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売上360億円の上場企業は、父が売った「1台の車」から始まった

私はいま、父が創業した会社の社長をやっています。

継ぐことになった「オークネット」という会社は、創業37年、売上360億円、グループ社員数850人の東証プライム上場企業。

社長就任を告げられたのは、私にとっては突然でした。

3年前、私が44歳のとき。「大事な話がある」と当時の社長に呼ばれました。

前の日に飲み過ぎていたので「ちょっと頭痛いな……」と思いながら「はい、なんでしょうか?」と聞くと、こう言われたのです。

「来年から会社を任せようと思う。外部の社長をとることも考えたけど、あなたにすることに決めたよ」

ああ、もう逃げられないんだ……

ああ、もう逃げられないんだ。これでもう後戻りなしだ。

いつか代替わりで社長になるだろうとは思っていましたが、いざ「来年から」と言われると急に現実味を帯びてきたのです。

その日は「これからどうすっかなあ」と思いながら、酔い覚ましもかねてレッドブルを3本ぐらい飲んで過ごしました。それでも落ち着かず、夕方定時になると真っ先に家に帰り、お風呂に入りました。

湯船につかりながらぼんやりと考えていたのは、会社を創業した父のこと。

父はたった一人でビジネスを始め、時代の波に乗って会社を成長させた、いわば「カリスマ経営者」です。

私は父にアドバイスを受けたいなと思いました。

「経営者とはどうあるべきか?」
「これからの激変の時代をどう生き延びていけばいいか?」

聞けばきっと、なにかヒントをくれるに違いありません。

ただ、父に直接頼ることはできない。

なぜなら父はもう30年以上前に亡くなってしまっていたからです。

すべては一台の車から始まった

父が生まれたのは1942年。

戦争中でした。

東京の墨田区に生まれましたが空襲で焼け野原になり、一家は世田谷の三宿に移ります。男ばかり5人兄弟の長男。明日の食べものにも困るような、かなりひもじい思いをしたといいます。

東京理科大を卒業した父は、機械デザインに関する行政の外郭団体に就職します。

ときは1960年代後半。高度成長期を迎えていました。ビートルズが来日し、マイカーブームがやってきます。

ある日、父はバイクで通勤中に車と衝突し、骨折してしまいます。

それを見た母親は「バイク通勤は危ない」と思ったのでしょう。コツコツ貯めていたへそくりで当時18万円する「日野コンテッサ900」という中古車を買い与えました。

この一台の車から父の人生は大きく変わっていくのです。

日野コンテッサ900

何年か経って、父はこの車を売りに出すことにしました。

父はクルマ雑誌に投稿して、買ってくれる人を募集してみました。当時の雑誌や新聞には「売りたし買いたし」といったコピーとともに読者が中古品売買する欄があったのです。

雑誌が発売されると、まもなくして廊下の電話が鳴りました。

「雑誌でコンテッサのことを見たのですが……」
「ええ、では〇〇万円でお売りしますよ」

無事、商談は成立しました。

これは商売になるんじゃないか?

「売れてよかった……」

電話を置いて居間に戻ろうとしたところでまた電話が鳴りました。

「あの、コンテッサのことを雑誌で見たのですが……」
「ああ、あれなんですけどね、もう買い手が決まってしまったんです」
「そうですか……」

その後も、雑誌をみた人から次々に電話が入ります。

「おたくの車を売っていただけませんか?」
「すみません、もう売れてしまいまして……」

そこで父は思うのです。

「待てよ、こんなに欲しい人がいるなら、商売になるんじゃないか?」

手元に車がなければ、どこかから車を探してくればいい。父はまわりに声をかけたり、中古車屋さんを回ったりして車を斡旋してもらいました。

するとこれが大当たり。

毎月20台も30台も売れるようになったのです。利益も馬鹿になりません。大卒の初任給が3万円だった時代に、毎月30万円ものお金が入るようになったのです。

中古車ビジネスに可能性を見出すと、父は会社員の仕事そっちのけで、仕事中もずっと売買の台帳と睨めっこするようになりました。

中古車ビジネスに専念しよう

中古車の売買は、大きな利益をもたらす「副業」になりました。

4人の弟たちも副業を手伝いました。まだ中学生だった末っ子まで車を磨いたりお客さんの相手をしていました。

「どんどん車を買い取ろう!」

なにせ買い取れば買い取るほど、車は売れていくのです。

父は1台でも多くの車を仕入れるために「買い取ります」と書いた名刺サイズの紙を何十枚も用意しました。

そして、そのへんに停まっている車のワイパーに挟んで回りました。弟たちも、通学途中に車を見つけてはその小さなビラを挟んでいきました。

仕入れた車は、近所の三宿神社の前にずらっと並べていました。

ただ夜になると駐車違反をとられてしまいます。そこで毎晩11時くらいになると、友人に頼んで車を移動してもらっていました。

まわりにいる人たちを巻き込んでしまうのが父のすごいところ。副業の中古車ビジネスは、家族や友人を巻き込みながら、順調に拡大していきました。

そうやって警察の目をかいくぐって商売を続けていたのですが、ある日父が風邪で寝込んでしまい、車の移動ができないことがありました。そこでついに警察の取り締まりにあいます。

この一件をきっかけに父は決断するのです。

中途半端にやっていてはうまくいかない。このビジネスに専念しよう。

父は会社をやめ、起業を決断しました。

常識に囚われないアイデア

父は調布の郊外に土地を借りて「車の展示場」をオープンしました。そしてこれまでの常識に囚われない打ち手を次々に実行していくのです。

ひとつは「ひな壇」展示

当時の車の展示場は平らな土地に車を並べ、塀で囲っていました。でもこれだと外から見えませんし、一度に多くの車を見ることもできません。お客さんは会場に入ってウロウロと歩きながら車を見ていくしかない。

そこで父は塀を取っ払い「ひな壇」のような段差をつくりました。

すると、一度に多くの車が見渡せます。それだけでなく、展示場の外からもたくさんの車が見えるので、「あの車、見てみようか」とお客さんが集まるきっかけにもなりました。

なんてことないシンプルな工夫ですが、当時こんなことは誰もやっていませんでした。

「車の現物写真入り広告」をやったのも父が初めてでした。

当時、中古車の広告は雑誌に出すことが一般的でした。

広告にはお店の外観や車の情報は載っていましたが、商品である中古車の写真は載っていませんでした。載っていたとしても売り物の「実物」ではなく、別のところから持ってきた「新品」の写真でした。

そんなとき、ある雑誌が「実物」の写真をカタログのようにたくさん載せるアイデアを思いつきます。

ただ、他の中古車屋さんはどこもその話に乗りません。

父の会社だけが「たしかに現物を見せたほうがお店に来てもらえそうだな、やってみようか」ということで広告を出してみたのです。

するとこれがお客さんの心をつかみます。

雑誌が発売になったその日から、問い合わせの電話が鳴りやみません。1日に70本もの電話が来たこともありました。やはり現物の中古車を見ることができてお客さんは安心したのでしょう。

こうして「実車の写真入り広告」は業界のスタンダードになっていきました。父の打ち手はどれもシンプルながらインパクトがあり、しかもそれまで誰もやらなかったことばかりでした。

俺だったらそんな車は買わない

新しいアイデアをどんどん取り入れる父のことを「業界常識の壊し屋」と呼ぶ人もいました。

でも父は、別に「壊そう」と思っていたわけではありません。

ただ「自分がお客さんだったらどう思うか?」を考えていただけなのです。

そんな発想から生まれた発明が「18項目リフレッシュシステム」。これはエンジンやバッテリーなど18の部品を「新品」の水準に整備してから売るというものでした。

これにまわりの人たちは「そんなにコストをかけても利益が出るはずがない」 と反対しました。

18の部品といえば、当時の値段で3万円近くになります。しかもバッテリーは例外なく新品に交換します。ようするに、まだ使えるものまで外して新しいものにするわけです。

「なにもそんなムダをしなくてもいいじゃないか」と社員が言うのは無理もありません。

しかし父は現場の反対を押し切ります。

ただ冷静に考えてみれば、ひとつひとつの部品はそう高いものではありません。バッテリーだって大量仕入れをするので安く手に入りました。

当時の中古車業界は「中古なんだから壊れてあたりまえ」というのが常識でした。父の店にも中古車を買ったお客さんからしょっちゅうクレームが来て、現場は困っていました。

父はそんな様子をみて「自分がお客さんだったらどう思うか?」を考えたのです。

「たしかに壊れそうな車なんて欲しくねえよなあ」

父がよりどころにしていたのは「このサービスだったら絶対に使う!」と思えるかどうか。ただそれだけでした。

広告には「おもいっきり新品部品と交換してしまうシステム」「今までの中古車のイメージをすててください」と書きました。

周囲の反対をよそに、このアイデアは大当たり。

これまで「中古車はあやしい」「壊れるからイヤだ」と手を出さなかったお客さんを取り込むことに成功しました。リフレッシュによってかかるコストよりも「あそこで車を買えば間違いない」という評判を選んだのです。

このアイデアをきっかけに、会社は当時としては国内最大規模の販売会社に成長していきます。

わざわざオークション会場に行くのは効率が悪い

中古車ビジネスが大きくなるにつれ、「車の仕入れ」が大きな負担になっていきました。

当時は郊外や地方の大きな会場にたくさんの販売店が集まって、現物の車を見ながらオークション形式で競り落とすやり方でした。

オークションは1日がかり。いい車に出会えればいいですが、そうでなければ1日はムダになってしまいます。

父は思います。

「こんな非効率なことはないよなあ。情報だけでやりとりできないものか……」

そこで父は、当時の最新テクノロジーである「パソコン通信」を使うことを思いつきます。パソコン通信で情報をやりとりすれば、わざわざオークション会場に行かなくてよくなるのではないか。

まだインターネットすら普及していなかった時代に、今のネットオークションのような仕組みを思いついたのです。

このアイデアも猛反対されました。「中古車を見ずに買う」なんて、当時の常識ではありえないことだったからです。

しかも中古車は1台として同じものはありません。走行距離、傷のつき方、部品の状態など、コンディションがすべて違います。そんな品質の保証もないものを見ずにやりとりする。それは考えられないことでした。

正しい検査をすればいい

父はここでも引き下がりません。

「品質の保証がないなら、正しい検査をすればいいじゃないか」

当時は、商品のコンディションは「買い手側」が自らの責任でチェックするものでした。少しでも高く売るために売り手がコンディションを偽っていることなど日常茶飯事でした。

素人はおろか、長年この仕事をやっているプロでも自分の目でみなければ怖くて買えなかったわけです。

そこで父は「正しい検査」を徹底します。

売り手側が責任を持って、車のコンディションをきちんと検査することを徹底したのです。

父は全国に子会社をつくって、正しい検査をするための「検査員」を採用し始めました。

当時から「検査員」という仕事はありました。ただ、まったくクリーンではなかったのです。売り手にお金を握らされて「いい評価をつけてくれよ」と言われるようなこともありました。

そこで何をやったか。

検査員の給与をすごく高くしたのです。そして、検査員という仕事に誇りを持てるようにしました。そうすれば、不正をすることもなくなるだろう。

こうして嘘のない、安心して取引できる仕組みを整えていったのです。

脅迫電話が来ても「正しい姿勢」をつらぬいた

革新的なサービスは、業界に衝撃を与えました。

当時の業界の有力者は、父の型破りなやり方に猛反発します。今だから言えますが、脅迫のような電話が来たこともあります。

でも父は「お客さんにとっていいものは絶対に広がるんだ」という強い信念を持っていました。これをやったらよろこぶ人がちゃんといる。そういうサービスであれば、必ず世間の支持を得て、利益ももたらされるはずだ。

そう信じていたから、どんな逆風が来ても突き進むことができたのです。

パソコン通信のアイデアは、最終的に電話回線とレーザーディスクを使った「テレビオークション」というサービスになりました。取引に使うのはパソコンの端末ですが、あえて「テレビ」という名前をつけてわかりやすくしました。

会員の企業は、あっというまに2000社を越えました。会社は急成長。「お客さんにとっていいものは絶対に広がる」という父の信念が勝ったのです。

あらゆる業界へ進出、上場、海外進出……

常識に囚われないアイデアと圧倒的な行動力。2つのエンジンで次々に壁を打ち破っていく父。

事業は中古車販売だけにとどまりませんでした。

車用品の通信販売、コンピュータ販売、クレジット、ゴルフ、不動産など、さまざまな業界に進出していきました。1991年には株式の公開を果たし、翌年にはアメリカに法人を立ち上げました。

会社が世界に羽ばたいていく。

「いよいよこれから」というとき運命というのは残酷です。

父に「胃がん」が発覚したのです。

胃の4分の3を切除。医者はそのとき「5年以内に再発したら、次はもう危ないかもしれない」と告げました。

そして、4年後。

肝臓にがんが転移していることがわかります。そこからはあっという間でした。同じ年の7月に「余命半年」と言われ、亡くなったのは12月でした。

51年という短すぎる人生でした。

強烈なカリスマを失った

会社は突然、強烈なカリスマを失いました。

2代目の社長となったのは父のいちばん下の弟でした。私から見て叔父にあたる人です。

創業者がいなくなると減速してしまう会社は多くあります。でも、うちはそうはなりませんでした。

父が亡くなってからの25年間、叔父は会社をさらに発展させたのです。中古車オークションの事業だけだったのが、ブランド品やデジタル機器、医療関係などさまざまな新規事業を育て上げ、東証一部への上場も達成します。

そして今、父の長男である私が3代目を継がせてもらっているわけですが、おかげさまで会社はうまく回っています。

叔父は私が混乱しないように、すごくていねいに社長の仕事を引き渡してくれました。叔父は自分がいきなり社長をやらざるを得なかった経験から、同じ苦しみを与えないようにと思ってくれたのでしょう。

なぜ、カリスマ亡き後も会社はうまくいっているのか?

それは優秀な叔父と、優秀な経営幹部陣のおかげです。ビジネスパーソンとして有能であるだけでなく、人柄もいいのです。私はこんなにいい人ばかりの会社はそうそうないと思っています。

では、なぜこんなに「いい人ばかりの会社」ができあがったのか?

その秘密は、父が遺した「1冊の本」にあります。

「実は、お願いがありまして……」

父はがんの再発後、虎の門病院に入院します。

「もう自分は長くない」と悟っていた父は、後継者人事、経営計画、税金対策など、会社を次世代に託すための準備をたんたんと進めました。

入院当初は病室からひっきりなしに電話。重要な面会客があるときは、予め痛み止めの注射をうって準備をしていました。

あるとき父は、仕事で知り合った出版社の社長に電話をかけます。

「ちょっと急ぎ会いたいのですが」

そして、やってきた社長にこう言いました。

「実はがんが広く転移してましてね。もう手遅れなんです。外科手術は無理だし、体じゅうに何本もパイプを突っ込んだまま生かされ続けてもしょうがないですから、このまま逝きます」

そして「実はひとつお願いがありまして……」と言いながら、ベッドの下から一冊のノートを取り出しました。

「これを冊子にまとめて欲しいんです」

ノートには遺された人に伝えたい言葉がびっしりと書かれていました。感謝の思い、仕事観、経営とはなにか、生きるとはなにか……。

出版社の社長は急いで編集を進め、「ではこういう構成でいきましょう」と決まったところで父は息を引き取ります。

父が本の現物を見ることはありませんでした。

短くとも長くとも我が人生に悔いなし

父が亡くなってから2週間後、社葬がおこなわれました。

年末の時期でしたが、会社の人はもちろん、付き合いのあった業界の関係者や経営者、財界の著名人らが大勢訪れました。

葬儀の会場の隅っこには、父が託したノートが本となって積まれていました。40ページほどのシンプルで薄い本ですが、そこには父の思いや考えが詰め込まれていました。

製本は葬儀にギリギリ間に合い、参列した人たちが帰るときに配ることができたのです。

冒頭はこんな言葉から始まります。


医者から末期ガンの告知を受けたとき、自分でも意外なほど、おだやかな気持ちであった。

当年五十歳とはいえ、死の宣告を受け入れる気持ちになれたのは、ひとつに仕事も遊びも、すでに人の一生分以上やって来たという満足感があったからだ。「短くとも長くとも我が人生に悔いなし」だ。

あとは、この後おそってくるであろう肉体的な苦痛に打ち勝てる勇気を与えてくれるよう、神様に祈るばかりだ。


本の後半では、遺された人たちが迷わないよう「経営の方針」や「心得」が簡潔にまとめられていました。

本物主義
「本物のサービスとは何か」を常に追求し、業界の発展ならびに社会生活の向上に貢献する。

安くて良い物(お値打ち品)を作れば、必ず世間の支持を得る。利益ももたらされる。逆に、商品の魅力が薄い、まやかしの商品であれば、どんなに宣伝しても、強力な営業力を動員しても、一時的なものに終り、結局は売れなくなる。

私の商売五原則
1 浮利を追わない。元に手(時間と金)をかける。
2 ブームに手を出さない(ただし、時流にはのる)。
3 独創性を発揮し、将来一番をとれないものには手を出さない。
4 努力した結果が毎年蓄積していく商売しかやらない (スポット利益をもとめない)。
5 小さく生んで、大きく育てる。

会社を継いだ叔父も、困ったときはいつもこの冊子を開いていました。「答えはだいたいこの中にあった」と言います。

創業者亡き後も、なぜ会社を発展させることができたのか?

それは創業者がそのマインドをきちんと言葉にして遺していたから。そして後を継いだ者が創業者の言葉をていねいに読み解き、その教えに忠実に経営したからなのです。

父の思いは生き続ける

父が死んだとき、私は18歳の高校生でした。

社葬には学生服を着て参列していましたが、私は金髪、弟は長髪でした。陰では「あんな息子たちで大丈夫か?」と言われていたそうです。

実は父の死は突然過ぎて、自分でも状況がよくわかっていませんでした。

最初にがんが発見されたときは「お父さんは胃潰瘍で手術をするんだよ」と聞かされていました。

再発したときは、がんであることは聞かされていました。しかしうちの母親が「万が一のこともあるかもしれない」とぼかした言い方をしていたこともあり、内心「意外と大丈夫なんじゃないの?」と思っていました。

だから私にとって父の死は本当に急なことだったのです。

父は取り乱すこともなく、落ち着いて最期を迎えました。そしてそれは、母のおかげでもあったようです。母は父が血を吐いても「あら、もともと喉が弱いから傷がついちゃったのかしら」とやわらかい声で言って、少しもうろたえなかったといいます。

そんなふうに強い両親だったから、バカな息子は最後までなにも気づかなかった。

私は父のことを「永久に超えられない」と思っています。たとえ会社が10倍の規模になったとしても「超えた」なんて決して言えない。父は大成功してパッといなくなりました。残っているのは1冊の本だけ。ほんとうにロックスターみたいにかっこよくて、ずるい。

父が残した本は、今もオークネットの社員みんなが読んでいます。企業理念や経営計画にも父の言葉が使われていますし、日常会話でもみんな自然に口にしています。

だからいまの私にできるのは、父が残した言葉を大切に読み解き、その教えを経営にいかし、自分の言葉でみんなに伝えていくことだけ。そうすることで父は、この会社に永遠に生き続けることができるのです。

困ったときにこれをひらけば、いつも父の言葉がヒントを与えてくれます。これからもずっとボロボロになるまで、この本に頼り続けると思います。

幸福な人生を送るための鍵

父の遺した本は『正見録』と言います。

正見録にはこんなエピソードが出てきます。

がん再発を告げられてから、父は「これが最後のゴルフになるかもしれない」と思いながら、御殿場のゴルフクラブに出かけました。

夜、ロッジにひとりだけで泊まり、人影のまったく見えなくなった夕暮れどきのコースを歩いてみると、目に入る一本一本の樹々が、いきいきと輝くように見えたそうです。

富士山の裾野までつながる、わき上がるような木立ち。

「この景色ともこれでお別れだな」

大自然の恩恵にも「ありがとう」とお礼を述べたい気持ちがこみあげてきたと言います。そして父はこう綴ります。


死を目前にすると、ほんとうに大切なものが見えてくる。

ひとつは、いままでなにげなく見すごして来た樹々や山々、これら大自然が無性にいとおしくなる。

もうひとつは、ひとの真心の尊さである。覚悟を決めて、じっと大自然と対峙していると、思わず 「ありがとう」という言葉がでてくる。

「この世で大切な言葉をひとつだけあげよ」といわれたら、私は迷わず「感謝の念」という言葉をあげたい。

この「感謝の念」こそが、 幸福な人生を送るためのカギだと思う。







父の死後の話についてはこちらに書かせていただきました。よろしければ御覧ください。


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