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「愛していると言ってくれ」を観て、近年と昔の「すれ違い」について考えた

何ヶ月か前に、無性に昔のドラマの
「愛していると言ってくれ」が観たくなって
そしたらタイミングよくAmazonPrimeに
ラインナップされたんで時々観てるんだけど
 
昔のドラマって、携帯電話とかスマホがない分
「会えない」ていうすれ違いが、登場人物たちの
心のすれ違いを表したり、物語を盛り上げるのに
よく使われているよね
 
そういや以前はそうだったんだよなぁ
宅電とか手紙とかFAXとかだもんなぁ
大変だよなぁ、なんておもったけど
 
じゃあ携帯やスマホがあるからといって
近年はすれ違いがなくなったかといえば
決してそんなことはないなぁって
 
 
どんなにたくさんの言葉を送りあったとしても
人は「自分の知ってること」しか知覚できない
自分の中にないものを、携帯やスマホから
受け取ることは、基本的にはできないので
 
よほど、言葉の扱い方に長けていたり
相手の文脈や背景を汲み取る意思と力があれば
もちろん、受け取る範囲はかなり広がるけれど
 
あくまでそのやりとりは、「やりとり」のようでいて
自分の世界の中だけで起こっている、と考えたほうが
実態に近いとおもう
 
  
実際に会ったときに起こることというのは
「自分の知ってること」を揺るがすほどの
圧倒的なインパクトを実はもっていて
(情報量が圧倒的だから当然だけど)
そこで初めて、自分の世界の中から出て
自分以外の人や場と作る世界が生まれる
 

会わなくても情報をやりとりできる分
「すれ違ってる感」を感じにくくて
実際に会うときに起こるインパクトを
軽視しがちになることが
近年の「すれ違い」の特徴なのかもかなぁ
 
 
高度になってるのか、稚拙になってるのか
 
まぁそんな比較自体
あんま意味ないんだけどね
 
とにかく、なんの因果か
そういう環境、そういう時代に生きてるので
ここでどうおもしろがって生きていくか?を
考えてくのみだもんね。
 
 
とりあえず、特に結論はないけど
トヨエツ a.k.a. 榊晃次 が死ぬほど美しい
ということだけは、ぜひ周知したいので
共有しておきますね。

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