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死後の風習(前)

「それじゃあ、ボラを釣ってきてね」
 ついさっき亡くなったばかりだという爺さんの顔をみつめていたから、言葉の意味がよく理解できず「え、ボラ」と聞き返すと、お母さんはゆっくりとした口調で諭すように言った。「大事なことなの」
 ベッドに横たわりもう息をしていない爺さんは静かに眠っているように見えるけれど、小さく開いたままになった口は少し腑抜けているようにも感じた。
「お爺さんを送るのに、ボラが必要なの」
「でも、ボラを獲ってきてどうするの」爺さんはボラの刺身が好物だったからだろうかと考えた。
「三枚におろして、それから」お母さんはため息をついた。「どうするかはその時教えてあげる、このへんの風習だから」そうしてお母さんは立ち上がり「じゃあ準備もあるからよろしくね」と台所の方へ行ってしまった。

 倉庫から釣り竿と仕掛けを取ってきて、海へと自転車を走らせる。ボラを釣るなら人数はいた方がいいと思いついて、途中にあるプリワーロフの家に寄った。
「おーい」二階の窓に石を投げて合図をすると、すぐにプリワーロフが気づいて「何」と顔を出した。
「お母さんに言われてボラを獲ってこないといけないんだ」
「へー、めずらしいね」
「手伝ってよ」
「わかった」
 窓が閉まって、どたどたと階段を駆け降りてくる音がして、プリワーロフが竿をかかえて飛びだしてきた。
「どこ行くの」プリワーロフのお母さんの声が家の中から聞こえてくる。「海」とだけ叫んで、プリワーロフはドアを閉めた。

 家の裏手から自転車を引っ張ってきたプリワーロフを急かして、二人で海へと向かう。
「お母さんってボラ嫌いじゃなかったっけ、珍しいこともあるんだね」
 プリワーロフの言うとおり、山の方から嫁いできたお母さんはボラの見た目が気持ち悪いといって見るのも嫌なぐらいだったはずなのに、どういう風の吹き回しなのか不思議でならなかった。
「なんか爺さんのためにってさ」
「あ、そうか」立ち漕ぎしながらプリワーロフが言った。「ボラ団子を作るんだ」
「なにそれ」
「この前うちのばあさんが亡くなったでしょ、その時に枕元にお供えするっていって作ってたよ」
「そうか、じゃあその時にもボラを釣りにいってきたんだ」
「ううんカンジナートさんに頼んでボラを分けてもらったよ」
 カンジナートさんはボラの研究だかで街の方からやってきた人で、岬をぐるっと回り込んだ向こう側にひとりで住んでいる。お母さんはカンジナートさんを頭のおかしい人だと決めつけていたから、近くにはいかないように言い付けられていた。
「カンジナートさんに頼めばかんたんなんだけどね」
 ブレーキを軋ませて、自転車を堤防の手前に停めながらプリワーロフが言った。
「そうだけど、お母さんになんて言われるかわからないからな」

 堤防を駆け上がると、冬の海は暗い藍色をしていた。今日は波がいつもよりも高くて、冷たい風が吹きつけると飛沫も一緒に降りかかってきた。
「どうだろう」「まあやるしかないよ」
 お互いにボラが釣れそうな雰囲気ではないことに気づいてはいたけれど、とりあえずは試してみることにして竿を振りはじめる。
 ただ、しばらくはがんばってみたもののボラがいる気配はまったく感じられなくて、次第に風が強まり荒れてきた海に対してただむやみに仕掛けを投げているだけだった。
 プリワーロフが首をすくめ、歯をかたかたと鳴らしながら「ねえ、カンジナートさんのところにお願いしにいこうよ」と音を上げた。こちらも体の芯まで冷えていて、もう足の指先の感覚がなかった。「そうしようか」
 急いで堤防から駆け降りて、草むらに倒してある自転車を起こそうとしたらハンドルが氷のように冷たくなっていて驚いた。あわててセーターを手袋代わりにして、自転車を漕ぎ出す。
 海側から強く吹く横風に煽られながら苦労して岬の向こうへ回り込むと、カンジナートさんの住む小さな小屋と、岬によって風が遮られるおかげで幾分穏やかな海が見えてきた。

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