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カントの純粋理性批判が考えたいのは神、自由、魂の不死、そして意思が自由で神と来世があるならば我々は何をなすべきか?アプリオリとか超越とか批判とか悟性とかは定義できないのでその方法論を構築する、とカントが書いている

カントの純粋理性批判を読みつつ、ガイドブックを読んだりネット記事を読んでも、どうにも道具立てのことにとらわれていて、カントの本書の問題意識や対象や内容、結論についてはなぜかあまり具体的に触れられていない。
 私自身がまだ読み通していないのであるが、岩波文庫の上巻100ページくらいまではいきつ戻りつ、中巻はまだ手配中、下巻は入手して関連を確認した。
 この本の課題は形而上学で考えている神、自由、魂の不死について形而上学は独断論に陥っているとする。それらを理性が検討しえるのか、それを検討しよう、そのためにアプリオリ、超越、悟性などの概念を検討して概念を調べていく、それを批判というだけのことではないのか。コペルニクス的転回は比喩である。
 なので、実は純粋理性批判に答えを書く準備が下巻p92でようやく始まるようである。
 当たり前であるが先ほどと同じテーマである。
 意思の自由、心の不死、神の存在、そして次のフレーズこそ哲学である:p94には意思が自由であり、神と来世が存在するならば、我々は何をなすべきか 
 そして詳細な議論は実践理性批判や判断力批判まで留保されるが若干展開される。下記に見ていこう。
 自由については下巻p94-96までに収束するが私にはその経緯が理解できなかった。カントは先験的自由は理性にとって問題、として、その問題を「神の存在」「来世の存在」に収束させ、p97で私は何を知り得るか、何をなすべきか、何を希望することが許されるかの議論を始める。
 p103では「要するに神と来世とは、純粋理性が我々に課するところの責務から分離させられ得ない」と、神と来世がないと道徳が成り立たないという、ここまで読んできてこれか、というしょぼさを感じる結論に。しかし逆にいうとこのよく言われている命題はカントの引用だということがわかります。この論法をした人には「ははあ、カントだね」とにっこり笑ってあげればいいことがわかりました。
 もう少し進むと、神と学問について、下記のようにある:岩波文庫下巻p140、
「神の認識や来世に対する希望、それどころか来世の有無までも究明しようとしたことこそ、我々が今ここで集結したいと思っているところのもの」
 過去の神学や道徳哲学は「少なくとも来世で幸福になるために、世界を支配している力の思し召しにかなう仕方としては、立派な行状に従うよりほかには根本的でかつ信頼できる仕方のないことを容易に徹見した。・・・そして神学は思弁的理性をのちに形而上学という名で著しく有名になった仕事へ次第に引き入れた張本であった」
 なお、哲学において用語が定義できないという「哲学は、不正確な定義だらけである」という註が下巻p32にあります。これもニーチェの「定義できるものは歴史を持たないものだけである」(道徳の系譜?)と対になる概念です。
 カントの議論の仕方はスコラ学の議論の方法を見ているようです。上記にまとめたことはスケッチで私のこう読んだらいいのではという仮説ですので、お許しください。これを軌道修正しながら通読しようと思っています。
 最後に、判断力批判には美学についての議論があり、私はそこを読まなくてはいけないと思っています。
 まとめ
検討課題:意思の自由、心の不死、神の存在、
哲学的な問い:意思が自由であり、神と来世が存在するならば、我々は何をなすべきか 
結論(私のこういうことなのではという仮説として):自由については理性にとって問題で神の存在と来世の存在は幸福になるための道徳が成り立たない。あとは実践理性批判と判断力批判に持ち越し。以上。
波及効果:このくらいのことを読み取っただけで、アリストテレスの形而上学の組み立てがなるほど、カントはこれをいじりたいのね、なんとなればトマス・アクィナスとの絡みも攻められそう。サルトルの存在と無も同じようなこと考えていたのね。フッサールの諸学の危機では、カントが提起したのに形而上学に含まれる学問や自然科学はいまだに理想的な状態になってないじゃないか、というイライラ感を示していた、という感じがわかってきました。みのり多い本です。傑作と言われるだけあります。

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