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門外漢かく語りき:ちょっとキテレツな、「こころ」と「からだ」と「わたし」に関する推論

量子力学の中に
「観測問題」というのがあるそうで
 
実験結果に、観測者の意図が反映される
つまり、ある仮説に対して
「正しい」と考える人が観測すると
「正しい」ことを証明する結果がでるし
「ちがう」と考える人が観測すると
「ちがう」ことを証明する結果がでる
 
だから、意思って大切なんですよ、と
それを教えてくれた人は言ってた。
 
一方で、脳科学のサイドでは
「意思否定」という考え方があって
 
例えば、水を飲みたいと思ったとき
「飲みたい」という意思が働く前に
筋肉はすでに、コップを持つための
動きを始めているのだそうで
 
意思、なんて実は存在しないのではないか
というのが、ある学者さんの意見だった。
 
 
はて、意思は、大事なのか、存在しないのか
どっちなんだ?となるわけですが
 
 
こういうときは
どちらも正しいとしたら?と考えるのが吉
なので
 
「観測問題」と「意思否定」の根拠が
どちらも事実なのだとしたら?
と考えてみるわけです。
 
 
そうすると筋肉の動き、とか、意思、などの
明るみにでる(見える、自覚できる)もの
ではないところに

「わたし」的ななにかが存在するってことに
なりませんかね。
 
そうすると「わたし」的なにかからしたら
心も体も、望みを実現するための
手段というか協力者みたいなことになりますよね。

つまり
  
プロジェクト「わたし」
 フェーズ「山岡麻子」
  チーム「こころ」
   メンバー:意思、喜怒哀楽、快不快
  チーム「からだ」
   メンバー:筋肉、骨、血液、神経、臓器
 
みたいなことなんじゃないかな、と。
 
「わたし」の実態は、みえないんだけど
「こころ」や「からだ」には
常にビジョンや指令が提示されていて
それを手がかりに「山岡麻子」は
「わたし」の望みを現実化させていく
 
そんな仕組みなんじゃないかな、と。
 
心と体は、同じ方向を向いて
「わたし」の望みを実現すべくはたらいてる。
仮に、やる気はあるけど体が動かないとか
体はスタンバイしてるけど気が乗らないとか
そういう相矛盾するような状況にあるときでも
それは変わらない、のだとしたら
 
同じ方向を向いてるとしたら?と考えるのが吉
なんじゃないかとおもうわけです。
 
それがきっと、自分にもわからない
「わたし」の望みを実現してくための
大切なてがかりじゃないかとおもうわけです。
 
どでしょかね?


しっかし、量子力学やら脳科学みたいな
ガチガチの研究を必要とする分野を
こういうふわっとした話に展開するあたり
いかにも門外漢のやることですなぁ。笑
 
自分の楽しみのためだけに
引き合いに出してるだけですからね。。笑
 
ま、哲学サイドなんで大目に見てちょ。😅😅

 

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