という意味で言っていたのだが。
「本当に、おつかれさま。決着してたなんて驚いたよ」
「わたしの方こそ驚いたよ!本当にね、届を出して、一人暮らしの新居への引越しとかいろいろ落ち着いたところで、つばさからのメールが来たの。もう、どこかで見てるんじゃないかって思ったよ」
「見てない、見てない」
 思わず笑った。まだ慣れない真っ白な自宅で携帯を見て、ぎょっとした顔で後ろをきょろきょろと振り返っている彼女の姿が思い浮かんだ。
「まあ、穏便に済んだなら良かった」
 ふふっと笑ったあと、彼女はその節はお騒がせしました、とおどけたように頭を下げた。

 正直、どのような形にしても、解決にはもっと長くかかると思っていた。
 彼女の夫が離婚を承諾したのは、さほど意外ではなかった。会って話したことはなかったが、すくなくとも自分の世間体のために離婚を渋ったり、結婚によって彼女が不幸な顔をしているのをそのままにするような人間でないことは、彼女の話から感じていた。
 それよりも意外なのは、彼女の決断の方だった。
「一人暮らしはどう?気が楽になった?」
「いやあ、ダメだね。開放的すぎちゃって、仕事から帰ったら適当にごはん食べて、寝て、休みの日は一日寝て、やだ、寝ることしかしてない」
「一人じゃ自炊するのも面倒くさいよねぇ」
「本当、食生活が貧しくなったよー。外食もひさしぶりなの」
 バゲットに添えられたポテトサラダをひとくち食べて、うーん美味しい、と眉を寄せる。
 それとちょうど同じタイミングで、バンドの演奏が急にアップテンポになった。ドラムとベースが軽快にリズムを刻みながら客席を煽る。
 全体の音量が上がり、会話が聞きとりづらくなる中で、彼女は自分の耳に唇を寄せて、すごいね、と囁いた。
 自分の身体に、緊張が走った。動揺している。今夜の彼女は憎らしいほど魅力的だ。

 ふと、彼女は自分の告白を覚えていないのだろうか、と不安に駆られた。自分がもし男だったとしたら、彼女はここまで距離をつめてくるだろうか。たとえ友人でも。
 そんな感情がふつふつと湧き上がってきたそのとき、背後でいくつかの靴音が鳴り、店員に誘導されながら男女のカップルが隣のテーブルに着いた。自分たちよりもずっと若いふたりだ。同じように、ステージに向かう形でソファ席に横並びになる。男性がメニューを手に取り女性に何か声をかけ、女性はくすくすと笑いながら、男性にもたれるようにしてメニューを覗きこんでいる。
 彼女の肩越しに、そのカップルをじっと見つめていた。

 あのふたりに比べたら、と自虐的に思う。
 見た目だけであんなにも明確に恋人と分かる異性のふたりに比べたら、自分たちは誰がどう見ても、女の友達同士だ。仕事の気晴らしにディナーを楽しむ、どこにでもいる仲の良い普通の会社員のように見えるだろう。自分を、酔いに任せて隙あらば彼女を口説こうとしている男だと見抜く人はいるまい。ふたりの距離が近いのはすべてバンド演奏のせいだ。

 バンドのステージが終わると、失礼します、の声とともに、アヒージョが運ばれてきた。
 仕方ない。所詮、自分はただの聞き役なのだ。男には言えない、でも女には晒せない、行き場のない自我を抱えた彼女たちの。

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?