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地に墜ちた衛星 #17 劉子超(ノンフィクション作家)

 壮麗な天山山脈、バザールに立ち上る香辛料の匂い、ソ連崩壊後の混乱を生き抜く人々――。中国・北京出身のノンフィクション作家・劉子超りゅうしちょうが、二〇一〇年代の中央アジア五ヵ国の様子を、旅のエピソードとともに綴る。今だからこそ知っておきたい、旧ソ連圏の中央アジアとは。

草原の核爆発

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 旅行会社から出てきて、僕はほっと息をついた。まだセメイの街を散策できる時間がたっぷりあった。僕はドストエフスキーの旧居を訪れた。それはソ連時代の住宅街の中に潜んでいた。まるで時間が錯乱し、そこに置き忘れられてしまったかのようだった。旧居はシベリア式の木の小屋で、隣には小さな博物館があった。

 博物館はソ連時代の建築で、採光が良くなかった。陰の中にソ連時代に生まれたおばさんが座っている。彼女は冊子を開いて、僕に必要事項を記入させた。それはどこか死の契約を交わすかのようだった。博物館には英語の話せる解説員がいたが、今はとても忙しく四時間待ってほしいということだった。四時間後には博物館は閉館しているので、僕はひとりで見学することにした。

 受付を担当していたおばさんは管理人に変身し、たくさんの鍵を束ねたキーホルダーを取り出し、扉にかかった錠を開けた。頭上の白熱電球は、水漏れを起こしたスチームヒーターのように、ごろごろと音が鳴っていた。目の前には、古い写真やノート、書籍が陳列されている。

 僕は案内にしたがって見学した。一セクションを見学し終えるごとに、おばさんは一部の照明を消した。博物館は政府から補助金を受けていて、入場料も取っているとはいえ、どうやら資金繰りは大変なようで、節約を心がけざるをえなかった。

Google マップ

 一八五四年、ドストエフスキーはオムスクでの苦役を終えて、セメイで兵役に就いた。私は兵士の外套を纏ってはいるが、これまでと同様にやはり囚人のままだったとドストエフスキーは語っている。当時のセメイは〝町と村のあいだ〟のような場所だった。それは古代モンゴルの小さな町の廃墟の中心に広がり、またエルティシ川の西岸に位置していた。多くの家屋は一階建ての木造家屋で、東方正教会の教会が一棟と、モスクが七棟立っていた。当時、ロシア帝国は、まだ中央アジア全土を支配しておらず、セメイはカザフステップの辺境であり、しばしば遊牧民族の侵略を受けていた。今と同じで、小さい町には緑が乏しく、至るところが灰色で、砂埃に覆われていた。

 最初の数ヵ月間、ドストエフスキーは軍のキャンプで暮らしていた。その後、町で一人暮らしすることがようやく認められた。彼はワンルームの木の小屋を借りた。大家は年配の未亡人で、彼女の長女が家事を行った。長女は二十一歳だったが、すでに夫とは死別していた。三十三歳だったドストエフスキーは、すでに四年もの労役の日々を過ごしていた。彼は本当に身の回りの女性たちの魅力に抗うことができたのだろうか? 今日では、彼が寄宿先の家族に対して強い興味を抱いていたことは分かっている。彼は一度母親に対して、魅力あふれる十七歳の下の娘を、家計の足しにするために軍のキャンプで時おり身売りさせるような真似をしてはならないと説得したことがある。

 セメイでは教育を受けた人が極端に少なかった。そこでドストエフスキーは家庭教師に抜擢され、ある将校と知り合うことになった。この将校の関心はカードゲームと美しい女性に向けられており、基本的には部下の兵士の妻や娘の中から目当ての女性を選んでいた。将校はドストエフスキーを家まで来させて新聞を読ませるのが好きだった。そこでドストエフスキーは既婚者のマリア・ドミートリエヴナ――彼の初恋の相手であり、後に最初の妻となる人――と出会った。

 マリアの夫は救いようのない酒飲みで、彼女自身は結核を患っていた。夫婦には七歳になる息子がいた。しかし、これらすべてはドストエフスキーが燃え上がるような恋に落ちるのを防ぐ障害にはならなかった。彼らの間には焦りと嫉妬が渦巻いていた。二人はともに胸が張り裂けそうになりながら、互いに苦しめ合ってもいた。ドストエフスキーはしばしば癲癇てんかんの発作に見舞われており、それはまさに泣きっ面に蜂であった。彼の伝記の一読者に過ぎない僕でさえ、疲弊しきってしまうほどだった。

 その後、二人は晴れて結婚し、セメイで家を借りて暮らした。博物館のおばさんが僕をその家まで見学に連れていってくれた。部屋には書机、湯沸かし器、ロッキングチェアがあった。書机の上には原稿用紙と万年筆が置かれていた。素朴な飾りつけだったが、実用的だった。当時の基準でこの部屋を見ると、ひょっとすると快適とさえ言えるかもしれない。ところが、苦しみながら追い求めた婚姻は間違いだったと証明されることになる。彼らは結婚後も内心で互いに恨んでいたのだ。ドストエフスキーは家族を養うために重い負担を背負いながら、倹約に励んだが、それでも家計は赤字だった。

 結婚して一年後、彼は手紙の中で失望と厭世を示していた。彼の執筆も順調ではなかった。手に入れられると思っていた名声はいまだ遥か遠くにあった。彼は『死の家の記録』の草稿の一部を書き上げ、二本の短編小説の構想を練り上げていたが、いずれも完成はしていなかった。彼が唯一完成させていた作品は、皇帝ニコライ一世の未亡人となった妻に捧げる一首の頌詩しょうしだった。ドストエフスキーを辺境の地へ移送したのは、他でもないこの皇帝だった。

 詩の中で、ドストエフスキーは流刑された者として、夫を亡くした痛みを抱える高貴な女性を慰めようとした。そこで彼はある問いについて答えたかったのだ。それは後に彼のすべての小説においても回答を試みた問いであった。世の中で生じる数々の苦難には、それぞれ意味があるのだろうか?


 セメイで、ドストエフスキーは自身の不幸は天命によるものと見なすようになった。苦難は彼に「贖罪しょくざいの涙」を流させ、また彼を「もう一度、一人のロシア人、ひいては一人の人間」にしたのだった。彼はセメイで六年間暮らし、人生で最も辛く厳しい訓練をやり遂げた。

 町は一人の偉大な人物によって照らされたが、それは刹那せつな的な光に過ぎなかった。一八六〇年、ドストエフスキーはついにセメイを離れる許可を手にした。町は再びつまづいて、起き上がれなくなった。そして、誰にも気にかけられることなく、衰退の一途をたどっていった。今日においても、その状況は続いていた。

 核実験場を訪れるために、僕は相当な費用を支払ったが、まさかそれに応じてツアーの体裁も派手になるとは思いもしなかった。翌朝、ノマドホテルを出ると、なんと僕のほかに三人の同行者がいるのだった。ドライバーと通訳、そしてラマザノフさん自身もそこにいた。

 通訳はアイダという若い男性だった。核実験場を訪れることに対して、彼は僕よりも興奮しているように見えた。自分は決してプロの通訳ではなく、語学教室の英語の先生なのだと後で彼が教えてくれた。彼が生まれたのはソ連解体後ではあるが、当時の歴史にはずっと強い関心を抱いていた。そのためラマザノフさんから声がかかると、彼は二つ返事で引き受けただけでなく、報酬を求めることもしなかった。

 僕は最初、彼に興味と仕事はきっちりと分けたほうがいいとアドバイスしようかと思った。でも、これも彼の人生経験になると思い、考えをあらためた。僕自身も回り道をしてようやく様々なことが分かるようになったのだ。もしも、誰かがその時の僕にアドバイスしたとしても、恐らく僕はその人に対して先輩風を吹かせやがってと思っただろう。それに浮いた通訳料はきっとすでにラマザノフさんのポケットに収められているはずだ。彼は多分、衣装をこしらえるための金を必要としている。彼が昨日着ていたストライプスーツはイタリア製で、今日は本格的な狩猟服をまとっていた。端正な顔はいきいきと輝いていて、髪の毛はジェルで隙間なく固められていた。まるで東アフリカのサバンナでグランピングでもするかのようだった。

「ラマザノフさん、あなたはアフリカまで狩りに行かれたことがあるのでは?」

「いえ、ありませんよ。会社の事業はまだアフリカまで展開していません」

「とはいえ、この服装はとても本格的じゃないですか」

「ははは、カザフスタンにも国立公園がありまして、狩りも楽しめるんですよ」

「何を狩るんですか?」

「オオツノジカ、ヒグマ、それにコンドルなんかを」

 コンドル? 僕はアイダが訳し間違えたのだろうと思ったが、それ以上は追求しなかった。ラマザノフさんがトランクを開けて、彼の持参した大量のマスクと防護服を僕に見せたからだ。核実験場はいまだに放射線量が基準値の十倍を上回っていて、必ず防護服に着替えてからでないと中に入れないと彼が僕に言った。その言葉を通訳している間、アイダの表情は高ぶる感情を隠し切れていなかった。

 僕たちは車で西に向かった。セメイを通り抜けると、近郊には今にも閉鎖されそうな工場がいくつか立っていた。そこを過ぎると、僕たちはいよいよ草原へ入った。どこを見渡しても、枯れた大地が広がっていた。道路の起伏は極めて緩やかで、あたかも細長いベルトがどこまでも伸びているかのようだった。道路はおよそエルティシ川と並行に敷かれていたが、その間は草原によって隔てられていた。時々、植物が生えている川岸と、勢いよく流れる川の水を目にすることができた。

「想像できますか? ロシア人はこの川に沿って私たちの国を侵略したのです」とラマザノフさんは言った。「彼らはこの川を流れに逆らって進み、一定の距離ごとにトーチカを建てました。セメイはまさにこうした軍事拠点が変化してできたのです」

「イェルマークはこの河で死にましたね」と僕は言った。「一つ聞きたいことがあるんです。ロシア人はイェルマークをシベリアを征服した民族の英雄と見なしていますが、コサックの人たちも同じように考えているのでしょうか?」

「そんなことはない」とラマザノフさんは語気を強めて言った。

 ドライバーも加わって、アイダとラマザノフさんとひとしきり議論した。三人の中で、ドライバーの顔立ちが最も典型的なコサック人に近かった。顔が黒ずみ、眉と目は細長く、短いひげを生やしていた。三人の中で、カザフ語が話せたのもドライバーだけだった。ラマザノフさんはロシア語しか話せなかった。アイダは自分の英語はカザフ語の十倍優れていると公言していた。

「あなたは何の仕事をしているのですか? どうして核実験場に行きたいと思ったのでしょうか?」とラマザノフさんが僕に質問した。

「そうですね……」

 僕は心中で考えを巡らせた。作家や記者と答えるのが実際の状況に最も即しているものの、それでは彼らに僕が情報を探りにきたのではないかとの誤解を招きかねず、僕との会話で口ごもってしまうかもしれない。自由業だと答えても通じるとは思うが、それでも彼らに不可解に思われるだろう。もし自分で商売をしていると曖昧に答えたら、きっと彼らは何の仕事をしているのかと続けて質問をしてくるに違いない。最も良い方法は何かの職業を言うことだった。僕が核実験場に行きたい理由を合理的に説明でき、かつ彼らに手を抜かせないようにする職業だ。

「私はガイドをしているんです。普段はお客さんを連れて旅行しています」と僕は答えた。直後に、それでは自分のことを低く言いすぎていると思い、一言付け足した。「自分で旅行会社を立ち上げたんです」

 ラマザノフさんは目が覚めたような表情を浮かべて、「なんと我々は同業者でしたか!」と言った。彼は続けて僕にウルムチで研修を受けた時のことを話し始めた。それは彼にとって初めての中国訪問で、二週間の滞在期間の内に、彼は多くの同業者と出会ったそうだ。その中の一人のミナという中国人の若い女性が、彼の会社のパンフレットを中国語に翻訳してくれたのだった。

「中国の女の子はとても可愛いですね!」とラマザノフさんは言った。

「ミナという名前から察するに、ウイグル族の人かもしれません」

「そうなんですか? 本当に?」、ラマザノフさんは目を見張って僕を見た。整った顔が突如として茫然としたものに変わった。

 核実験場はセメイの西、百六十キロのところに位置している。カザフステップの奥地で、クルチャトフ市に属する。ソ連時代、そこは地図には表記されない秘密都市で、ソ連の核兵器研究施設の所在地だった。冷戦時代、四万人あまりの科学者や軍関係者がクルチャトフに駐在していた。ソ連解体にともなって、核実験場は捨て去られた。今となっては、クルチャトフは瀕死の状態にあるゴーストタウンだった。

 草原にはクルチャトフへと伸びている分かれ道があった。傷んだ道路の両脇には見捨てられた住宅が並んでいる。壁には穴が開いていて、まるで目鼻をくり抜かれる酷刑こっけいを受けたかのようだった。交差点には花壇が置かれていたが、同じように廃れていた。花壇の周りには掘り起こされた泥と傾いた木が生えていた。

 クルチャトフはもう秘密都市ではないものの、人口は半分以下まで減ったとラマザノフさんは言った。今ここで暮らしている人たちのほとんどが街の原子力研究センターに勤務している。彼らの主な仕事は放射性物質による汚染状況を調べ、核実験による壊滅的な被害状況を取り除くことだった。この仕事はすでに二十数年間にわたって続けられているが、いまだに完了していない。

 僕たちは車で真っすぐに進んで、原子力研究センターの入口の前に到着した。入口には見張りがいて、それ以上は進めなかった。ラマザノフさんが車から降りて、通行証を手にしながら軍人と交渉した。その後、僕も車から降りて、受付を済ませ、セキュリティチェックを受け、ようやく施設の中に入ることができた。

 そこは決して小さくないエリアだった。いくつかの建物が積み木のようにばらばらに立っている。僕たちの目指す博物館は、もとはソ連時代の小さいビルで、そこは核物理学者のクルチャトフが働いていた場所だった。クルチャトフはソ連の原子爆弾計画を主導した人物で、この街の名称も彼の名前から付けられている。現在、彼の像が博物館の入口に立っている。原子爆弾を開発するために、クルチャトフはかつては強い決意を持っていた。クルチャトフ像の顔にも頬ひげが生えている(※1)。

 博物館は僕に通訳兼解説員のスタッフを手配してくれた。アイダは自身が突如として失業してしまったことに気が付いた。解説員の英語はしっかりしていて、語彙も豊富だった。彼の英語レベルはアイダよりもずっと高かった。残念だったのは、顔中に吹き出物が広がっていたことと、体から発せられる異臭だった。彼の仕事に対する熱意にも問題があった。表面的な解説を行うことがほとんどで、こちらがいくつか踏み込んで尋ねると、ようやく詳細を話してくれた。何カ所かの解説は看過できないほどいい加減で、通りがかった館長がそれを耳にして叱責したほどだった。しかし、解説員はとても個性的な人物で、ただ黙って叱責を受けるだけだった。声をあげることも、言い訳もしない。そして、叱責が終わるとまたもとの状態に戻るのだ。

 館長は四十代くらいのロシア人の女性で、解説員とは違って、僕にはすこぶる親切だった。彼女は自ら僕を最初の原子爆弾の制御パネル――映画の007のものと大差なかった――まで連れていってくれた。制御パネルの上には黒い受話器がかかっていて、クレムリンまで直通していた。各種メーターやパイロットランプはシステムデータの管理に用いられる。真ん中に「ベリヤボタン」と呼ばれる赤い押しボタンがある。各準備が完了して、このボタンを押すと、原子爆弾が轟然ごうぜんと爆発する。


 核爆発の効果を検測するために、ソ連軍は実験場内に家屋や橋を建てた。都市のインフラ交通システムを模したのだ。更に千五百匹もの様々な種類の動物を放った。原子爆弾のさまざまな動物への殺傷能力を調べるためだった。何も知らない動物たちは、実験場内の様々なエリアに散らばり、そこで食べ物を探し、水を飲み、交尾をした。これから身に降りかかる災難など知る由もなかった。今では、熱線でやけどを負ったり、放射性物資によって変異を起こしたりした動物たちの死骸や器官が、ホルマリンで満ちた大小様々瓶に入れられている。僕が見てきたどんなホラー映画も、これらと比べれば、どれも稚拙で見劣りする。

 クルチャトフの仕事場は当時の様子のまま保存されていた。本棚には上製の『レーニン全集』がセットで並んでいた。壁にはレーニンの肖像が掛かっている。クルチャトフの椅子に座って、メッセージ帳に名前を記帳しても構いませんと解説員が言った。

 僕は中国語で世界平和を祈念した無駄な言葉を記した。ラマザノフさんとアイダもこちらに来て一言記していた。特にアイダが高ぶる感情そのままに、真剣に書き記していた。書き終わると、ラマザノフさんは姿勢を正して、アイダに写真を撮らせた。彼は狩猟服を着ているので、さっきの瓶の前で撮影したほうがより相応しいと僕は思った。


 解説員が言うには、一九四九年に最初の原子爆弾の実験が成功を収めた後、クルチャトフには様々な栄誉が授けられた。その後、彼は水素爆弾の研究開発にも加わった。ただその頃、彼は健康を害しており、間もなく脳卒中を起こした。そこでサハロフが彼の代わりに水素爆弾の実験の中心人物になった。

 科学者たちは核爆弾の威力を目の当たりにし、人類はすでに自滅の淵に立たされていることを思い知った。そして、その核のボタンが政治家たちの手中にあると知った時、彼らは反核の人士となった。晩年、クルチャトフは核実験に反対し、サハロフに至ってはソ連の反体制派の一員となった。サハロフは一九八九年十二月にこの世を去った。彼は千五百ページ以上にも及ぶ回顧録を残した。彼が逝去する二カ月前、実験場では四百五十六回目の核実験が行われた。それは最後の核実験だった。

 カザフ人の怒りは頂点に達した。テレビ中継で、詩人のスレイメノフは元々朗読するはずだった自身の作品ではなく、核実験を譴責けんせきする声明を読み上げた。そして、アルマトゥイでは大規模な反核運動がわき起こった。百万人以上の市民が核実験に反対する声明に署名したのだ。

 当時、東欧革命の大波がすでに巻き起こっていた。ソ連帝国は風雨の中で大きく揺らいでいた。


【訳者注】
(※1)前の一文にある「強い決意を持っていた」の原文は「蓄须明志(ひげをたくわえ,、志を明らかにする)」という成語。日中戦争時代に京劇の名女形・梅蘭芳ばいらんほうが、日本軍の侵略が終わるまでひげを生やしていた(=京劇の舞台に上がることを拒む)ことが転じて、固い決意を示す言葉になった。続く一文にあるクルチャトフ像がひげを生やしているという描写は、その成語に掛けた表現になっている。


 <次回は12月18日(月)公開予定>


劉子超りゅうしちょう(作家・翻訳家)
1984 年、北京市生まれ。北京大学中文系卒業後、雑誌編集者・記者を経て、2016 年から作家・翻訳家として活動を始める。最新作の中央アジア旅行記『失落的卫星(地に墜ちた衛星)』(2020 年/未邦訳)は、豆瓣 2020 年ノンフィクション部門第 1 位・第 6 回単向街書店文学賞(年間青年作家部門)を受賞。その他の単著にインド・東南アジア旅行記『沿着季风的方向(モンスーンの吹く方へ』(2018 年/未邦訳)、東欧旅行記『午夜降临前抵达(真夜中が訪れる前にたどり着く)』(2015 年/未邦訳)。

写真:本人提供
翻訳:河内滴かわうちしずく

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