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ビーズアクセサリー講師になった経緯と人生の転機

長ーい話なのでかいつまんでまとめると

自己肯定感が低かった私が、失恋して自分にはなにもない、ないも持っていないことに気が付き、死にたいけど死ねないなら生きるしかない!と気が付かされ、どうにか幸せに生きるために、自分づくりを始めました。

その中の取り組みの中の一つに趣味で始めたビーズアクセサリー作りがあって、ほかの趣味は続かなかったけれどこれだけはなぜか続けることができ、結婚を機に大阪に越してきて、良い師と出会い、アクセサリー講師を始めることになったよ、そんなお話です。

ものすごーくかいつまんでいったら笑



今からあれは何年前だろう。

覚えているのは、いつも大学への通学で使っている天竜川という一級河川の川を毎日死にたいと思って眺めていた、そんな情景と継続的に締め付けられるどうしようもない胸の苦しさだけでした。

あまりにも昔なので、細事はすっかり忘れてしまっているのに、その痛みだけはとても鮮明に覚えていることがとても不思議です。

どこにでも転がっているような話です。

当時大学生だった私は遠距離恋愛をしていました。今まで薄っすらとした片思いは何度かありましたが、これが初めてのお付き合いする相手でした。

初めて自分のすべてを受け入れられるような感覚の素晴らしさ、痺れるような甘さに私はとても夢中になっていました。

けど、もちろんそんな甘い時間はいつまでも続くわけではありません。理由は今となっては忘れてしまいましたが、その方からの別れを告げられたんですね。


ドン底


一言でいったらほんと、ドン底です。しかも生まれて初めての大きな墜落。

今まで飛べていたと思った空は遠いものになり、自分にあると思っていた翼は彼が与えてくれていた借り物で、空を飛べなくなってしまいました。

そう、自分には何もなかった。

自己肯定感ということすら意識せず生きてきて、突然与えられた、必要とされる、承認される喜びを、また突然奪われることで、自分というものをすっかり忘れてしまいました。

ありがたいことに、多少思うことはあれ(愛情はもらっていましたが何分条件付きストロークの形をとって与えられることが多かったので多分自己肯定感が低く育ったんでしょうね)、何不自由なく両親に育てられ、友達もちょっとはいる、どこにでもいるごく普通の私は、親の期待や、周りの友達が進むからという理由で進路を決めたり、それがいけないとは言わないけれど、『自分自身の人生を主体的に、自覚的に生きる』ということをしてこなかったので、何も成し遂げたものや持っているものがなかったんです。

私の足元はグラグラでした。

本当は元からグラグラだったのに。

そうして別れてどうなったかというと、毎日死にたい、死にたいの気持ちが絶え間なく襲ってきて、ただ、自殺や自傷をする勇気も出ず、鬱状態だったんですね。

ある時啓示のように、切っ掛けのように、車を運転していて、ゴスペルシンガーのつのだ☆ひろさんの第九ベースの般若心経を聴いていた時、

「どうせ死ねずに生きるしかないのなら、幸せに生きよう!幸せに生きるしかない!」と思ったんですね。

そこから芋づる式に本当にいろいろなことを自覚的に、主体的に考えるようになりました。

幸せってなんだろう? 愛するってなんだろう? なにを幸せと感じるんだろう?なんのために生きるんだろう等々。

そうして考えるうち、自分自身の存在理由を他者に依存するのは危ない!自分が自分であるだけで幸せになれるように、自分自身を楽しくしよう、今何もないなら、今から自分の中に残るものを作ろう!と思うようになりました。

受験も第一志望を失敗して、第二志望の学校をこれじゃないと思いながら、高校時代まで比較的好きで比較的自分の意思でやっていた吹奏楽もやめてしまい、再受験を中途半端に志すも、それも志半ば、やめるつもりの大学だったから、友達を作るのも遅れていた、何もかも中途半端な自分は、新しく始めるしかなかったんですね。

自分自身に残るものを今度こそ作ろう、自分自身を楽しく生きよう、そのために沢山の新しいことにチャレンジしました。

登山、カメラ、一人旅行、アクセサリー作り、今まで読まなかった種類の本の読書、等々。

そんなこんなで、いくつかのチャレンジの中にアクセサリー作りが入っていたんですね。


そこから時間を飛ばして、次は結婚して大阪に移ってきたときの話になります。

故郷の静岡を離れて仕事もやめて結婚で大阪にやってきた私は、自分の仕事のことを考えねばなりませんでした。

当時子供が欲しかったので、会社に入ったばかりなのに妊娠で長期休暇をもらったり、すぐに辞めるのは会社にも自分にもよくないと思い、手に職をもって、自分で仕事をコントロールできるようになりたいと考えました。(あまり普通そういうことは考えないかもしれませんが、母親がピアノの調律師だったので手に職をもって稼ぐということが身近だったのでそういう考えに至ったんだと思います。)

そんな中で、浜松にいた頃取り途中だった楽習フォーラムのビーズアートスキルの資格をついに取って、もっと深く勉強したいと思い、出会ったのが今でもお世話になっているアヴァンセの梅沢先生でした。


これが不思議なご縁なのですが、梅沢先生は楽習フォーラムで何度も最優秀経営者賞を取って、ついに殿堂入りしている、ビーズを仕事にしている先生の中で実際トップの先生なのですが、そんな先生が私の住んでいる所のすぐ傍に住んでいたんですよね。

何から何まで今まで受講してきた先生方とは違っていました。

ビーズアクセサリー講師やデザイン・制作を、趣味の延長ではなく、一般企業にも通じるようなレベルの『仕事』に引き上げて教えて、それができる人を育てようとしている方でした。

そんなこんなでアヴァンセの講師養成講座を受けたのが今から8年ほど前になります♪

それがこうして現在までお世話になりながら、常に新しい技能をブラッシュアップしつつ、たくさんの素敵な生徒さんとも出会い、皆さんのおかげでお教室を続けてこれたんだからありがたいですね!

母親の言葉で唯一自分の心の中に今も強く響いている言葉があります。

『人は続けたものしか残らない。』

自営業の先輩で、女手で大黒柱の役割を果たしていた母のこの言葉が私の中でとても実感として、重く、大切なものとして今でも存在しています。


私にはなにもない!と気が付いてもがき続けた中で、自分の大切なものになっていった、ビーズアクセサリーにかかわる、作る、教える、という仕事。

まだ大したことは成し遂げてはいないけれど、続けてこれた自信、努力できる自分でいれること、このことが今の私を生かしてくれています。


これからも私が私らしく、楽しく、ビーズアクセサリーにかかわる仕事を続けていきたいと思います。


とても長い文章ですが、読んで下さってありがとうございました。

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