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「様子を見る」ってなんですか?

幼い頃は、夜逃げを繰り返した。
上京するまで、暮らしていたのは田畑の脇にある小屋で、納屋を改造して板を敷き、家主が好意でしつらえてくれた竈で湯を沸かした。
トイレはなく、外にある肥溜め兼共同便所を使った。
風呂は、夏は行水、冬は一番近い隣家(それでも300mくらいは離れていた)にもらい湯に行った。

春になると、あたり一面、レンゲ草やシロツメクサやスミレや菜の花や、それから名前のわからない小さな花が、無造作に咲いた。
花を踏まずには歩けないほどだったから、たぶん裸足になって踏んで歩いた。
脇から、カエルや虫やときにはヘビやトカゲなんかが顔を出した。
「きゃあ!」と叫んでも、応ずる者はいない。
「どうした」とも「危ない」とも声はない。
ただ、風がそよと吹いて、草の先っぽがからかうように首をかしげるだけだ。

誰も教えてくれる者がいなかったから、レンゲ草やシロツメクサを編むことを知ったのは、このうんとあとの時代。
すこし大きくなって家族と祖父母の家に行ったり、旅行めいたことをするようになってから、誰か大人に教わった。
四葉のクローバーが幸運なんて、昔は知るよしもない。
きっと踏んづけて歩いていたに違いない。

だから、上京して間もない都会や、地域の小学校にはなじめなかった。
方言を笑われ、みんなが知っている遊びを知らなかった。
そもそも、保育園にも幼稚園にも行ったことのない私は、人間の子供とどう接していいかわからなかった。

小学校の最初の授業で、私のイントネーションを聞いて担任は爆笑した。
ほかの子供たちは、それをもって「私をからかったり馬鹿にしたりしてもいいんだ」という免罪符を得た。
それから持ち物を盗られたり捨てられたり、道端の犬の糞を食べさせられたり、落ちたら死ぬような高い場所にある平均台ほどの幅の塀の上を歩かされたりした。

朝の登校時間になると、私はお腹が痛くなった。
家族以外の大人は(子供も)、これは「怠け」であり「さぼり」だと言った。
学校に行きたくないから仮病を使っているのだと。
でも私は本当にお腹が痛かったのだ。
便意はないけれど、一応トイレにしゃがむと、もう立ち上がれなくなるほどの痛みだった。
しかし、2時間ほどすれば治る。
でも、ただでさえいじめられているのに、2時間遅れで教室の扉を開けていじめっこたちに注目され、はやし立てられるのがわかっていて、遅刻して登校するの勇気はなかった。
その時間にはもう母は出勤していて不在だったし。

それで、母は、私を病院に連れて行った。
けれど、検査をしても何も異常はない。
医師は言った。
「様子を見ましょう」

「不登校」に関するプロジェクトの文章をまとめる仕事を受けて15年くらいになる。
そこで、同じ言葉で片づけられる保護者は私の母だけではないということがわかった。
お母さんたちは「子供を信じて待ちましょう、もう少し様子を見ましょう、充電期間なのでエネルギーが溜まるまで焦らず待ちましょう」と言われる。

そして、何年も何年もいわゆる「ひきこもり」状態が続く。
いったいいつまで様子を見ればいいのか?
時が経てば自然に改善するとでもいうのか?
むしろ常態化したり、悪化したりするのではないのか?
つまり、様子を見るということは、「もっと悪くなるのを待つ」ということではないのか?

「待つ支援」というものに、私は長い間ずっと疑問を抱いている。
有効な場合もあるかもしれないけれど、それが解決法じゃないよね。

人は、自分がわからないことに対しては「様子を見る」という手法で逃げを打つ。
ネットも家庭医学辞典もない昔、母は、私の腹痛の原因が病気ではないかと疑って、そこらじゅうの病院を回った。
そこで、決まったように言われた「様子を見ましょう」。

それで、私がいじめられていることも明らかにされず、痛みが自律神経からきていることもわからぬまま、結局4年間も不登校になった。
私の不登校と腹痛に「自律神経失調症」という名前がついたのは、さんざん待ったあげく、転校が決まったあとだった。
もっとあとなら「適応障害」と言われたかもしれない。

父も兄も母も言われた。
施設に入るとき、入院や手術が必要ではないのかと疑ったとき。
面談や検査で確定的な診断がつかないとき。

もっと状態が悪くなって、どう見てもこれは収容が必要だとなるまで「様子を見る」のか。
「それは悪くなるのを待てということですか!」
と私は医師や施設にかみついたことがある。

ある精神科医の講義で、「放っておいて解決することは偶然でしかない」という一節を聞いて、思わず膝を打った。
私は「なんとかなる」という楽観論が嫌い。

「なんとかなる」ではなくて「なんとかするのだ」。
あなたが「なんとかなった」と感じていることはすべて、あなたがなんとかしてきたか、あるいはあなたの知らないところでほかの誰かが骨を折ってなんとかしてくれたのだ。

「止まない雨はない」と言うが、病や貧困や戦争は、様子を見ていれば自然になくなるというものではない。
「待つこと」と「気の持ちよう」で改善されるとする考え方が、多くの状況を悪くしていっていると思う。

「政治」も、有権者が何年も何十年も何もせずに様子を見ているうちに、こんなにひどくなってしまった。

読んでいただきありがとうございますm(__)m