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読書感想文「君の名は」

今日,私は,午後からいろいろなことをしたかったのですが,小5の娘から突然のオファー。

「読書感想文書くし!」

結婚記念日に向けて,妻との買い物。
ピアノ練習。
SPOONのリレーライブ視聴。
読書。
筋トレ。

全て,後回し~(ノД`)・゜・。

SPOONのリレーライブ約束してた人,すまん。
ホントは行きたかったのだが,リアルを優先しました。

以下,娘が書いた感想文です。

ストーリについての感想ではなくて,文章表現にのめり込んでいった自分に気付いたという感想文になっています。

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「引きつける文章表現」 
           あつめる 娘
 私は本,特に細かな字がたくさん書かれている本が苦手だ。だから「映画で見たお話の本を読もう」と軽い気持ちでこの本を手に取り,読み始めた。ストーリーを知っていることもあり,読み始めたばかりの私は,頭の中にまるで映画館ができたかのように,映像が流れ出し,ページを追っていくのが楽しくなった。体が入れ替わって,驚く二人の反応が書かれたページを読んでいるときは,ハトにエサをやっているかのように何も考えず,ただ書かれていることを書かれたまま受け取るだけだった。それが,何となく楽しく感じ,まるで答え合わせをしているかのような気分で,「そうそう,そんなことがあったよね」と作業を進めた。宿題で言うと100点を約束された問題のマル付けをしている気分だった。
 もちろん,読み進めたからと言って,私の「本を読みたいという気持ち」が加速することはなかった。淡々と答え合わせをするように読んでいくだけだった。
 
 半分をすぎたころ,すいすい読めるこの状況に,「読書って簡単だ」と思い始めた。それもそのはずで,話の内容を知っている私にとって,本の内容を追いかけることは容易なことだったからだ。私の頭の中では「次は,3人で隕石が落ちた町に行き,記憶が消えたけれど,最後で会うよね」と先読みしていた。そこには,ただただ,苦手だった小さな活字を目で追うだけの私が寝そべっていた。これから,読書は映画やアニメを見た後で,その本を手に取って読めばいいという,答えも頭の中に出来上がっていた。

本を読み始めて2日たったとき,自分の本の読み方が変わっていることに気付いた。今まで,私の頭の中の映画館には,三葉と瀧の二人が登場していて,その様子を観客として私は見ていたのだが,物語の最後,併走する電車のシーンに瀧の姿はなかった。私の頭の中の映画館には三葉の姿しかなかった。私は瀧になっていた。活字の中の瀧は私だった。いつの間にか,瀧になりきり,活字の世界にのめり込んでいた。物語の世界はいつの間にか,私にとっての現実となり,電車から見つけた三葉を必死でさがしていた。「一緒にいたかった」「一緒にいたい」という文は,もう私の本当の気持ちになっていた。電車をかけだして走る駅の人ごみ,駆け上がっていく坂道,花のにおいがする風が私の周りに広がっているのを感じた。
 二人の距離が近づくにつれ,「俺は」「私は」の文が交互に出てきた。私は瀧になり,そして三葉になっていた。声をかけるかどうか迷っているときの気持ちは,胸が締め付けられる感じがした。安心するような気持ちと疑いの気持ちで読んでいて心臓を持ち上げられるような感覚だった。
最後の1ページをめくったときに,「―君の,名前は,」の声が聞こえた時,私の頭の中の映画館には2人の姿が光っていた。
 私はもう一度,クライマックスのシーンを読み返した。二人が出会う時の場面は,太い字体で書かれていた。もっとよく読むと,いろいろな文章の表現の仕方を見つけた。短い文を連続させていること。文の言葉が入れかわって表現されていること。主語を使い分けて場面を切り替えていることに気付いた。そして,たった1文しか書かれていない最後のページのめくらせ方。
私が知っているはずのお話に,のめり込んでしまったのは,新海さんの文の書き方があったからなのだと思った。同じお話でも,映画と文字では感じ方が違ってくることが分かった。映画は見えるものを追いかけているだけだけど,文字の世界では,振り返ったり,立ち止まって考えたりしながら読むことができた。私の心の中にわき上がってきた感情は,映画とは比べ物にならないぐらい,大きな波だった。三葉と瀧が出会った以上に。

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この感想文は,

目次,8章だけしか読んでいません。
後は,映画です。

感想文にあらすじはいらない。

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