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Rambling Noise Vol.71 「ONE FROM THE HEART その1」

だからと言って、アサノさんがその

「テ」

の業界に仲間入りしたいとか考えていたのでは、決してない。

アサノさんの子供の頃のココロの師匠は松田優作とブルース・リー。

中学生の時分にブラウン管で眼にした松田優作は、アサノさんにとって衝撃的だった。
『太陽にほえろ!』のジーパン刑事 柴田 純役で既に存在は知っていた筈だが、実際上ショックを受けたのは、映画『最も危険な遊戯』であった。
以後、何作も松田優作とコンビを組むことになる監督の村川 透の冴えたセンス、撮影の仙元誠三の手持ち一代の映像美、音楽の大野雄二の従来の邦画に於ける泥臭いそれとは一線を画した伴奏、勿論それらもあってのことだが、それよりも何よりもアサノさんがべっくりしたのは、主人公である殺し屋、鳴海昌平役の松田優作その人だったのだ。

当時、石原裕次郎はもう太ってしまっていた。

『太陽にほえろ!』のボスこと藤堂俊介捜査第一係長として、毎週金曜日の夜にお茶の間に姿を見せてはいたが、もう主役級の扱いではなくなっていた。
その頃既に映画は斜陽化し、銀幕はテレビに取って代わられていた。
即ち、日活無国籍アクション映画の時代はもう過去のこと。日活はすっかりロマンポルノの供給元と化していた。あの、陽気で向こう見ずな男たちの居場所は、どこにも無くなってしまったのだ。

そんなご時世、当時は日活アクション物の存在すら知らずにいたアサノさんから見れば、邦画といえばジトーっとした貧乏くさいものにしか思えなかった。好きではなかった。
しかし、大晦日の深夜にテレビでたまたま観た『最も危険な遊戯』は全く様相が違っていた。
スマートさ、カラッとしたユーモア、しなやかな松田優作の体躯、疾駆する姿の美しさ。

こんな邦画があったとは!

松田優作は遅れてきたアクションヒーローであった。
山口県からカリフォルニアへ、やがて帰国と同時に上京、劇団入り。
心酔していた原田芳雄はギリギリセーフだったが、当の松田優作が世に出てきた時には、とっくに日活は無国籍アクション映画の看板を下ろしてしまっていた。
戦国の世で言えば、「遅れてきた戦国武将」伊達政宗みたいなものだ。

やっと評価されたと思えば、やってくる仕事のオファーは拳銃を振り回す様な役ばかり。本人にしてみれば不満は有った様だが、仕方がない。あれほど美しいアクション俳優は他に類を見ないのだから。
と、まぁ、そんな感じでアサノさんは、『最も危険な遊戯』を観て以来、松田優作フリークと化した。(一方のブルース・リーは既にこの世の人ではなかったから、追っかけようが無かったのだ)

そして、それは1989年11月6日午後6時45分に膀胱癌の腰部転移により松田優作が逝去するまで続いたのであった。

享年四十歳。
体が小さくて虐められることが無い様にと、母親が出生届を出すのを一年間遅らせた為、戸籍上では三十九歳であった。

(続く)


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