見出し画像

ASD当事者への弱者嫌悪とその背後に潜む心理

 最近、「ウィークネス・フォビア(弱者嫌悪)」という言葉を知りました。
 男性学研究者の内田雅克氏が提唱したこの言葉は、「"弱"に対する嫌悪と、"弱"と判定されてはならないという強迫観念」を指し、弱さへの嫌悪と、その弱さを持っていることを認めたくないという心理を表現しています。

 今回は、弱者嫌悪が及ぼす影響とその心の流れについて考えてみます。

 弱者嫌悪をする人は、他者から「あなたは弱い人だ」と思われることを恐れ、自分自身でも「自分は弱い」と認めることをためらうかもしれません。
 また、理想が高い方は、自分の欠点をなくし、完璧でありたいと願うでしょう。 
 これにより、他者や自分の「弱さ」に敏感になり、頑張り屋の人は自分が努力をしてきたことから、努力をしていないように見える人に過剰にイライラしてしまうことがあります。

 完璧であることへのプレッシャーや他者から弱いと思われることへの恐れが強いと、「弱さ」を感じさせる存在に過剰にイライラしてしまうことがあります。
 こうした時、私たちは無意識に「弱く見える」他者に、自分自身の「弱い部分」を見出し、その相手の弱さを批判することで、自分の弱さに目を向けないようにします。これは心を守る機能の一環です。
 また、他者を批判することは、自分が優位な立場に感じる手段でもあり、不安や恐れを抑えようとする心理が働いているかもしれません。

 ASD(自閉症スペクトラム障害)は、社会的な相互作用やコミュニケーションにおける困難さ、限局し反復される行動、興味や活動の様式(こだわり)が特徴です。
 しかし、こうした特性に対する理解が一般的でないことから、ASD当事者は社会で受け入れられにくいことがあります。

 また、自分も同様にASDの特性に対する理解が得られない経験があり、他者からの理解や受け入れには限界があることを感じました。社会性の乏しさから精神面の幼さを指摘される場合もあり、次に紹介するかつての同期女性のコメントも一種の「弱者嫌悪」かと感じました。

「馬鹿な人や精神面が幼い人は一緒にいてノリ的な意味では面白いかもしれないけど、恋愛対象としては無理。男の人として見れない。」

 このコメントは、個人の好みや理解の差によるものであり、全ての人が同じような感情を抱くわけではないと思います。ASDを抱える人々は、異なる社会的な規範に挑戦し、自分らしい価値観や特性を持つ人が多い印象です。
 自分の強みを理解し、他者とのコミュニケーションで工夫することで、前向きな経験を得ることができると思います。

 「弱者嫌悪」を理解するには、自分が他者と同じような欠点や認めたくない部分を抱えている可能性があります。
 この場合、自分の弱さを認めず、同じ特性を持つ相手を批判することで、自身の弱さに向き合わないようにしているかもしれません。
 一方で、自分をあるがままに受け入れ、良い面も悪い面も認めることで、他者の弱い部分に対して敏感な反応が減り、全体像を客観的に見ることが可能でしょう。 
 
 自分の中の弱さを認め、評価に縛られずに行動することが自分らしさに繋がるでしょう。
 あるがまま自分に近づくためには、自分の弱点を直視し、内面に他者には様々な価値観が存在することを認識することが鍵になるでしょう。
 自己成長を妨げないように、良い面も悪い面も平等に見つめ、自分を大切にしたいものです。

 かつて、人々から怒りと嫌悪を向けられた際、その感情は単に自分個人に対してだけでなく、自分が持つ「弱者属性」も含まれていたと考えると、彼ら、彼女らの嫌悪感の強さに納得がいく点があります。
 この経験は、他者が抱く不快感が単なる個人攻撃ではなく、自分が抱える特定の特性や弱さに対するものだった可能性を示唆しています。
 他者の感情が自身の特性に関連していることを理解することで、嫌悪感に対する理解が深まり、自分を客観的に見つめ直す契機ともなります。これは成長と学びの一環であり、自分を受け入れる上での重要なステップとなると考えています。

 今回は「弱者嫌悪」について考えてみました。ここまでお読みいただきありがとうございます。

【参考HP】

 

もし、サポートしたいと思っても、そのお金はここではない他の何かに使ってください。僕の方はサポートがなくともそれなりに生活できておりますので。