つながらないことの価値
ちょうど1年前のいまごろ、仕事の合間を縫って家族3人で奄美大島へ飛んできた。生後半年の息子にとっては初めての遠出だった。
飛行機に乗っても暴れないのか、見知らぬ土地でもちゃんと寝付けるのか、そんな彼を連れてでもぼくら夫婦は旅を楽しめるのかなどなど、いろんな意味で実験であり冒険だったのだけれど、そうした心配はすべて杞憂に終わった。
お母さんに抱えられたままカヌーでくぐったマングローブの樹林を彼が覚えているということはなくても、水上でギャン泣きした愛おしい姿はしっかりとカメラに収めた。
Airbnbで借りたプライベートビーチ付きの古民家に泊まり、朝夕は自炊してのんびり過ごした。
個人的にはビーチへと続く裏庭の巨大なガジュマルがお気に入り。裸足で砂浜を歩いて、まとわりついた砂を蛇口の水で洗い落とす感覚になつかしさを感じた。海の水はとにかく澄んでいて、ぼんやりと波紋を眺めているだけで穏やかな気持ちになれた。
Airbnbは国内外でけっこうな頻度で使っていて、なんとなくで選んでいるわりに、毎回すごく満足度の高い体験をさせてもらっている。
この時は家族水入らずの時間という選択をしたけれど、ホストとの交流という意味でも過去にはいろいろあった。バルセロナの一等地に住むアルゼンチン人ホストのAndresと夜の街へ繰り出し、地球の裏側でリベルタドーレスを戦うボカ・ジュニアーズを夜通し応援したの、最高だったなー。
いわゆるシェアリングエコノミーの恩恵には、他にもかなりあずかっている方だと思う。Twitterでの発信がありがたい出会いにつながって、そこからいただいたどデカい仕事は、約2年が経ったいまに至るまで、断続的に続いている。
ジェフ・ジャービスの『パブリック』をあらためて持ち出すまでもなく、自らを公共の場へとさらけ出すことで得られるメリットや、共有の時代を支える「情は人のためならず」的な破壊力はもう、十分に身をもって体感し、腹落ちしているのだ。
が、しかし。
人と「つながることの価値」は実感しつつも、ビジネスネットワークだオープンイノベーションだと世の中の多くの人がとにかくつながろうとすればするほど、ぼくは「つながらないことの価値」に注目しないではいられない。
いや、最終的にはつながらなければ価値は生まれないんだけれども、接続しっぱなしというのはマズいという気がしている。どうしたって均質化するし、そうするとその人ならではのものというものはなくなって、戦うことも、楽しませることも、世の中に貢献することもできなくなる。その人がその人としてあることの意味がなくなってしまう。
これはぼくの持論なのだけれど、思春期に友達の輪に加われなかったような子供は、それはそれは生きづらさを感じているはずだけれど、なんとか乗り越えればだいたい面白い感じの大人に仕上がる。一人っ子やオタクや自閉症の子もそんな感じだろう。
逆に兄弟や友人に恵まれて育った子は、常識的でコミュニケーション能力に優れた大人になるから、さぞ生きやすいだろうけれどもスペシャルにはなりにくい。
ガラパゴス上等。人はもっと孤独な時間を過ごさなきゃいけないんだと思う。
いまの日本企業は江戸時代の鎖国状態のようなものだから、イノベーションのためには出島を作らないといけないと言う人がいた。それは本当に大事なことなんだろうと思うのだけれど、江戸時代の出島に価値があったというのは、その時、日本が鎖国していたからこそじゃないかな。
10代で初めてタイを訪れた時、ぼくはなんてクレイジーな国なんだとめちゃくちゃ興奮させられた。タイへはここ数年間でも何回か行っているけれど、あの時感じたようなアホみたいな感動はもうない。それはぼくがすでにタイを経験しているからとか、ぼくが歳をとったからとかいうだけではないだろう。
最近ではバンコクに着いたら、すぐに長距離バスに乗り換える。目的地は「いったい何があるというんですか」でおなじみのラオス。メコンの中洲にある小さな島へ渡って、何週間も滞在するんだ。
メコンのゆったりとした流れを眺めながら、日本から持っていった本をひたすら読む。日常との接続を絶ってインプットに耽るこの時間が、ぼくにとっては何物にも替えがたい。
美味い酒は何年も寝かせられて、初めて誰かの口に入る。接続と非接続、鎖国と開国を繰り返して、ぼくはこれからも生きていく。
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