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諏訪湖のほとりの「町工場」から~旋盤職人の父から聞いた話~

日本地図のちょうど真ん中くらいに位置する「諏訪湖」。そのほとりに私の父が一人で切り盛りする「町工場」がある。
作っているのは、自動車業界で使われる特殊な金属部品。ごくわずかな数の機械に取り付けるために作られる。その上100分の1ミリ~1000分の1ミリという精密さが要求されるものだ。


「小ロット・多品種」だからこそ必要な「職人」の仕事
 父は「親会社」から図面を介して発注を受け、旋盤という工作機械でその図面通り削る。主に行っているのは自動車のガソリン燃焼に関わる、「ピストンリング」という箇所の部品を作るための加工機に取り付ける“型”である。業界では「治具」と呼ぶこともある。
 ピストンリングはエンジンの一部だ。ガソリンを一定量吸い上げ押し出すために使われる。したがって、その部品には精密さが要求され、父の作る“型”にも同様のことが言える。また、それは1台か2台の機械に取り付けるのみ。したがって、結果的に現場は「小ロット・多品種」にならざるを得ない。
専門性は高いが、収益性が低く、大きな会社はやりたがらない。だからこそ、小回りのきく「町工場」に仕事がまわってくる。
「職人の仕事」とも言える。


「床屋」から「金属加工業」に足を踏み入れた祖父
 父の父である私の祖父も金属加工に携わっていた。
 もともと、祖父は床屋の息子。しかし、大学時代は工芸科に在籍する。時は第二次世界大戦。学徒出陣したが戦後に帰還。工業デザインに携わりたいという気持ちがあったが、戦後の動乱期、そして一人っ子ということもあり家業を継いだ。
 父が10歳くらいの頃、祖父に転機が訪れる。プラントなどで使うバルブを作る会社を経営していた祖父のいとこが、「会社を手伝ってほしい」と祖父に持ちかけたのだ。床屋を継いだものの物足りなさを感じていた祖父は、「やってやろう」と奮起。日本は高度経済成長期を迎えていた。仕事はいっぱいあった。
祖父はしばらく兼業していたが、やがて床屋をたたみバルブ会社に専念した。父が12歳の時だ。
祖父は、従業員の給与計算などの庶務的な仕事も、金属加工の現場仕事も、と器用にこなした。少年時代の父はそんな祖父に着いて週末は工場で「アルバイト」をした。昼に出前のラーメンを食べるのが楽しみだった。


 
父のキャリアの始まり――病後に祖父の工場で
 父が、その道に入るのはそれから10年の後であった。
大学入学の頃父は体を壊し、ほどなくして退学。その後数年臥せっていた。「自律神経失調症」と病名がついた。周りの友人が就職した頃、やっと体が動くようになり、父は喫茶店やレストランでアルバイトをした。そんな息子を見て、祖父は父を工場に「アルバイト」に呼び、やがて父は社員となる。
パーツの組み立て、バリ取りといった加工に始まり、自分の工場でできない部品を他の加工屋へまわすといった同業者とのやりとりも・・・・・・。この時、よその工場を見ることは勉強になったし、その頃の“つて”が自営業とも言える今でも生きているという。


 
バブル崩壊をきっかけに作った「自分の会社」
1990年代のバブル崩壊は、父の働く会社にも影響を及ぼした。加えて、その当時の社長が後先を考えず工場を拡大したため、莫大な負債を抱えたまま本業の収益が減るという状況に陥った。上層部は立て直しをはかることは無理と考え、会社を解散した。
――この時、私は中学生、弟も小学生とまだ子どもであり、父は母を含めた家族4人を養う必要があった。
もとより、当時の社長と合わないと感じていた父。新しく会社を興そうと一念発起する。取引先の1社が、仕事をしないかと持ちかけてくれ、継続的に発注してくれそうなめどが立ったのだ。それが、前述したピストンリングに関する仕事だ。どこでもできるものではなかったのだ。
――「前の会社に対してとやかく言うのはやめよう。前を見て積極的にやっていこう」。
会社を興してからの父は、忙しく働いた。それまでの金属加工の経験は生きるが、同じ素材、同じ形、ということはほぼないため、毎日が試行錯誤の連続だ。
図面の要求を満たすためのやり方に正解はない。どれだけ時間がかかるのか、どれだけ手間がかかるのか、やってみないとわからない。素材の扱い方も、実際に削ってみなければ分からない。金属は削ってしまえばおしまいなので失敗ができないことの緊張感がある。
受注元から支給された材料の場合、失敗すれば弁償することもある。ただし、やった仕事はデータとして残るので、「今回はマイナスでも次回取り戻す」のだ。
 成功も失敗も自分に降りかかってくる現場仕事。しかし、人を使うようなマネージメント業務はない。父の性格には向いていたという。


 
80代の同業者に教えを乞う――経験値がものを言う「職人」の世界
 今でも、古い職人のやっていることを参考にすることがある。
最近でも80代の職人と「長くて細いものを削るのは難しい」という話をした。曲がったり、たわんだり、また熱処理をかけながら研磨すればひずみが生じる可能性がある。熟練度が要求される。
 「コンピュータ制御の”新しい”機械での仕事ではなく、自身の感覚をたよりに削る『汎用旋盤』が職人の真骨頂だ」
 経験値があればあるほど有利とも言えるので、高齢の職人しかできない仕事がある。
この業界は、逆三角形になっていて、優秀な職人は底の部分に位置する。その職人には全く同じ仕様と図面の見積書が複数社から来ることがある、なんて笑い話もある。
だが、その職人がいなくなってしまったらどうするのだろう。発注元の会社の上層部は考慮していない。
 業界自体も固定されていると言え、ピストンリングは父の親会社を含め国内では三社がシェアを占め、それはこの30年間変わることはなかった。縮小もなければ拡大もないのだ。


業界の今後と、一職人のつぶやき
 ピストンリングを部品とする「エンジン(内燃機関)」を持つガソリン車。一方それに相対するのが「モーター」を動力源とする電気自動車だ。今後、もし電気自動車がもっと増えれば、従来のガソリン車に部品を提供していた業界は縮小せざるを得ない。
 自分の持っている技術を自動車産業界以外の分野に売り込んでもいいのかも知れないが、一人で工場の経営と現場仕事をしているため、「仕事を広げる状態ではない」と話す。
 今は、少年時代から金属加工を間近で見て、途中に困難を経験しながら、この年になっても自分が退屈しない「仕事」ができることを「よかった」と感じている。
 


※この文章は2017年に筆者が参加した「Loco共感編集部・文章講座」の課題として執筆しました。手直ししたい部分も多々ありますが、当時提出したままのものを掲載しています。掲載画像は2024年4月、父が切り盛りする工場を撮影したものです。


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