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背に生えた刃 2-1

 サムギョプサルの夜から数週間後。繁華街も住宅街も、もはやクリスマスが近いからなのか、年の瀬のせいなのかすら分からないほどに、どこもかしこも人々が輪を成して賑わっていた。
 スーツ姿の会社員たちはやたらと大声を上げながら肩を組み、私服姿の大学生たちは笑い声の大きさを競い合うように腹を抱えながら道に転がっている。桜の季節にも見られる光景だ。彼らが、新生活への期待ではしゃいでいるか、数か月のうちに大量に積もり積もった鬱憤を晴らしているのかの、微妙な違いはあれど。

 そんな中でも自分は、喧騒から逃れるように、自宅の閉め切ったリビングのソファで、ブランケットにくるまりながら、ほとんど打ち終わったメールの画面をただ見つめていた。
 あとは、送るか送らないかを、自ら決断するだけだというのに、そしてほぼ、送ることで決めているというのに。紙飛行機型の送信ボタンをなかなか押せないまま、ただ長い空虚な時間をやり過ごしていた。
 メールの相手は、昔の職場の同期の女性だった。最後に会ったのは確か、彼女が同期を集め、結婚を決めたと報告したときだった。あれからもう二年近く会っていない。
 やかましく騒ぐばかりの同期会が何となく億劫になっていた自分は、次第に適当な理由をつけて避けるようになっていたが、さりげない気遣いが何よりの魅力であった彼女は深く問い詰めることもなく、自分にとって一番心地よい形で放っておいてくれた。得難い友人だ。

 そして今、彼女に送ろうとしているメールの内容はこうだ。
 自分は、極めてレズビアンに近い両性愛者であること。母性本能が分からず、そのために明確に属せるコミュニティがなくいつも居場所がないように感じてきたこと。
 二年近く会っていないというのに、申し訳ないほど重い内容だった。

『久しぶり!ずっと、どうしてるのかなって心配してました。まさか、こんな内容の連絡がくるとは(笑)びっくりしたけど、わたしにとっては、つばさはつばさだからなぁ。わたしの方にも、いろいろありました。まだ誰にも言っていないんだけど、実は、離婚しようかなって思って。みんな、いろいろあるよね。ふふ。』
 返信はその夜のうちに、何倍もの衝撃を孕んで届いた。思わず、画面に向かって声にならない声をあげてしまったほどだ。重すぎる告白で驚かせようと思ったのに、まさかの返り討ちだ。二年のうちに、彼女がこんなにも大きな隠し玉を抱えていたとは。
 彼女に打ち明けることをあれほど時間をかけて悩んだというのに、初めてのカミングアウトの余韻は一瞬で消え去り、自分はすっかり動転していた。自分がセクシャルマイノリティであることよりも、彼女の離婚の方がずっと一大事だ。すぐにでも彼女をガールズバーに誘おうかと思ったが、既のところで思いとどまった。おそらく、違う。
 とにかく一度食事に行こう、という誘いは、二年間のブランクなど感じさせないほど一瞬でまとまった。

 彼女が選んでくれた店は、懐石料理の膳に並ぶような繊細で美しい一品料理がメニューに並び、〆には土鍋で炊いたブランド米を出してくれるという、上品な香りが漂う和食屋だった。
「つばさ、なかなか子供が出来なくて悩んでるのかな、って思ってたんだ。そういうとき、順調で幸せな家庭の人と会いづらい気持ちはよく分かるから……」二年前よりすこしだけ大人びた彼女は言った。「けど、全然違ったね」
 グラスを上手に傾けて、美味しそうにひとくちビールを飲んでから、彼女は控えめに微笑んだ。泡だけを思い切り口に含んでしまい、ストレートな苦みに顔をしかめている自分とは大違いだ。
「うん、きっとそう心配させてるだろうなって思ってた。だから、驚くだろうけどちゃんと言っておきたかったんだ」
「いやいや、こっちの事実のほうがよっぽど心配だよ。ちょっと、どういうこと?一体いつから?家庭は大丈夫なの?」
 穏やかな声ではあるが、立て続けに彼女が聞いてくる。
 そうなのか、とこちらがきょとんとしてしまった。そういえば、自分だって重大な事実を打ち明けたつもりだったのだ、彼女の離婚の話を聞くまでは。

「子供のころからだよ。今までに好きになった人数でいえば、男性より女性のほうが多かったんじゃないかな。でも、結婚はちゃんと納得できる相手としたから、後悔はしてない」
 彼女はじっと自分を見つめている。安心させようと小さく笑ってみせた。
「でもたまに、結婚した以上は、もう女性と恋愛することはないんだって愕然とするときがある。自分で自分の人生を、無理に一方向に縛ってしまったような……」
 グラスを置き、続けた。
「そんなときは、どうせセクシャルマイノリティとして産まれるなら、レズビアンならレズビアン、トランスジェンダーならトランスジェンダーって、はっきりと固定したセクシャリティだったら良かったのにって思うよ」
 恐らく、それが自分が抱える悩みの全ての根元だろうと思っている。帰属できる場所が欲しい。共通の価値観というものを誰かと持ち合いたい。自分の強さの基盤となるものを、母性本能に代わる何かを求めているのだ。
 女性にとって母性本能が鋼の強さとなるのは、それが、多くの「普通の女性」の共通意志であるからだ。子供が欲しい、子供を持つことが幸せだ。そのためにならどんな困難も乗り越えてみせる、わたしたちは「女」だからだ、と。

「そっか……」眉を寄せ、静かにうなずきながら彼女が言った。「その、つばさの気持ち、旦那さんはちゃんと知ってるの?」
「はっきりとは言ってない。けど、お互いにもともと夫婦って言うより、男同士の親友感覚だからなぁ。普通の夫婦から見たら変かもしれないけど、でもお互いに必要としあってるのは確かだし、自分たちなりに、良い関係だと思うよ」
 良い関係、という言葉にほっとしたのか、彼女は眉間に寄せていた皺を緩めた。
「男の人になりたいとか、身体を変えたいって思ったりするの?」
「憧れることはあるよ。どうせ女性を好きになるなら、せめて身体は男性の方が良かったなぁ。女性を好きになるから男性になりたいのか、子供を産みたくないから女性でいたくないのかは分からないけど」
 正直な気持ちだった。「男になったら、今度は女に戻りたくなるかもしれない。そんな気もするから、まあ、実際には身体を変えることはしないかな。今のままでいい」
 彼女は口を真一文字にきゅっと引き、ゆっくりとうなずきながら聞いている。

 磨かれたヒノキ造りの明るい店内に、客は自分たちふたりのほか、明らかに仕事の打ち合わせの団体や、言葉少なに料理を分け合う初老の夫婦など数組しかいない。
 静かな空間に自分の声が響くたび、軽はずみに打ち明けてしまった自分の悩みが、ますます根深く重大なものになっていくような気がした。
 途端にむず痒くなり、彼女から目をそらしながらビールをひとくち含んだ。

(つづく)

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