見出し画像

精神科医 中井久夫さんが遺したもの

最相葉月著「中井久夫 人と仕事」

2022年に亡くなった精神科医中井久夫さんを、長く交友関係があった最相葉月さんが追悼も込めて、その人となりと精神医療への貢献が紹介されています。

日本でPTSDが広く知られるきっかけとなった阪神淡路大震災で、中井さんが神戸大学医学部に勤務されていたことも、「心の傷を癒すということ」を遺した安克昌さんが避難所で心のケアに奔走されていたことも、一介の大学生だった私は同じ地にいながら当時何も知りませんでした。その後相次ぐ天災や社会的犯罪でも、心のケアがデフォルトになったことの意味は大きいでしょう。

犯罪の最たる戦争について、今まさに日々目にしてしまう私たちにも大切な警句を引用します。

中井は戦争直前に起こる、始まるのか始まらないのかはっきりしない蛇の生殺し状態に似た重圧感を「マルス感覚」と呼び、もういっそ始まってくれという無力感こそ戦争推進者が待ち構えているものであり「戦争へと「踏み越える」際の「引き返し不能点」は政治的よりも心理的に決定される」

そして、中井久夫は

「マルス感覚」に自覚的である限り「心理的引き返し不能点」を遠ざけ、不測の事態に備えることが可能

と考察しています。一方でそれは自己コントロールだけでは足りず、

自分は独りではないという感覚、近くは信頼できる友情、広くは価値的なもの、個を超えた良性の権威へのつながりの感覚が必要であろう。これを可能にするものを、文化と呼ぶのではあるまいか

と言います。どうやらおかしな権威がヒューマニズムを無視して横行しそうな時代に、「良性の権威」という言葉にはハッとさせられます。
自分がいる世界への基本的な信頼感の再構築のためには何ができるか。精神科医という範疇を超えて、深い問いかけをされている気がします。

この記事が参加している募集

推薦図書

わたしの本棚

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?