エディンバラ暮らし|巡るキャロットケーキ
後悔の残る旅はきっと良い旅だ。
2018/12|はじまりのキャロットケーキ
5年前の年の瀬、母と二人でイングランドにいた。
社会人3年目になった私からの「親孝行」旅のつもりだったけど、思い返せばあれはむしろ、私の好きな国についてきてくれた母からの「子孝行」旅だった。
あのとき、小さなベーカリーでどでかいキャロットケーキを見つけた。
茶色の生地に分厚いフロスティングがかかった、見るからに重ためのお菓子。惹かれたけど、当時は見送った。
それ以来、キャロットケーキを食べ逃し続けている。
近頃、日本でもよくこのお菓子を見かけるようになった。でもなんとなく、本場で食べ逃したものは本場で取り返したいじゃないか。謎に頑固だ。
そして去年、再び英国へ。機は熟した。(キャロットケーキの)
そこではめくるめくイギリス・ケーキと、甘味を取り巻く人々との出会いがあった。
2024/6|海のレモンパイ
「海に行かない?」
エディンバラで部屋を借りた最初の土曜日、フラットメイトが唐突に誘ってくれた。
街の北側にある浜辺はそこそこ賑わっていた。並んで砂浜に座ると、目の前は寒々しい海の色。夏と言っても、ここはスコットランドなのだ。
「泳ごうかな」
聞き間違えたかと思って隣を見ると、Tシャツを捲る彼女がいた。
「水着着てきたんだ〜」
得意げだ。後から知ったけど、その数週間はエディンバラで貴重な夏日だった。
移民の多い英国でイギリス人を見分ける方法が一つある。
冷たい海で、はしゃいでいること。
結局海には入らなかったけど、翌日彼女は風邪をひいてしまい、私は少しだけイギリスの風邪薬に詳しくなった。
冒頭の写真は、海沿いのレストランで一緒に食べたレモンパイ。
爽やかな見た目とは裏腹に、激しい甘さだった。
いろいろとイギリスの洗礼である。
2024/6|音楽とブラウニー
スコットランドといえばバグパイプ。
週末になると石畳の路上でキルトを着たパフォーマーがバグパイプを演奏している。荘厳で繊細な石造りの建物の間に響く朗らかな音楽。贅沢な取り合わせだ。
ある日、音楽会があるというので行ってみた。Ceilidh(ケイリー)というスコットランド式「歌とダンスのゆうべ」に何度か出かけたら、そこで仲良くなった地元の方が誘ってくれたのだ。
音楽のお供に併設のカフェでケーキを選ぼうとしたら「誘ったのだから、ご馳走するよ」と言う。「申し訳ないです」「そしたら次またご馳走してくれたらいいさ」。気持ちよく奢ってくれる人だった。
次また、と言われたのに、あれから帰国まで会うことはなかった。
2026/6|大盤振る舞いバナナケーキ
フラットメイトがよくお菓子をくれる。
スーパーで買える美味しいお菓子を紹介してくれたり、パティスリーのケーキをテイクアウトしてきてくれたり、作ってくれたり。ここ数年、肌の調子が悪くなってから甘いものを摂りすぎないようにしてきたのに、たった数ヶ月のイギリス生活ですっかり元の味覚を取り戻した。
2024/7|ビタミンカラーのチョコレートケーキ
電話越しの家族の声がずっと元気ない。
こんなときの最善策は近くにいることだ。すぐに帰れる距離じゃないけど、8時間の時差が永久の溝を生むんじゃないかと怖くなった。そもそも期間限定の渡英、とはいえやっぱり、ここにいるべきじゃないんじゃないか。
公園の芝生の上でぼーっとしていたら、犬を連れた人が「大丈夫?」と声をかけてくれた。
やべやべ。元気を出さなければ。
ポンド高の英国で1日10£生活にチャレンジしている最中だったけど、このときばかりはカフェのショーケースで燦然と輝くケーキに積極的に吸い寄せられてみた。
踏ん張るために、ときにはケーキの力を借りたっていい。
2024/7|結婚式のエッグタルト
一時帰国を決めたとき、このままエディンバラから引き上げるか迷った。
だけど、友達の結婚の承認を頼まれていたことを思い返して、結局また戻ってきた。
自分は新婦側の証人として、ただ名前と住所を提供しただけ。それでもいたく感謝されて、友達と新郎一家のお食事会に招いていただいた。初めての香港料理、回るテーブル@エディンバラ。
「ここではみんな誰も遠慮しないから、たくさん食べてね」と、目の前でいろんな料理が回る。すでにお皿で埋め尽くされたテーブルに、ひっきりなしに新しい料理がサーブされる。豚の煮もの、何かの炒め物A、何かの炒め物B、フライドライス、肉まん、肉まんB、鳥の脚。エッグタルト。
この雰囲気、あれだ。お正月だ。
親戚で集まって食事するの、そういえばもう何年もやっていないな。
2024/8|物理学者のタヒニケーキ
最初の家の契約満了に伴い、別のフラットの一室を借りた。決まっていた予定が終われば帰国することにしたので、短期での賃貸契約だった。
次の貸主・兼同居人はイラン人物理学者で、自分より一回り年上の女性だった。静かな緊張感を湛えた人だなという印象と、これまでの賑やか生活とのギャップが大きそうだという予感があった。
内覧のとき、「音を立てない玄関の閉め方」や「ゴミの分別」「食洗機の頻度」など相当事細かに説明してくれたので、こちらも「クリーンな日本人」として契約交渉を丁寧に慎重に進めた。
細やかな性格の人には細やかに対応するほうが初手の関係構築がスムーズだ。ここはクールに。
ところが、クールの仮面はすぐに剥がれた。
ある日 物理学者が作ってくれたケーキがあまりにも美味しくて、気がついたら半分ぐらい食べてしまったのだ。パクパクと。
イギリス式の生地に、イランの食材・タヒニソース(胡麻のペースト)を塗った二段重ねのケーキ。ナッティなほろ苦さとしっとりした甘みがマッチして、私の中のケーキ・オブ・ザ・イヤーのグランプリを獲得した。
それを見た物理学者は嬉しそうで、そのあと2回同じのを焼いた後、レシピも伝授してくれた。そのレシピはいまとても重宝してる。
レシピだけじゃない。物理学者からは、イランのことや、お向かいの人の長話のかわし方も教わった(玄関をそっと閉めないといけないのは、お向かいの人がしょっちゅう注意をしにくるからだそうだ)。
細かいなあ、なんて思って申し訳ない。彼女は外国のアカデミアでサバイブしてきただけの、優しい人だった。
2024/8|行けなかったアフタヌーンティー
翌週日本に帰ることを、お世話になったアンさん夫婦に報告した。
「自然や地域コミュニティと関わりたい」と自己紹介した私を、山菜狩りや王立植物園での野菜作りに誘ってくれた人たちだ。私にとって奇跡の人たち。
帰国直前の数日間、まるで英国の素晴らしい思い出を1つでも多く持ち帰らせようとするかのように、連日いろんなところに連れて行ってくれた。彼らの家、丘の上の果樹園、パーマカルチャーを実践している農場ツアー、西の方の古い橋、街の美術館。
「ティーでもどうかしら」
娘夫婦も交えた美術鑑賞の後、最後の団欒のチャンスだった。それをお断りしてしまった。
そのときは翌日の帰国にむけてとにかく余裕がなかったのだけど、これはいまだにじわりと後悔していること。
英国人からのティーのお誘いを断ることの罪深さに震えてる…のではなくて。
与えられるばかりで、お返しにできることはあまりにも少ない。それならば、せめて存分に受け取れる人でありたかった。優しさを受け取るにも器がいる。
2024/8|さよならキャロットケーキ
ここでの暮らしを始めたばかりの私を海に連れ出してくれたり、甘いものをたくさん教えてくれた最初の家のフラットメイト。
帰国する前の週、彼女に挨拶に行った。
「そういえば、キャロットケーキを食べたいって言ってなかった?もう食べた?」
そうだった。また食べ逃すところだった。
彼女が私の『英国にいるうちにキャロットケーキを食べておきたい』という言葉を覚えていたことにびっくりした。
「いいや、まだ」
「そしたら、これおすすめするよ」
なんとウェイトロース(スーパー)の売り場に案内された。5年前の母娘イングランド観光旅行では辿り着かなかった選択肢だ。
今日会えてよかったなあ。
彼女と別れ、ふわふわした気分で今の住まいへ帰る。
元フラットメイトおすすめのキャロットケーキを、いつも物理学者が焼き菓子を載せてくれるトレーに置く。そして2人で向かい合って食べた。
なんだこれ、美味しい。2人してパクパクパクパク
最後の最後に、最高のキャロットケーキだ。
こんな感じで、砂糖たっぷりの「エディンバラ暮らし」が終わった。この滞在で味覚が甘党に傾いたのは間違いない。
そんな中でも、苦い思い出がいくつかある。
「また今度ね」の「また」の機会を逃してしまったこと。
アフタヌーンティーを断ったこと。
みんなイギリスやイランのことを教えてくれる一方、自分はうまく伝えられるほど日本のことをあまり知らなかったこと。
とか。
だけど、後悔の残る旅はきっといい旅だ。
いつか母と食べ逃したキャロットケーキと思いがけない形で巡り会えたみたいに、心残りからきっとまた次の物語が生まれるかもしれないからだ。
先日(といっても12月)、アンさん夫婦からクリスマスカードが届いた。
縁は巡る。いまも巡っている。
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