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あの世もこの世も【ショートショート SF】

ある朝出勤すると、私のデスクの上に花の鉢が置いてあった。ピンクの石楠花だった。見事な大輪である。きれいだなあとしばらく眺めた。ところで、それはいいのだが普段私の使っている仕事道具が何もない。パソコンも、資料もない。これはどういうことだろう。
仕事柄出勤時間がまちまちで、朝は人が少ない。しかし同じ課の者は出勤しているはずなので、しばらく待てば誰か来るだろう。椅子に腰をおろしてぼんやりと待つ。
やがて入ってくる人影が見え、私のデスクの対面に座った。おや、と思った。なぜなら、見たこともない人だったからだ。
「あのう、田中くんは?」
おそるおそる聞くと、その人は驚きの後恐怖に満ちた顔をする。
「あなた…誰ですか」
そう聞かれかちんと来て言い返す。
「君こそ誰だ」
その人は言い返さず、気味悪そうにこちらを見ると、電話をかけ始めた。気持ち悪い男が勝手に入ってきて、と話している。私のことだろう。失礼な。お前こそ何者なのだ、と憤慨を表すようにずっと横に立っていた。
すると何人かの人が入って来たが、どの人にも見覚えがない。
「この人なんですけど」
失礼なことを言った女は私を指さす。すると警備員が私を取り押さえようとする。
「どうやって入ってきたのかも分からなくて」
女は続ける。
「失礼な、私はここの課長だ。この女がおかしい」
しかし誰も私の言うことなど聞かず、角においつめられた。
その時廊下で大きな音がした。それに虚をつかれた警備員を振り切って、エレベーターに飛び乗った。
ところが何かがおかしい。咄嗟に上へ行くエレベーターに乗ったのだが、どんどん下へ降りていく。この建物には地下一階までしかなかったはずだ。どんどん降りて地下30階を過ぎた。しかもよくよく見ると階数が鏡文字になっている。地下50階まで降りた時、エレベーターが止まった。
追っ手がいるかもしれないと、おそるおそる降りるが、しんと静まり返って人の気配はない。
そこはコンクリートが打ちっぱなしになっていて、まるでトンネルの中のようだった。靴音が響く。薄暗いトンネルを歩いていくと、出口なのか光が見えた。引き返して面倒事に巻き込まれるより、ひとまず隠れた方がいいと、私は光の方へ向かった。
そこには花畑が広がっていた。一面百合に覆われていてむせ返るような甘い香りが立ち込めていた。
「うわ」
背広に百合の花粉がついたのだ。これは落とすのに難儀しそうだ。
それにしてもなんなんだここは。驚いたことに空が見えるのだ。地下へ降りたはずなのに。空には太陽と月が並び、オリオン座やら三角形のやら、私の知る星座は全て見えた。
「痛い」
ほっぺたをつねってみたのだ。最近ストレスで、よく仕事をしている夢を見るのだ。しかしどうも夢ではないらしい。
そのまま百合の野原を歩き続けていると、突然雨が降り出した。降り出したと言うより、雨雲の下へ入ったと言った方がいい。一瞬でずぶ濡れになり、急いでそこを抜けると、忽然と百合の野原は消え、灼熱の砂漠が現れた。服は乾いたもののとにかく暑いし喉もカラカラだ。しめた。オアシスらしきものが見える。そこへ急いでいき、きれいかどうかも分からぬまま、泉でがぶがぶと水を飲む。気が済むまで飲んだ後、泉をぼんやりと眺めていると、水面が澄んできて何か見えた。私が映っているのだと思った。たしかに私は映っていた。けれどよくよく見ると、そこに映る私は頭に包帯をぐるぐる巻きにされ、口や腕からたくさんの管が伸びている。すると画面が引いていき、見えたのは家族だった。妻と息子が、私に覆い被さるようにして泣いているのが分かった。ああ、私は死ぬのだな、と思った時、突然泉に吸い込まれた。

「おはようございます」
「田中くん、おはよう」
8時45分。いつも通りの時間だ。腰をおろそうとすると田中くんから話しかけられた。
「課長、襟元に何かついてますよ」
田中くんが私の背広に付いた黄色いものを指さす。
「ああ、これか。先週君たちが私の机に百合を飾ってくれた時に付いたらしくてな。いや、飾ってくれたのはありがたいんだが」
払ってみせるが落ちる形跡はない。

田中は「課長以外」と書かれたグループLINEに送る。『ねえ、あいつまだ気づかないんだけど。花まで飾ったのに。飾ってくれてありがたい、だって。家族にも愛想つかされてるらしいのにね』。



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