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感覚過敏の話〜レモンを齧らなきゃ人と話せないとしたら

人と会話するたび、箱いっぱいのレモンを食べなきゃならない苦しみを想像してみてください。

決してレモンを悪者にしたいわけではないのですが、レモンって酸っぱいですよね。それをたとえば、職場の朝礼で上司の話を聞くたびに、お店でお会計のやり取りをするたびに、授業と授業の休憩時間にちょっと友達とおしゃべりするたびに、食べなきゃいけないとしたら。
しんどくありませんか?

私レモン大好きだから余裕! という方は、レモンの代わりに納豆でもパクチーでも90%カカオのチョコレートでも、何でもいいのであなたが苦手な食べ物を想像してみてください。
嫌いな食べ物なんてないぜ、というたくましい方は、では耳元でシンバル鳴らされるとか、目の前で眩しいフラッシュを焚かれるとか、とりあえずなんか嫌だな、と感じることを想像してみてください。そんなことが、人と会話をするたびに起きるとしたら。
さすがにしんどいと思うんですよね。

情緒的な過敏性は、穏やかで愛情に満ちた人たちとの交わりを、箱にぎっしり詰まったレモンを強制的に食べさせられているかのような気分に変えてしまったのである。

ドナ・ウィリアムズ

冒頭のレモンの話は、あくまでも一例ですが。
自閉症や感覚過敏の人の生きづらさを理解しようとするとき、私たちは想像する必要があります。
その人には世界がどのように見えているのかを。
それはたいてい、定型発達と呼ばれるマジョリティ(多数派)とは違うように見えています。


発達障害という言葉が、良くも悪くも市民権を得て、彼ら彼女らに合理的配慮を、という社会になってきました。
職場や学校などで、この人はこれが苦手だからこういう配慮をしよう、というとき、時々聞かれる声があります。
「どうして彼(彼女)だけ特別扱いなの? 私だってこんなに大変なのに」
「みんなつらいことがあっても我慢しているのに」


そりゃあ誰しも楽して生きているわけではないし、別に発達障害の方だって、周りよりも楽してやろうなんて思って配慮を求めるわけではありません。
定型発達と呼ばれるマジョリティ(多数派)が意識しなければならないのは、この社会はマジョリティに合うように作られているということです。
合理的配慮を認めないということは、マイノリティに対して、マジョリティのルールに従え、と言っているようなものなのです。

目に見えるという形でわかりやすい例を出せば、階段しかない施設は車椅子ユーザーを排除しています。日本のあちこちにある貼り紙は、視覚障害者には届かない仕組みになっています。

感覚過敏は、外からわかりづらいために、なかなか理解してもらうまでが難しく、時にはただ甘えているだけのように思われてしまいます。そして実は本人自身も、これは甘えなんじゃないかと悩んでいることが少なくありません。なぜなら、他人の感覚と自分の感覚の鋭さ・鈍さを比べることはできないから。

かつて私が出会った人で、教科書の文字がどうしても曲がって見える人がいました。まっすぐじゃない文字の羅列を、どうしてみんなすらすらと音読できるのか、不思議でならなかったそうです。


相手が生きづらさに困っているとき。
私たちは、まず相手の知覚している世界が自分とは異なることを、自覚しなければなりません。

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