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パワーを宿すのか宿されるのか

価値を与えるのか与えられるのか。


山梨宝石博物館は宝石の魅力を伝える博物館である。

河口湖のそばにあるその博物館は広い面積を有していないものの、中に入れば宝石の世界が広がりあっという間に引き込まれる。

立方体の透明なケース内に1つ1つ宝石が鎮座しておりそれぞれの輝きを放っている。


宝石というとラグジュアリーなアイテムと魔除けや願い事が叶う効果を持つパワーストーンの2つのイメージがあった。

ラグジュアリーなアイテムは、ダイヤモンドのようにカットされている形が思い浮かぶしパワーストーンは丸みを帯びていて、ブレスレットやリングといった形が思い浮かぶ。


私たちが暮らす地球の地下深くでは、今も宝石が成長し続けているという。

地下深いマントルや地球の内側、または鉱山と呼ばれる山で育っている。その深さにより硬度が変わる。

採取された石の硬さや輝きの違い等で希少性の高低が決まる。


古くから人間たちは石に価値をつけたりパワーが宿っていると考えたりしていたという。

私は暗く静かな場所に並ぶ宝石たちを目の当たりにして、石そのものがパワーを宿しているのか、パワーというモノを人間が宿して石と接しているのかという疑問が思い浮かんだ。


昔、神保町の古本屋で買った「アイヌ文学の謎」という本の最初にこんな一節がある。

木や草に花が咲くのは、決してその美によって人間を喜ばせるためではなく、多くの種子を結実させて子孫を繁栄させるためであって、美しい花に棘があったり、未熟の木の実に毒があるということも、それにはそれだけの理由があるのであって、今日なおムダ花とかアダ花という言葉を使う人があるとすれば、それを使う人の常識の貧しさや思い上がりであるが、得て人間は自らの貧しい知識によって、他の姿を曲げて見たり勝手な批判をしたがるものである。

アイヌ文学の謎-文頭より

この更科氏の考えを拝借すると、宝石と人間は互いに与え与えられる関係性なのだと答えが出て、スッキリした気持ちで博物館を後にした。


色とりどりのタンブルストーンをお迎えしてウキウキしながら帰路に着いた。


いつか必ず誕生石のダイヤモンドを手に入れる。



その日を迎えるまで、私の中で宝石への気持ちもまた成長し続ける。

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