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『蜚語』第5.6合併号 特集 昭和大下血! こうなったらこっちにも考えがある!(1988.12.25)

【表紙は語る】

 ……君らは天皇制打倒ということをどう考えているのか、天皇制は敗戦という形で倒れはしたが、それは日本人民の自由解放の戦いが倒したのではないから、天皇制によってつちかわれた日本人の意識はそのまま残っているのだ。それは民主主義の知識をどれたけ多く吸収したからといって、ぬぐい去れるものではないのだ。お互いの中に巣食う天皇制の病根に気づき、これを退治する実践をやり、実践の中でボロが出て、あやまちを犯し、あやまちを踏みしめてまた闘う。またあやまちを犯し、あやまちを踏みしめて前へ進む。そうしてこそ天皇制の意識はぬぐい去れるのだ。日本人にいま最も必要なのはこの意識革命なのだ。意識革命のともなわない民主主義はあてにならない。状況しだいでいつでも元へ戻ってしまう。……中井正一(『連隊の探究』山代巴 未来社・226ページ)

『蜚語』第5・6合併号表紙

もの言わぬは腹ふくるるの業

 しょせん、マスコミ……と思ってはいたものの、あまりの、ほんとうにあまりのどうしようもなさに腹を立て、おまけに〝自粛〟とやらが始まってしまったので、私が住んでいる区に対して「自粛をやめるように——また、天皇の死亡が発表された時は、区内の小中学校等で喪に服したりするよう、生徒に強制しないように」との趣旨の『申し入れ書』を提出した。
 一人でも多くの区在住者に名前を連ねていただこうと、思いつくかぎりの人に電話をかけまくった。ほんの数日間で、64人の方が賛同してくださったのだけれども、何らかの理由をつけて断ってこられた方もいる。断ってこられた方がたは、どちらかといえば社会的には、ある程度、名もあり、しかもその社会的名声は、社会派とか市民派とか民主的とかいうことによって得ている部分があるので、いかにそのようなことがあてにならないか、また、その断りの理由として語られた内容に、今日のこの国の〝文化〟といわれるものに衰弱をもたらした一つの原因といえるような傾向があると思い、ここで紹介することにした。

 理由/その1 ジャーナリストとしての自分の立場からは、そのようなところに名前を連ねることは出来ない。ジャーナリズムは不偏不党だから、他のジャーナリストにも呼び掛けるつもりなら、立場は同じですから、やめたほうがいい。おそらく難しいでしょう。もしそれに応えるジャーナリストがいたら、その人はジャーナリストではないですね。
(ピースボートが大好きな「朝日新聞」編集委員)

 理由/その2 自粛の問題について申し入れるのはいいが、死んでもいないものを、死んだときのことを予想して何か言うのには賛成しかねる。誰だって、自分の親が死にそうなとき、親戚の人が死んだときを予想して何か始めたりしたら、誰だっていい気持ちはしないでしょう。
(学生や市民・労働運動の味方とされている弁護士)

 理由/その3 フリーで仕事をしているから、そういうことで仕事がせばまるのは困る。最初からあるカラーで見られたくないし、まだまだいろんな仕事をしたいから。
(ベトナム戦争を取材した著名な女性写真家)

 理由/その4 明治憲法下では天皇の死について国民が喪に服することは義務とされていたが、現憲法上はそのようなことはないということが(『申し入れ書』の草案に)書かれていないので、自分のような憲法学者がいるのに、こんな内容かと思われても困る。それに、今はまだ第1ラウンドだから、向こうに反憲法的なことをどんどんやらせればいい。勝負はこれからだ。今から文章を直すのも大変だろうから、私が入らなくてもいいでしょう。
(民主派・護憲派の権威といわれている有名な憲法学者)

 理由/その5 その問題では明日もテレビで〇〇らと話をすることになっている。私はマスコミで発言できる間はそちらの方でやりますから、声明とかそういうことはお断りしているんです。
(かつてベトナム反戦運動をしていた作家)
 
 ……とまあ、ざっとこんなものでした。
 これらは皆電話でのやりとりなので、記憶している限りにおいて再現したものです。やはりここで、この方々の日頃の仕事の真価が問われたといっては言い過ぎでしょうか。

【資料】 
               申し入書
 天皇の病状は予断を許さない状態にありますが、現在これを受けて、さまざまなところで、行事を「自粛」「規制」する動きが出ています。現行の日本国憲法においても、いわゆる「象徴」にしかすぎない天皇の病気、ないしは死亡を理由に、国民のあいだでそれまで計画されてきたものを変更・中止することは、国民主権を根本理念とした憲法、および民主主義の感覚そのものと相入れないものであり、憲法に違反し近代世界が獲得してきた人権尊重の根本理念に、もとるものと、私たちは考えます。
 もれ伝え聞くところによれば、こうした憂慮すべき傾向に関しては、目黒区もまた例外ではないようです。私たちは目黒区の行政に対する権利と責任を負う目黒区民として、目黒区に対し、そうした反民主主義的な「自粛」措置を撤回するよう求めます。
 さらに天皇の死亡が発表された場合は、それにともない区内の公立小中学校および各施設において、休校・授業中断・授業短縮・黙禱・講話・服装に関する指示などが、生徒・教職員に対して強制されることが予想されますが、それらを強制することは、あきらかに思想・信条・宗教の自由を侵すことになります。また、当然これは憲法第99条に定められた「公務員の憲法尊重・擁護の義務」にも抵触するものと解釈せざるを得ません。
 「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(憲法第97条)である基本的人権をないがしろにし、民主主義の根幹理念を冒漬するおそれのある、こうした事態の進行に対し、目黒区が地方自治体としての主体性と責任において、民主主義の規範を示し、貰かれることを、私たちは強く希望するものです。
 現在の天皇の病状にともなう、あらゆる「自粛」措置を解除、一刻も早く平常に復し、また天皇の死亡にあたっても、前記のような「強制」をいっさいされることのないよう、申し入れします。
1988年10月4日
目黒区長 塚本俊雄様
目黒区教育委員会 御中
(以下64名氏名略)

1988年10月4日目黒区への申し入れ書

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特集 昭和大下血! こうなったらこっちにも考えがある!

昭和天皇を葬送する、この国の現在に生きて……。

 前略 間も無く裕仁天皇が死亡し、「昭和」が終わります。否応なしにこの日本という国に生まれ、そのなかに生きることを強いられている私たちにとって、いま、この一瞬は、どうしてもただ黙って生き過ごすことのできない時間だという気がしてなりません。「これは制度の側に起こった1事件にすぎないのだから、あえて発言する意味はない」といった、一見さめた割り切り方よりも、「日本国民」としてともすれば概括されてしまう私たち1人1人が、実はどのような考えをもって生き、生活しているのかを、いま、なんとしても明らかにしておく必要があるのではないかと思うのです。
 今日のジャーナリズムの退廃した状況、とりわけ最近のありさまを見ておりますと、この問題について、国家から与えられた「お仕着せ報道」以外の、なんらかの主体的な取り上げ方や追求は、とうてい望めそうにありません。
 「皇居に深まる憂色」「息詰め見守る市民」「ご回復願う郁民」といった見出しや、①コマ目・「天皇陛下これからです」②コマ目・「どうかお元気になられて」③コマ目・(オリンピック各種種目の図)④コマ目・「もっと君が代をお聞きください」……といった連載マンガが載る新聞(いずれも、「朝日新聞」9月25日付)と——「この正真正銘の悪魔の皇帝には地獄が待っているぞ」という見出しのもと、軍国日本と天皇を批判する記事を掲載し(9月21日付)、日本政府からの〝抗議〟に対しても、その〝抗議〟全文を掲載しつつ、大日本帝国軍隊の最高指揮官としての機能を指摘、12,433名の自国軍捕虜が日本軍のために殺されたと反証(同22日付)する英《サン》紙、「悪魔の日没」という見出しを付した同様の記事を掲載し(21日付)、同じく日本政府からの抗議に対し、「1語たりとも撤回も変更もする気はない」と言明した(同22日付)同《デイリー・スター》紙等との隔たりはなんなのでしょう? (以上、英国2紙については《ジャパン・タイムズ》9月24日付による)
 この事件を報じた、さきの日本を代表する〝良識派の〟〝知的〟新聞によれば、これら二つの英国紙は「大衆紙」であり、同じ英国でも「インテリ向けの高級紙は、事実関係を中心に、冷静で、客観的に報道している」のだそうです(朝日新聞9月22日付朝刊)。
 《蜚語》は、もとより商業的なメディアではなく、発行部数も現在、300あまりにすぎません。しかし、今日のようなジャーナリズムの状況にあっては、作られたものではない、ほんとうの人間の声や物事の是非を伝える力は、逆にこうした小さなメディアにしか、もう残ってはいないのではないかと思うのです。そして、こうした役割を果たすことこそ、この《蜚語》創刊の趣旨でもありました。
 裕仁天皇が死亡し、「昭和」の終わるいまこそ、声低くひそやかな故に重く動かし難い意味をもつ、そんな流言蜚語を——。昭和天皇・天皇・天皇制・近代日本・現在の日本……の問題について、御自由に、率直な御感想をお送りいただきたいと考え、本誌・全定期購読者をはじめ、編集部にお親しくおつきあいいただいている皆様に、このお願いの手紙を差し上げました。お差し支えなければ、同封させていただきました葉書で、ご回答いただきたいと思います。お寄せいただきましたご回答は、原則的にお名前・御職業・御年齢とあわせて、10月10日発行予定の《蜚語》第5号に「緊急アンケート」として発表させていただきたく存じます。ご回答くださる御意志はおありでも、雑誌掲載を希望されない場合、また上記3項目(お名前・御職業・御年齢)の全部、もしくはいずれかについて公表を希望されない場合は、その旨を併せてお書き添え下さい。お差し支えない場合は、それらの項目についても、御自身でお書き下さい。回答されない方は、同封の葉書をどうぞ御自由にお使い下さい。
 なお、編集の都合がありますので、その時点での裕仁天皇の生存・死亡にかかわらず、10月3日ごろまでにご回答をお寄せくだされば幸いです。草々
1988年9月25日午後11時30分《蜚語》編集部
 
 アンケート回答(掲載は、すべて到着順. 文章は、原文のまま。お名前などの公表が差し支えないかどうか明記されていないものは、原則的にイニシァルのみとさせていただきました)。

———アンケート回答———

 高校2年男子(明日は文化祭代休という9月26日、昼すぎ)
A「でも天皇が死んだら遊園地は休みだってよ」
B「えー!  ホント?」
A「豊島園も西武園も、みんな休みだっていっているよ」
C「まったく。死んだあとまでも迷惑な奴ちゃなあ」

 高校2年女子(9月25日、文化祭の展示室の一室で)
D「ネェ先生、なにになると思う?」
私「なにが?」
D「『昭和』のあとよ」
私「いやだ、めんどくさい!」
D「先生はなんでもめんどくさいって言うんだから」
私「だって今が『昭和』で、10月のいつかから『なんとか元年』な
んて、1年のうちに2つも年があって、面倒だと思わない?」
E「米年になるともう2年なんでしょ」
F「えー、そうなの?  2か月位でもう2年なんておかしいね」
G「じゃ、今年の2月に生まれた子と12月に生まれた子は生まれ年が違うんだ」
私「なんかバカにしていると思わない?  時間まで勝手にされて」
G「それに私だってあんなに看病してほしいって思っちゃう。差別
だよ、ぜったい」

 右、高校生たちとの雑談のなかに、たまたま出てきた「天皇」です。連日のマスコミ報道の中で、高校生の話題にものぼっていて、「元号」については関心も強いようです。ごく普通の高校生にとっては、突然、ぎょうぎょうしく報道されるようになった「天皇」、「天皇〝元首〟体制」とでもいうべきものに戸惑いや異和感もある様子です。しかし、今後の報道攻勢の中で、、この戸惑いも操作されて、天皇への「敬愛」へと変わっていくのでしょうか。
【私自身の感想】
 子供の頃「何だか可哀想なおじいさん」位に思っていた天皇が、今、こんなに偉そうにしている。天皇制を廃止し、天皇を退位させなかったのは、敗戦後の日本の最大の失敗だったと思う。天皇ヒロヒトが、今、〝元首〟扱いされて権威を復活させていることを、かつて天皇ヒロヒトの命令の下に殺りくされた沢山の沢山の人々が仮に知ったらどう思い、どれほどの恨みを天皇と、現在の日本国民に向けるだろうか。何故、日本人は「臣民」になりたがるのだろう?
 イソップの〝王様をほしがったカエルたちの話〟を思いだす。
 天皇制廃止。英知を尽くしてこの機会に廃止したい。〝臣民〟はいや だ。戦争を何故、皆で敢行してしまったのかの追及を徹底的にしないできたから、今、また、こんな嫌な重苦しい時代を迎えているのではないか。(池田幹子/40歳/高校教員)
                ■
 天皇様についての思いは、その人の育った時代、経験によって異なるから、ひとまとめにハンで押さない方がいいと思う。私は、自分の生きてきた時代が、天皇様を中心に形づくられ、動いてきたように思う。だから今の天皇様には死んでほしくない。その息子さんやお孫さんは、もはや天皇とは言えないから、できれば医学の力で、あと50年ほどは生きていてほしい。日本は人が死んだら、それで全部おしまいとなってしまうおそれがある。もしかりに薬石効果なく天皇様が亡くなられるという事態が生じたら、天皇様のおかげで出世した政治家だのなんだのは殉死されるのが、やまとだましいというものでしょう。いまそんな忠臣が出ないのは亡国の兆です。もし三島由紀夫さんが、あんなに死を急がれなかったら、きっと天皇様と行をともにされたと思います。
(田中克彦/54歳/一橋大学教授)
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 天皇が重体であるということで、各地で予定されていた祭りや行事などが次々と中止されている。「陛下が重体なのに、我々が祭りなどやるとは不謹慎」などの意見がその中止理由の主たるものであるが、それは、天皇という自分達の尊敬すべき一人の人間が大変なときに自分達が祭りをやるということは失礼であるということ。つまり、一方が不幸なときに、他方で祝をするというような、人びとの「共感という連帯」を破ることへの恐れなのか。あるいは、天皇が存在することではじめて自分達の祭りが成り立つというのに、天皇の存在があやういときに祭りは成り立ちえないということ。つまり、天皇があらゆる日本民衆の祭祝の中心的な存在となっているということなのか、その辺のところが無自覚的なままに表現されている様に思う。
 本来祭りは民衆の悦び、悲しみ、苦しみ、という民衆そのものの文化表現であったと思う。それが現在では完全に天皇を中心にしたものになってしまっている。我々の真の悦びも、真の悲しみも、真の苦しみも、皆自分達の手から離れたものとなってしまっていることを、何よりも今回の事件は鮮明に写し出していないだろうか。
(岩崎徹/真宗僧侶)
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 報道されている記帳のために列を作っている多数の人々の姿をみると「一木一草にまで天皇制がしみついている」との竹内好氏の言粟を思い出します。あの人たちにとって「戦後」の日々はどういう意味を持ったのでしょうか? またマスコミの姿勢も強く批判されるべきだと思います。天皇の容体とオリンピック報道でほとんどの紙面を費やす裏で、当然報道されるべき問題を隠しつづけているという意味で。
(若尾直材/24歳/自治体労働者)
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 1962年12月25日に大正天皇が死去した時、私は中学生だった。すべての新聞が天皇への哀惜と賛美でぬりつぶされていたことを思います。1988年現在、天皇の病状を報道する新聞、放送を見ていると、また、戦前回帰としかいいようがない。
(梶谷喜久/77歳/国際問題評論家)
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 天皇在りて民主主義なし——日本列島を藪い尽くしている「快癒祈願」キャンペーンは、はしなくもこの国に真の民主主義が不在であったことをこの上なく醜い形で露呈している。戦前の「大本営発表」さながらの報道といい、神奈川県議会を筆頭に全国に波及するだろう「自粛ムード」といい、結局は40数年前と何ら変わっていないのだ。この集団発狂とも見紛うべき事態を異常とも思わず、かつて日本に侵略された国々がこの事態をいかに脅威に感じているかを思い合わせる一片の想像力さえ持たない人々。こうした人々それこそ1人1人に、きっぱりと「No. 私はくみしない。」とつきつけてゆこう、今この時を逃さずに。
 だまされてはならない。天皇は「国民統合の象徴」ではなく国民主権不在の象徴であり、その地位は未だかって「国民の総意」に基づいたことなどないのだ。(1988年9月28日)
(上田昌文/生物学研究者)
                ■
 彼は、12,000万人の日本人の中で、1番のろわれた男だ。アジア人2,000万人、日本人300万人の血を吸った男だ。あの世に天国か、地獄があるならば、英国新聞紙のいう通りだろう。「原爆は戦争だから止むおえない」「戦争責任?  そんな言葉のアヤは知らぬ」「開戦は私の責任ではなく、終戦は私の決断による」……この三言だけでも決して許しえない。戦後の無責任体制は彼が戦争責任をザンゲせぬところにルーツがある。マスコミは戦前と同じコシヌケ。彼と奥崎謙三と、どちらがホンモノの日本人であろうか。
(日原章介/58歳/わだつみ会員)
                ■
 自粛という名の〝踏み絵〟
 小生の蔵書の1冊に「天皇信仰」という第2次大戦中のあるキリスト者によって書かれた本がある。
 その内容の事ではなく、今の状況は〝天皇教信者〟が悪夢の復活を正夢として迎える。主権在民、民主主義、等々は只のスローガンとなって死語として埋葬される。
 そして喜々として自粛という名の〝踏み絵〟を自ら描き、そろい踏みをする。
 そのような時、私は過去(第2次大戦中)に禁じられた唄、ジャズボーカルを聞く。
(K .A)
                ■
 国民学校の門を入ると陛下のお写真が納めてあるという小さな建物にいつも頭を下げていた皇国の少国民は、米国から帰化した祖母をもつゆえに、あいのこ、スパイなどと罵られ、暴行された。親の苦情に対して、「大和魂がないからいじめられるのだ」というのが国民学校教師の言い分。国民が「大君の辺にこそ死なめ」と歌っていたころ、本土決戦を叫ぶ皇軍は、その大君とともに立てこもって戦う秘密の地下施設を朝鮮人を使って掘削していた。3種の神器を納める室も天皇の御座所に隣接して設ける軍の計画に対して、持従は「陛下には万一のことがあっても、3種の神器は不可侵である。同じ場所……は許されない」と言ったそうだ。(「解説と資料松代大本営」)
 守らねばならないのは裕仁さんの命よりも、3種の神器だったというわけだ。古びた鏡と刀と曲玉を人民支乱の道具にしようと思う人たちが今もいて、年老いた裕仁さん病気を機会に何か企んでいる、等という悪夢は見たくない。
(永島孝/53歳/国家公務員——大学教授)
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 新聞によると祭・運動会・TVのCMなども中止しているようだ。記帳というものも行われている。 自主的に見えつつ「当然だ。祭をとりやめなかったり、記帳しないのは国民ではない」というような討論することも許されない圧力を感じます。オリンピック(国家のために行われ、体の健康を害してまでも行うものであまり好きでないが、プロの競技と思ってみているとおもしろい)をテレビでみていると中断して天皇の体温やら脈拍がいくっとやっている。どうせやるなら天皇は国民の税金で暮らしているのだから、病気の人全員やったらいい。〇〇病院発表〇〇さん〇〇時の呼吸数〇〇というように。病人のいる家は多いものだ。視聴率もあがるかもしれない。
 記帳というのは何なのでしょうか? 町役場でも玄関のところで職員がやっていた。町議会で、町民なら、いや国民なら当然だといって決めたのかな? ついでにお金をとってアフリカ難民にあげたらいいのに。天皇はノーベル平和賞ももらえるかもしれない。
 天皇にはプライバシー、人権がないように思われる。スターが問題になったりするが、スターはやめられるが天皇は死なねば自由にされない。天皇のためにも天皇制はないほうがよいと思う。天皇をかつぎだして行われた侵略戦争の意味を、記帳したりする人はどう思っているのだろうか。
(小林実)
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 日の丸・君が代の強制は、それを掲げ歌うものとそうしない者を分ける踏み絵になり、そうしない者を排除する役割を果たしています。〈日本はひとつ〉・異端排除の論理と感情の流布です。
 今回の天皇「重体」報道は、この延長線上にあることを思います。自粛・記帳キャンペインは、これに抗う者を非国民とみるよう、国民感情を誘導、組織していきつつあります。すぐにでもあろう逝去・国葬儀の報道は、これを決定的にしていくでありましょう。〈天皇の死を悲しまぬもの=非国民〉排除の国民感情を一挙に浮上させかねません。政権党は、これを正面切って批判している共産党攻撃・排除と結びつけて行なっています。〈天皇批判=非国民=アカ〉のレッテル張りがよみがえりつつあります。
 天皇問題がこれほど日本人の心理構造に深く根づき、これを揺り動かす力を保持していたのか、日本の奥底を見せられている思いです。
(小沢有作/55歳/教員)
                ■
 10年ほど前、ルソン島南部にある小さな町の酒場で知り会った男性から、「私の父と母は日本人の兵士に殺された」という話を間いた。狼狽する私に「君とは関係ない、今が平和だから……」と語ってくれた時の彼の表情が、私の頭のどこかにこびりついている。
 日本の戦争責任について、「陛下は利用されただけ」という意識が国内では一般的なようだが、もし、そう解釈したとしても、天皇の軍隊の暴走をその長たるヒロヒトが阻止できなかったという事実は残り、天皇制とは、取りまき次第でどうにでも操作できるシステムだ、と判断することができる。
 誰が言ったのか知らないが〝天皇制は盲腸みたいなもの〟という表現がある。あってもなくても気にならないが切らなければ死に直面する事態もありうるという意味である。しかし、この見方はどこか適切ではない。盲腸は、15年戦争のように伝染して他人を殺すことはないし、万世一系と違って、切るのはむずかしくない。
 テレビの街頭インタビューで、比較的若いサラリーマンが「天皇と自分は関係がないと思っていたが、こうした事態になって始めて天皇という存在の大きさを感じ、日本人の意識に目覚めた……」という主旨の発言をしていた。伝統や宗教、ナショナリズム等の類には反発して育ったはずの戦後世代の最大公約数が、もしこうした考えを抱いているとしたら、天皇制という目に見えないシステムの恐ろしさを再確認しなければならない。
 戦後43年という流れのなかで、ナショナリズムは一見、希薄化されたように思える。が、それは単に企業ナショナリズムに分散されてきただけにすぎず、高度経済成長の繁栄を通過してきた日本人は、企業の経済至上主義という論理を前にして天皇制の論議をあえて避けてきたのではなかったか。なぜなら、天皇制を論ずれば、ヒロヒトの戦争責任という問題にぶつかるだけでなく、戦前の日本軍部のアジア侵略と戦後の経済復興の基盤をなした、日本企業のアジアヘの進出が、どこかで共通項をもっている、という事実も浮かびあがらせるからだ。
  今日もテレビでは、オリンピック中継と「天皇陛下のご容体」報道が繰り返し、続けられている。私たちは、隣人の顔や生活を知らなくとも、海の向こうのニュースや「菊のカーテン」の内側をかいま見ることができる。だが、マスメディアというフィルターを通して送られる出来事は、すべてが茶の間という私的空間でイベント化されてしまうのだ。200万人を超える記帳者の中にピクニック気分で来ている若者がいるという新聞記事を読むと、ソウルオリンピックヘ出かけるのと、皇居へ向かうことの差異が惑じられなくなってしまう。
 この国の経済優先社会のおいて、企業の多(無)国籍化が今後ますます加速され、企業ナショナリズムは国家の枠からはみ出し、その反動として、国内の経済・文化の空洞化現象が進んでいくのではないだろうか。その時、ばく然とした不安感におおわれた日本社会は、精神の依りどころとして〝象徴天皇制〟を持ち出すのかもしれない。そして、商業主義に毒されたマスメディアが、アキヒトやヒロヒトやヒロノミヤをまるで各種イベントに登場するタレントであるかのような錯覚を増福させ、時代の流れの本質を限りなく不透明にしていくのだ。
 ソウルでは、国家主義と商業主義に侵されたたオリンピックが、今日、閉幕する。フィリピンで知りあったトライスクルという三輪車のタクシードライバーは、天皇の軍隊と戦った国で開かれたオリンピックをどう見ただろうか。そして、天皇礼賛一色に染まった日本のマスコミ報道を知ったら、どう思うだろうか。天皇陛下のご容体が持ち直されたと間いて、まさか〝愁眉を開いた〟とは思うまい。
 追伸 葉書に書くように努力したのですが、まとまりませんでした。すいません。天皇制について考えると、頭の中がもやもやして、僕には一般論しか語れません。 今まで、ヒロヒトといえば戦争犯罪ということがすぐ浮かんできたのですが、ここ数日のマスコミ報道を見ていると、ヒロヒトの意志を離れたところで、別の不気味な空気が感じられ、天皇制というものがますますわからなくなってきました。
 〝自粛〟とはいったい何なのでしょうか。公共の場で、天皇についての発言をするとき、何故、周りの目を気にしなければならないのでしょうか。疑問ばかりが浮かび、不透明な不安感を抱く、この頃です。(10月2日 )
(石川正洋)
                ■
 ふだんよく考えることのない天皇制や近代日本について、話しあい考えあう絶好の機会としてとらえたいのです。とくにいまの元号なるものが日本の伝統文化とは無縁であり、しかもいかに国際的でないかを知り知らせる機会にしたいのです。
(山住正巳/57歳/教員)
                ■
 今回の天皇騒ぎは、あらゆる面でとても不愉快ですし、個々人はともかく〝同じ日本人〟に対して、これほど強烈な違和感をおぼえたのは初めてです。これまでも、空気として温存されてきた天皇制を危惧する思想に幾度となく触れてきましたし、自分でもそう思ってはいましたが、今回それをハダで感じ、「やっぱり、そうだったのか!」という気持ちです。しかしいつまでも「わからない! なんでなんだ!」とぼやいていても仕方ない、これからは〝同じ日本人〟という厄介な思考と、人々と、私なりに格闘し始めなければと思っています。〝原発ありがとう〟ならぬ〝天皇ありがとう〟です。
(岡崎光洋)
                ■
 あちらこちらの草叢に潜んでいた亡霊が、ぞろぞろ、うじゃじゃ……。連日、テレビ画面に映し出されるその人への病気見舞いの記帳列は、そんな印象を受けた。全国で100万とも、200万とも、その数を聞くと、ああ、この人たちはあの大戦中、肉親を失う涙を流さなかったのだろうか。喘ぎながら戦火を逃げまどいはしなかったのだろうかと思ってしまう。
 人の意識など、そう簡単に変わるものではないにしろ、戦後40数年の歳月など、海に山にガレキの街中に累塁と屍の山を積み重ねるほどの犠牲を払っても尚、変わりはしなかったということなのか。今ここで、その人を死なせてはならない。決着は何もついていないのだから。あの血塗られた愚行に対する真の審判を、そしてその罪業にとどめの鉄槌を打ち込まないかぎり、その人を死なせてはならない。テレビ画面に映し出されたあの亡霊たちを調伏する為にも。
 それにしても、雨にもかかわらず、二重橋前に正座してひれ伏す老人の姿、あれは40数年前とまったく同じ姿ではないか。そう、ただ、モノクロがカラーになっただけの……。
(佐藤まさ子/38歳/自由業)
                ■
      「天皇と日本と」
 戦争の終了と共に崩壊するはずであった大日本帝国と天皇は、切られた役者のように生き返り、軍服からモーニングヘ衣装を換えて戦後を生き続けた。このことは日本という国に生きているものとして、あの戦争に因って傷つき死んだアジアの、世界の人々に申し訳の立たないことであると私は思う。天皇の名に因って殴られ、殺され、辱められ、屈辱を受けた者はいったい何人いるのだろうか。私の想像をこえた人々が、たとえ天皇が墓穴の中に逃げ込んだとしても、墓の中から前に突き出した首ねっこを掴んで引きずり出し石を投げ、笞を打ち、足蹴にすることだろう。いまだに天皇を頂く恥ずかしい国家「日本」と縁を切りたいと希っているのだが、なかなか縁を切れずにいる。税金を払わない、子供を学校へやらない、これくらいは是非実行したい。我々の暮らしの中から天皇制(家柄、学歴、身分など)を無くすることが、本当に平等な社会をつくることであると思う。
(伊豆光男/37歳/農業)
                ■
 新聞を読んでもラジオを聞いても皇室アルバムばかり。久しい以前から、日本のニュースは「大本営発表」にすっかりなっているとは感じていたものの、これほどまで見事にメディアが飼ならされていたかと、腹立ちと口惜しさで一杯の毎日でした。『輩語』編集部からの、この手紙に拍手喝采を贈ります。
 今こそ、死につつある天皇の為したことを明らかにし、天皇制の何たるかをしっかりと知りましょう。あれだけ多くの人を殺した極悪犯が天寿を全うすることだけでも不思議なことですのに、それに対する歴史の審判もないのは、現代日本の暗黒・汚点であり、歴史の不条理を感じています。夫は天皇が墓穴に逃げ込めると仮定した文章を書いておりますが、私は先の大戦で亡くなった人々と共に、彼が生きている今こそ石を投げ、笞を打ち、足跳にする必要があろうかと考えます。それが歴史を無告の民として生きる覚悟につながっているように思えてなりません。
(伊豆光枝/39歳/主婦)
                ■
      「記帳」というものについて
 各地に記帳所が設けられ、万単位でふえる記帳者たち……。戦前生まれの年配者ならともかく、若者や子どもまでふくまれていることに慨嘆している。映像や記事で報道されなどしたことが影響し、「われもわれも」と足を運ばせるのであろうか? 病にたおれ、今まさに生を終えんとする者に対し、いたましく思い、せいいっぱい生きながらえてほしいと思う気持は自然なものと思うが、それが他の人に対しても同様の行動を起すならともかく、天皇だから……だとすれば、やはりマスコミの責任を強く感じる。いや、あるいは〝二重橋近くの玉砂利に正座して遥拝する姿〟よりもマスコミがとりあげやすい〝姿〟をすばやく我々がつくりださなかった責任を問うべきか?
(K . ohtan )
                ■
 天皇制とは別に、人間ヒロヒトの戦争責任は問えなくなった。というよりも、ヒロヒトの死によってそれは確定するといっていい。ボクの関心はもう別なところにある。天皇制を戦犯へと導いた者たちの責任を問うことだ。これはまた天皇及び天皇制の戦後責任として今も続いている。いや、連日のように責任の上塗り儀式が積み重ねられている。これを批判し続けなければならないと思う。
(調布市・佐藤文明)
                ■
      過激な天皇キャンペーンの狙いは
           「今こそ天皇制のあり方を問い返そう」
 いま、天皇・裕仁の危篤の報が伝えられています。人ひとりの生命の重みはみな等しいものであり、天皇においてもそれは変わりなく、その人生が終わろうとしているごとはそれなりに厳粛に受けとめたいと思っています。しかし、そのことは天皇の重体が伝えられて以降の政府や大多数の国会議員や行政機関等の天皇賛美の過剰な反応やそれに追随するマスコミの報道ぶりを許すことにはつながりません。その理由はまず先の太平洋戦争の責任のとらえ方にあります。周辺諸国の人々や日本人の1,000万を越える人命を奪ったこの戦争は、どんな言い訳をしようとも間違いなく天皇の名のもとに行われたものであり、彼の死に際してもその責任を棚上げにするわけにはいかないものです。そのことは一連の日本国内の動きを、驚きと恐れをもって見守っている諸外国の反応からも言えることです。しかもこれは、わたしたち日本人一人ひとりの戦争責任についての考え方の曖昧さともかかわっているわけで、だからこそ手放しの天皇賛美のキャンペーンを見すこすわけにはいかないのです。
 また、この間の天皇の重体を理由とした催し物の自粛や見舞の記帳といった異常な風潮のなかで、それに賛同しない者は非国民と言われ兼ない雰囲気ができつつあります。しかもそうした動きは松戸市を含む多くの行政機関や企業や諸団体などによって助長されています。一体、日本における主人公は誰なのか、日本の現在や行く末に責任を持つのは誰なのか、民主主義とは何なのか、そして天皇制をどう考えるのかを、この機会にうわっつらの動きにまどわされることなく、じっくりと考える時だと思います。
(天皇制を憂える松戸市民有志/1988年10月)

【《輩語》編集部・註】有志の方がたが、松戸駅などで道ゆく人に配られたものを、起草者の方からお送りいただきました。
                ■
 あれは1983年の事、機会があってタイに行っていたとき。東南アジアの人達が7人集まった。ホンコン、シンガポール、ピルマ、フィリピン、マレーシア、スリランカ、タイ、そして私.どの国もいろいろ不自由があった。ビルマでは海外旅行はとても手続きが面倒で、おまけに帰国したらどこで誰と会い何をしたか政府に報告書を提出しなければいけなかった。フィリピンは当時まだマルコス時代で戒厳令同様だったし、シンガポールは言論弾圧がすさまじかった。折からタイの友人は出版が禁止されていた書籍を持っていた疑いで家宅捜索を受けたばかり。そして「日本はどうだ? そんなことはないんだろう」と口々に間かれた。「そりやそうだ、言論と報道の自由があるさ」と喉元まで出てきた言粟を思わず飲み込んだ。「だめなんだ。僕らもこれだけは報道することができないって事がひとつある。答えはNoだ」と、苦い思いで話したのを昨日の様に憶えている。
(館野公一)
                ■
      「今、思うこと」
 「天皇が生きようと死のうと関係ないじゃん。なんで大騒ぎするの」と10代の女の子が天皇陛下の病状に関するテレビの街頭インタビューに答えていた。
 天皇は「象徴」と子供のころ教えられ、疑問も持たず育った。ちょっと大人になり、なぜ象徴なのか裏側を少し除いた、が、今もほとんど何も知らない。
 国際化と言われて久しく、多くの日本人が外に出ている。けれど、内にいる者は彼らが何をしているか知らない。私たちのために泣いたり、笑ったりしている外の人たちがいるのを知らない。そして、知ろうともしない。関心を持たない、そこからは係わりが生まれず何も始まらない。自分の足元を見詰めない人が増えている。国は土台のない家のように姿を変えつつある。「昭和」が終わる、次はどんな時代になるだろう。そして、この国は……。恐い気がする。(1988年10月3日)
(林純子)
                ■
 このごろはまったく世論操作です。天皇賛美の過度な報道に抗議の電話をしたのですが、例えばNHKでは「そのような御意見におこたえできません。いったんお支払いうけている受信料はとり消せません」との返辞。
 いちばんこわいのは国民の判断力が為政者の意のままになること。戦前のくりかえしです。「蜚語」等、信用できるメディアのいちばん必要となるとき。
 それにしてもオリンピック報道はニコニコと、心配される天皇陛下の……のときは沈んでと各局ニュースキャスターの忙しい(顔の表情)のこと!  まるで茶番です。ジャーナリスト(真の)キャスター不在の1988年です。
(M .T)
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 歴史や事実の持つ重さが亡霊になりきれなかった天皇という存在に無化されてしまう。
(西倉潔/32歳/建築家)
                ■
 私個人としては、どう考えても私自身の思考の形態の中では落着く場がない天皇制が、この際なくなってくれれば頭の中がスッキリするのですが……。ただ現在のここらあたりの状況では、よほど親しい間がらであってもこのことについて話し合うことがはばかられる雰囲気があります。論理的に話し合えないことというのは幾つもありますが、天皇制がそのような対象であってはならないわけですし、制度なら制度としてもっとカラッとしていてくれればいいのですが、なんとも不気味なイヤーな雰囲気がただよっています。外国の人の目にどう映るのかと考えるとほんとうに……。(大分県/T•Y)
                ■
 私の母方の祖父は、終戦の日にショック死しました。爆弾で死んだいとこ(女)は一人っこだったので私が養女に行きました。でも私は8人きょうだいだったので、1人っこ生活は1年しかつづきませんでした。私を1年預かった祖母は83歳で死ぬまで、30年も1人ぐらしでした。老衰したというだけなのに、睡眠薬の常習者となったので、精神病院にとじこめられて死ぬという最後でした。これも1つの戦争の悲劇と、私は思っています。それに加えて、老人福祉の貧困です。祖父は熱れつな天皇崇拝者だったとか。終戦とともに死ぬべきだったのはひろひとではなかったのか。だれも第2の祖父になってほしくない。
(宮本なおみ/目黒区会議員)
                ■
 連日のマスコミ報道、各自治体などの記帳、行事などの自粛。口では「もう死んでるんじゃないか」などと言いながらも、あらがいがたいフン囲気をヒシヒシと感じている人も多いように思います。このあらがいがたい、というのが、天皇制の恐ろしいところだと思います。それにしても、日本人の記憶というのは、都合のよいもののようです。裕仁の名で、殺されていった肉親を持つ人も多いはずなのに。時を同じくして三省堂の英語教科書の検定後の自主改訂。日本軍の侵略によって受けた傷をいまだに背負い続けているアジアの人々の事を省みないでの天皇賛美ほど残虐なことはないと思いますが。
(川合伸江/38歳/会社員)
                ■
 吐血、出血と新聞の見出しが躍る。脈拍〇〇、血圧〇〇、体温〇〇……数時間おきにテレビが報ずる。否応なく引き込まれ、9月24日(土)には皇居前広場へ行ってみた1人の初老の男性が傘を肩で支えて、じっと手を合わせていた。その祈る姿を見て、私は一瞬、胸がつまってしまった。帰りの電車の中で、「この感じが天皇制の本質と何か関係があるのだな。あぶない、あぶない」と自分に言い聞かせた。
 本の街、東京・神田神保町では、秋の古本祭が中止された。
(1988年年10月4日)(胡正則/31歳/業界紙記者)
                ■
 私は、ずっとあたためている民主主義論(実はすすまないだけ)の中で、天皇が戦争中部屋にリンカーンとダーウィンの胸像をかざり続けたというエピソードをとりあげて論じています。天皇を私たちが非人間化しないで、20世紀天皇制の罪悪を追求していくことが求められていると思います。
(最首悟/52歳/大学助手)
                ■
 天皇は「象徴」などではないことを思い知らされる連日の報道です。記帳に列をなす人々、皇居前に佇み祈るという人々の姿を見ると写真で見た敗戦直後、皇居前の玉砂利にひれ伏す人々の姿がだぶってくるようです。日本人の体質も変わっていないのでしょう。
 
 ソウルオリンピックにくり出した日本人のあまりにも無邪気な歴史への無知を嘆いた新聞記事がありましたが、私達日本人の忘れっぽさ、楽天性をそのままにして通せる状況ではないと、早く気づかねばなりません。それなのに今のマスコミときたら……。政治意識などうすい一般大衆の私にさえあきれ果てる最今です。教育の現場でも、例年圧力を増してくる日の丸、君が代問題、そして今準備中の「新指導要領」を見ても、教育勅語が基底に響いて間こえてくるような〝道徳〟の内容、あからさまになってきた〝国旗・国歌〟〝日本人〟と、歴史を逆行していこうとする流れの速く急になってきていることを感じるのです。
 これでは困ると思っことが多くなり、そして小さな反対の声など簡単に押し流されていってしまうことをいくつも体験させられています。たとえば東久留米の保育園民間委託、学校の機械警備化、給食のセンターや親子方式化、国鉄の民営分割等々。
 そしてまた、声にして反対する者を圧迫しようとする影もちらちら見え、ますますこわい世の中です。いずれ卒業式に立って君が代を歌うか歌わないか、というような踏み絵を踏まされたりするのではないかとも思いますが……。
 「なにかおかしいんじゃない?」とささやきあえる仲間を多くしひそひそ声を次第に大きな叫びとして行けることを私も願います。
(N/40歳/小学校教員)
                ■
 天皇裕仁は、臨終になる前、アジアの諸国民、また世界の多くの人々、それに日本の国民に対し、43年にわたって果たさないでいる戦争責任をはっきりとるよう、私は要求する。
また、天皇裕仁が死亡した折に、天皇制と元号を廃止するよう、日本国国会に要求する。
(大竹勉/59歳/教員)
                ■
 私の職場は杉並区の学童クラプ(小学1~4年の留守家庭児童を預かる区の施設)ですが、〝自粛〟の波はこんなところまでおしよせてきています。
 まず、区主催の〝杉並区児童館まつり〟(11月6日予定)が〝杉並区児童館子ども遊び大会〟に名称変更、それから区内40ヶ所にある各児童館での「あきまつり」なども、「まつり」の名称は変更するように、という指示がありました。また、事態に変更があれば、その時はもう一度指示を出すそうです。
 組合でその指示に対し、理由等の見解を求めたのですが。「『諸般の事情』としか言えない」という回答でした。
 それを受けた一般の職員の反応はというと、〝児童館まつり〟のポスターの下書きをすぐに〝子ども遊び大会〟に変えたり、「もし彼が死んだら、まつり中止になるかもしれない。それじゃあ、子どもたちがかわいそうだ。それに1年やらないと来年参加する子が減ってしまうかも。まつりが終わるまでは死なないように記帳に行こうかな」という具合。
 〝自粛〟の意味するところを自分の頭で考えようとももせず、抗議どころか疑問も持たずに当局の指示どおりに動いてしまう。これが今の日本の大多数の人々の実態です。本当に本当におそろしいと思います。〝戦後民主主義〟などやはり名まえだけで中身のないものだった。こういう人々の主体性のなさ(国民主権そのものもつくり上げられてはいない)は、戦前と同じだと思います。
 ひとりひとりが考えること、そして勇気を出して言っていくこと、なんてむずかしい! でも人間が人間であるためにはそれをまっとうするほかありません。
(渡辺容子/34歳/学童クラブ職員)
                ■
      お答え
 今度のことは、間近いXデーを控えて、まだその精神総動員が不十分な国民に対する「全国予行大演習」だと思いますので、ひとりひとりは、マスコミ報道にあまり慌てず、びっくりせず、怒らず、あくまで自分の天皇観、皇室観を保持していればよいのではないかと考えます。「良識の朝日」のスクープをふくめて、あのチビ天への皇位継承が、どれくらい国民多数に受け入れられるかが、現在の日本権力にとって1番シンパイのタネなのですから。
 当分、政府(投手)と宮廷(捕手) とマスコミ(内野手)とのトレーニングはつづくでしょうが、国民が腰かけている外野席からは、その間のサインは何も見えないのですから、あまり興奮せず、マスコミ応援団の扇動キャンペーンにも反応を示さないほうが、将来の「日本の民主主義」にとって得策でしょう。Xデー以後、本格的な〝世継ぎ〟の儀式報道と20世紀末の「天皇神話」づくりが始まるでしょう。
(丸山邦男)
                ■
 裕仁天皇どの——あなたさまのお名により、不条埋なる戦さに父を奪われた幼な子は、心にひそかなる青き呪いの灯を点しつつ、40数年、今日の日をお待ち申しておりました。
 国を侵され、ありとあらゆるはずかしめを受け、肉親の生命を奪われた朝鮮、台湾、中国、アジアの国々の人びとの、あなたさまへのうらみはいかばかりでしょうか。
(松岡信夫/56歳)
                ■
 天皇が死んでしまったとか、植物人間になったとか、いろいろうわさされていてうれしい。ボクは天皇報道の多くをテレビでみている。テレビというものが各家庭に入りこんではじめて経験する天皇報道ということで、テレビ局各社は、「民放」であることを棚上げして、まるで不当に受信料を取りにくるNHKと競う形で報道をたれ流してくれている。
 一体、どこが「民放」なのかしらとむかつくやら、ひっぱたいてやりたくなるやら……まったく、行き場のない感情に、「困ったもんだ」とひとりつぶやくばかりです。
 「下血」が毎日のように話題になっている。生まれてはじめてきく言葉だったので「皇族語かしらん?  名古屋弁ではにやあわね。わりィけど!」と、思いつつ、さっそく「広辞苑」で調べると「種々の疾患により消化管内に出た血が肛門から排出されること」とあった。「なあんだ、痔なのね!」と簡単に考えたけど、テレビは延々と「輸血した!」と言っているので、「肛門が破裂したんじゃないかしら」なんてバカなことも言ってられない。一体、誰の血を輸血しているのかしらんなんて、想像したり気持ち悪くなったり……。
(安藤鉄雄/24歳/ファルセット演歌歌手)
                ■ 
 今の天皇キャンペーンに対し、諸外国は、ヒットラーは自殺に追込まれたというのに、ムッソリーニはつるされたというのに、まだ生きていたのか、と受けとめているにちがいない。何でもかでも自しゅくしろというキャンペーンは、人民の生活を犠牲にし、天皇のためにつくせという軍国主義そのものだ。我々人民が社会の主人公なのだ。国の主人なのだ。いいかげんにしろ、といいたい。今こそ、天皇キャンペーンをくつがえし、主権者たる我々の意志をはっきり示す時ではないか。
(植木正治/中学校教員)
                ■
  1938年9月10日、日本帝国主義も教会も韓国の人びとの神社参拝を強要した。 日本の教会はこのことについて50年間ほっかむりをしている。
 敗戦時の沖縄で、本来教会員と一体であるはずの牧師が、日本軍の命令で沖縄から引き上げてしまった。今、沖縄の教会ではこのことを根本的に問い直すと言っている。国民の心の在り方からいっても、神棚を強制し、神棚を通じて天皇は戦争協力を命じた。それらのことを不問に付してきた根本的体質を問わなければならない。
(談・登家勝也/横浜長老教会牧師)                
                ■
 父が死ぬ半年ほど前、入院先の病院でこんなことを言っていた。
 「俺も、もうそう長くないから、全財産をはたいて、大きな爆弾を2個作って、1つは国会議事堂、もう1つは皇居に落としてやりたい」と。それから半年、それこそ身の回り一切のことを母と私に委ねるしかないような状態になって、点滴と鼻からの管で栄養補給をしていたけれども、呼吸がだんだん弱くなって、あるとき、胸に明けた呼吸をするための穴から出ていた息が、スーっと止まった。もし今元気だったら、ほんとうに怒り狂って、私はなだめ役に回ってしまったかも知れないと思うと、なんだか可笑しい。
 かといって、彼は共産党員だったこともないし、ほんとうにただの小市民だった。「嫌で、嫌でたまらなかった」軍隊生活が長く、それでも、いわゆる戦地に1度も行かずに、20代の大半を国内の軍隊で過ごした。「俺は10年損した」「天皇がいちばんの戦犯だ」と、ことあるごとに彼は言っていた。奥崎謙三氏の著書を読み、すっかり彼の支持者となった彼は、私たち家族に、奥崎謙三氏の存在を知らせ、その本を読むことを勧めた。
                 
 また『囚われの女たち』のことをいっていると言われそうだけれども、その第7部で、天皇制というものが、肉親に対する情といわれるようなものをいかにうまく利用して、人びとの心の奥深くまで忍び込んでいるのか、ということを物語る場面が出てくる。留置場での特高のテロにもめげず、毎日のように面会に来る母親に対しても、きぜんとした態度をとっていた小学校教師が、皇太子命名の奉祝日に、面会に来た母親と一緒に奉祝のラジオ放送を聞かせられる。
 「わたしはいまだって、理論の上では天皇制に妥協する気はない。でもね、ラジオを聞いてて、海と陸の両方から打ち上げられる皇礼砲のいんいんと響く中で、君が代の吹奏が始まると、体がじーんとなって、頭が下がって来たの。これはどういうことでしょう。反抗の教育者の一大盲点だわ。教育勅語が出てからの学校教育を受けてきた日本人の体には、式のたびに国旗を掲げ、御真影の前で頭を下げて勅語の朗読を間かされ、君が代を斉唱してきたことがしみこんでいるのよ。私なんか小学校6年、高等科2年、師範学校4年、教員になって5年、まる17年もくりかえしまきかえし君が世の斉唱に頭を下げてきたんですものね。そこで訓練された感覚が今日のようなときに出てくるのよ」
 彼女は「(略)なんてみっともない降伏でしょう。(略)ぐるり1,000万人が皇礼砲と君が代に感泣する中ヘ1人で立されるときが来ても、乾いた目で1,000万人を脾睨できる自分に、自分をきたえなおさねばならない。(略)」と自らの盲点に気付く。
 これを読んだとき、ほんとうに怖いと思った。天皇制は目に見えない放射能のように体に入り込んで、蓄積していき、癌のように細胞を侵し、ある日突然、症状が表に出てくる。この国では空気そのものが天皇制だ。だから、みんなその毒に侵されていて、民主的といわれる人びとの中にも、絶対不可侵の人がいたり、話題があったりで、いつも何かもっと大切なことに触れないまま事をすませている。じつは、症状は日常生活のいたるところにあるのだけれども、この毒はまずそれが見えなくなるという恐ろしいものなのだ。
(遠藤京子/39歳/《輩語》編集発行人)

『蜚語』第5・6合併号23ページ

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連載 思想購買層に対する正論の吸引力は、もはや底をついたか? 〔番外篇〕いま、人間として、私は酸素薄い季節を生きる 

山口泉
 ちょうど今回の〝下血騒動〟が始まったころと前後して、個人的に……とはいっても、そのスケールの小ささにもかかわらず、実はきわめてそれは普逼的な問題だとも、自分では思っているのですが――かなり面倒な事態に関与する羽目に陥りました。偶然と言い棄ててしまうにはあまりにもったいない、非常に意味深いこと、理由あることだと、私自身、捉えています。で、いわば大状況ともいうべき前者と、小状況そのものであるような後者との、あまりにも似通った相似・相同関係に改めて鷲きながら、この秋の波乱万丈の日日を楽しく、苦しく、憤ろしく過ごしたわけでした。 
 これは、いわゆる〝日本人〟というより、むしろ人間一般の性質といった要素を含むものでもあるのかもしれませんが、事柄がすでに分類・命名・定義づけされ、明瞭に規定されているものに対しては、一応それなりの反応はしてみせるのに(たとえば、「天皇制」「天皇問題」……)、一方、それとまったく同質の問題が自分の周囲、ごく身近に存在していることに対しては、まったく気づかない(——ないしは、より高度な判断から、意識するにせよしないにせよ、気づかないふりをしている)。そうした傾向が、小さな〝権力者〟の側にも、またどんな形にせよ、それを支える営みに参加していることは疑うべくもない〝庶民〟・〝大衆〟の側にも、厳然として存在しているようです。〝良心的〟(実に安易で曖昧な批評ですが)と称された一出版社の末期的な状慇に際して生じてきたさまざまな事態に直面し、改めて自分が生きているのがまぎれもない——《日本》という国なのだという思いを、幾重にも新たにしました。
      
 ……そう、まったく想像されないわけではなかったのですが——しかしいざ実際、そうした事態にたちいたってみると、それまでの予測を超えて徹底していることに驚き、茫然とせざるを得なかったことはいくつかあります。分けても、今回の〝ジャーナリズム〟どもの総崩れの天皇・天皇制・天皇制国家日本への翼賛、われらが日本〝民衆〟の、骨の髄まで腐りきった奴隷根性・自警団根性の露呈……等に加えて、もうひとつ——最新・最高度(おそらくは)の医療技術が、その〝人物〟の生命をほぼ完全に管理し、つまり結果的には生死に関する決定権が、ある判断のもと、ある機構の手に掌握されているらしいという事実…… 少なくとも、そうした気分の蔓延は非常に印象的でした。
 連日・連夜(終夜)のVital Signs (脈拍・血圧・体温・呼吸数)報道に、「いま、この瞬間にも死んでる人間は何10人といるんだ」とか、「こんなのより、なぜ〝ベトちゃん・ドクちゃん〟の手術後の容体を、時時刻刻、報道しないんだ!?」とか言ったり(——これは余談になりますが、某新聞の『ひと』欄に登場していた、2人の児の〝分離〟手術の執刀医の女性は、ほんとうに美しかったですね。こうした美しさは、何か、その背負っている歴史・文明・社会の根本的な体質の問題ではないかという気がしてきます)、〝育ての親〟和田勉自身に「その最高の作品は、結婚」と規定されてしまった〝女優〟和田布子との結婚式の〝自粛〟延期を、わざわざ『夜のヒットスタジオ・デラックス』「五木ひろし、今夜重大決意表明!」かなんかで、ダーク・スーツに黒ネクタイ姿でもっともらしく声明する五木本人にむかって「結措式〝自粛〟するんなら、出産も〝自粛〟しろ。なんで妊娠は〝自粛〟しなかったんだ?」などと叫んでいるあいだは、まだまだ牧歌的だったのですが……(ただし、彼の場合は、その民族的な出自が、いわゆる〝純血〟日本人以上に過敏に、こうした事態に対する防御意識を刺戟したのだとは、考えられなくもありません)。
     
 そもそもその根拠が〝天皇〟なる生命としての装置それ自体(これは同時に、その歴史的次元においては〝血統〟ということになりますが——)に完全にもとづいている、この天皇制という制度においても、当の〝天皇〟の健康状態・生殺与奪までもが、〝権力の総体的合意〟のコントロール下に、ほぼ完全に置くことができるような次元に達したということは、明治以降、いまだかつて一度もなかったことのように思います。むろん、この〝権力の総体的合意〟とやらには、当然のこと、自己判断力をもっている(いた)状態での個別の天皇自身もまた、その最も中枢的な役割を占めて参与してい個別の天皇自身もまた、その最も中枢的な役割を占めて参与していることは疑いをいれないでしょう(彼におけるその情熱の本質は、ひょっとしたら〝家族愛〟かもしれません)。 
 こうした志向には、たんに対症療法的な〝医療〟のレヴェルにとどまらず、基礎医学段階の研究や、分子生物学の最高の応用技術、バイオテクノロジーといった分野もが、当然、参画している、あるいはするようになるはずであることが、容易に想像されます。人工受精技術・体内診断技術・男女産みわけ・優生学……等等が、こうして寄ってたかって秘術を尽くしあうことにより、〝血統〟を基底にしていたこの制度に、かつてそれでもついてまわっていた、ごくわずかの制約・偶然性の介入・心配の種すらも、遠からずいっさいが解消されかかっているとみるべきでしょう。
 80年代日本は平和で繁栄を極めた理想郷だの、天皇はイメージ的なシンボルとしてしか、この豊かな大衆消費社会では意味をもっていないどころの騒ぎではありません。明治維新も、西南戦争も、大日本帝国憲法発布も、日清戦争も、日露戦争も、大逆事件も、関東大簑災も、昭和全部も——もう、いっさいがっさい超えて、どうやら、明治以後に始まった天皇制国家・日本は、これでいよいよ最終的・決定的な完成に達したということができそうです。
 まったく、私自身、日日、生きた心地もせず、空恐ろしくてなりません。暗澹たる思いがします。
      
 ついこのあいだまで、「この高度資本主義の日本で、もはや天皇などは〝記号〟(!)にすぎない」「いまだに〝天皇制〟などという術語に振り回されているやつらは、旧左翼の迷妄に誕され、いまだにそれを脱却できない時代遅れの大馬鹿野郎だ」……等等、あきれはてるほど無邪気に豪語してくれていた、政治学者A ・経済学者B・歴史学者C・法学者D・思想史学者E ・社会学者F ・宗教学者G・哲学者H ・評論家I・編集者J……ら、《戦後》最後の時代のはかなげな思想マーケットの繁栄状況のおこぼれにあずかろうとしていた輩は、一体どんな言い訳・言い逃れを起草し、これからどんな転身を計画してくれているのでしょうか。またしばらく、この国の思想・言語は、いちだんとその衰弱・退廃ぶりを深めてゆくことでしょう。
 彼らのこれからさらけ出してくれそうな醜態は、日本〝大衆〟の底の浅さ、永遠の救われ難さが、マッカーサー以来43年の必死のアメリカ潰け、最近では「わたせせいぞう」やミスター・ドーナツのペーター佐藤・パッケージの〝頑張り〟にもかかわらず、結局のところいざとなってみれば自警団根性丸出しで、手もなくそのお里をさらけ出すのとあいまって、しばらくのあいだは見ものに事欠かないような気がします。不思議な哄笑のようなものがこみ上げてきさえ、します。
 ここで、一曲——気分はもう、「♪これがァー、日本だァー、私のォー、国だァー」(昔、西岡某という、馬鹿ばかしい〝フォーク〟歌手が歌っていた、『遠い世界へ』とかいう救いのない歌の終わりの方に、唐突に出てくる奇怪な歌詞)といったところです。
      
 私自身、何度か触れてきたことですが、私は天皇制国家・日本は「明治」にその明瞭な起源を有していると考えています。近年の天皇論議の曖昧さは、すべて「明治」以後と以前とを一括しようとする誤謬・意識的な歪曲・逃げ〝新基軸〟に負うところが多いのは明らかですが、これはひとつ、国家論と直面しなくて済むという利点がある種の人びとにとってきわめて好郁合だからのようです。
 どういう理由からか、ことさら古代から現在までを一貫させた時間軸のなかに天皇・天皇制を置いて論じようとし、その挙句、まるで自分から意図的に虚偽である前提のもとに論理矛盾が証明されたかのようなやり方で「結局のところ、天皇は実権力のない〝記号〟的存在だ」と称してみたがる手合いについては、その拠って立つところをすら疑わざるを得ません。こうした手合いにかぎって、相手が言ってもいない雑駁な議論を一方的に相手のものとしてでっち上げ、戦後の〝天皇〟・〝天皇制〟論議について、末梢的な術語の来歴調べをした果てに「これだから、〝天皇制〟批判論者は駄目なんだ」と、愚かしい一人合点をしてみせて悦に入っているのです。馬鹿ですね。
      
 幼ない頃——おそらくものごごろついたときから、天皇・皇族だの、それに類する人びとだのが嫌いでした。これは、現在死につつある昭和天皇について多くの方がたが言われている〝戦争責任〟論とは、かならずしも関係ありません。むしろ、当時(小学校前半くらいまで)の私は、少年週刊誌に出る太平洋戦争を主題にした戦記マンガや読み物、巻頭グラビア図解や兵器のプラモデル作りに、ひととおりは熱中していた時期もある田舎少年で、その意味では15年戦争について特別な意識などもっていたわけではないのです。雑誌・プラモデルとも、それらに触れる機会は周囲の子どもたちよりは、ずっと少なめでしたが(この理由はよくわかりません。主として、〝家風〟と経済的事情によって? 独りでいることが好きで、あまり皆と一緒に遊ばないせいもあったのでしょう)。
 そのころの私の怒りは、つづめていえば——ただ〝同じ人間としてありながら〟どうしてこんなに違うのか……この世に〝天皇〟・〝皇族〟などという、いかにも愚かしげな顔をした不潔な存在が幅を効かせていることそのものへの、謳がわななくような怒りでした。ちょうど〝皇太孫〟がある程度、世代的に私にちかく、ようやく〝彼ら〟を、TVや週刊誌といったマス・メディアを通じてキャンペーンすることを、〝向こう〟の側が覚えはじめ、私の家にも否応なしにそうした情報が流入しだしていたころでしたから、なおさらそのイメージは強かったのかもしれません。たんに天皇・皇族だけでなく、たとえば〝学習院〟イメージを中心とした、旧・華族といった全体が、外縁部として、そこには含まれていたような気もします。
 幼少時からの病苦と、それにも若干ともなう、ある種の生活苦のようなもの——そしてさらにもっと漠然とした、この〝人間の世〟への受け入れられ難さに苦しみつづけていた私にとって、この地上に、すでに他と違う存在であると生まれたときから定められている〝人間〟が息をしているということは、それを思い出すだけで、いたたまれなくなるような事実だったのです。
 小学校時代、休み時間·給食のとき・自習時間等に、周囲の同級生にその話をして、ある程度の賛同が得られたりするときは心からの喜びを感じました。しかし、私の思いがあまりに昂じてくると、最初は共感を示していた彼らもけげんそうにし始めましたし、父親などはずっと、こうした私の「反社会的性格」(本人がよくこの言葉を使っていた)を叱貴しつづけていたものです。彼自身、基本的には天皇を(こちらは主として、その〝戦争責任〟において。また〝税金生活者〟という面も——)かなり明瞭に批判してはいましたし、私の考えにも、その影饗を受けた部分はありますが——。
      
 いまでも私は〝戦争貴任〟論だけで、現在の天皇を批判するような向きに対しては、問題はそれだけではないのだということを言わねばなりません。個別の世代的体験によって刻印された、安っぼい〝情念〟のごときものをよりどころにしているかぎり、それはいつでもまったく反対側の極に反転し得るのではありませんか。
 学徒動員で戦死した旧友を偲ぶ××会の人びとと、田舎の昼下がりの茶飲み話に、つい——大陸で中国人捕虜を銃剣刺突の標的とした話を懐かしげに自慢してみせてしまう老人とは、固有の世代体験の疑似的な特権性にのみ依拠し、普逼的な論理への掘り下げがないという一点において、私にとってはまったく同レベルの人間存在にすぎません(彼らが自己のアイデンティティーの根源に位置づけている、その〝体験〟すら——出自と運とによっては『王子と乞食』の物語よりたやすく、完全に役割交換することが可能でしょう)。
 もしも〝戦争責任〟がなければ、15年戦争の誤りがなければ、それで済むというもの〟は、天皇などというもの、皇族などというものがあるかぎり、それらによって不可避に、周期的に、間歌的に引き起こされるものであるというべきでしょう。
 「誤解を恐れずに言えば」ではなく、私は「誤解や曲解を心から恐れながら」言うのですが——〝戦争責任〟論を千篇一律の金科玉条のごとくふりかざしている人びとには、ついにほんとうの意味で、この世に〝人間以上〟の価値が〝人間〟の形をとり、権力の機構そのものとして君臨していることへのほんとうの批判はできないのではないかと思います。学徒兵であったにしろ、徴用工であったにしろ、皇国少年・軍国少年であったにしろ……それらいっさいを〝自分の〟〝過去〟として、〝現在の自分〟が〝背負〟い、〝担〟っていると称するとき——すでにその個人史は自ら外部へと通じるべき回路を閉ざし、あくまで閉鎖的な個人性のなかで、1つの〝直接体験〟の特権性をあくことなく抽象的に主張しつづけるだけです。こうした体験第一主義の自己特権化は、それがどんな装いのもとで語られようとも、これら戦争や《軍国》の内部を生きる気分の問題にとどまらず、差別と被差別・〝異常〟と〝正常〟……等の領域にも及んで、人間を分断し、境界線を引くだけでしょう。そしてそのあとには、無限に求心的な自己神話化と他者に対する疎外だけが空回りするのです。
 (ただし、私はまた別の意味では、人それぞれが自己に固有の体験・経験を、それを知らない他者に伝えようとすることには大いに意味があると考えています。要は、こうした個個の特異性に依拠した態度では、ことこの問題に関するかぎり——〝差別〟と〝天皇制〟の問題に関するかぎり、永遠に真の解決は、その糸口すらも共有され得ないだろうということです。この問題は、個個の固有性をもさらに超えた、強靱な論理の力がなければ、一歩もさきへなど進みはしません。強靱な論理……?  それは何でしょう?)
      
 それにしても、状況はそのはるか以前にあるようです。
 かつては〝学生運動〟も経験しながら、いまは家父長制権力そのもの(何度か別の場で言ってきましたが、これは男性の女性に対する生殖支配の原理にもとづいています。そしてこれは、どんなくだらない男にも、彼が雄性生殖細胞を所持しているかぎりは、最終的な逃避のシェルターとして利用可能な場でもあります)であるような家庭に埋没し、ちょっとした署名に名を連ねることすら、高校受験を控えた息子の内申点に響くのではないかと心配する主婦——。
 アカデミズムの末端の、そのまた外になんとか自分をつなぎとめたいとあくせくし、「上」から与えられる権威にはすべて跪拝しては、その提燈持ちを買って出る一方、情実と打算でセンチメンタルな教訓的・道学者的言辞を垂れ、批判をする対象を誤っているのではないかと感じさせるエセ・小インテリA(そうでもしていると、いまに原稿依頼のひとつも舞い込むかもしれないと思っているのかね?)——。自分からは状況を作り出そうとする力も情熱もなく、しかも他から与えられた恩恵的な機会には、すっかりその気になって、何か一言、他者を批判・否定はしてみたいエセ・小インテリB——。
 歴史的な加害・被害の関係の構造を見ようともせず、それに応じようとする(その実、どっちにつこうかと、内心びくびくもので右顧左眄している)、ひ弱な(その実、ふてぶてしく、打算的な!)哀れ〝大衆〟・〝民衆〟たち!
 ——その心性において、ただのひとかけらも、あれら〝記帳〟・〝自粛〟組の人びとと選ぶところのない輩が、時と所と言葉づかいによっては、あたかも〝進歩的〟な人間であるかのように装ってみたりすることも、存外たやすくできるらしい……。
 いまから200年前のフランスにその起源を持つとされる、血みどろの愚行をも繰り返した上で初めて得られた「民主主義」だ、「人民主権」だといった言葉が、この惨澹たる天皇制国家においては、いかにGHQが恩典的に与えてくれた張り子のオモチャでしかなかったかが、骨身に泌みてよく分かります。……まあ、もっとも、アヘン戦争もセポイの乱も経験することなく、アジア支配への道をやすやすと突き進んだこの国の粗野でがさつな野武士的・ヤクザ的近代史——世界観のすべてを、《プレジデント》の特集か何かで、戦国武将か、大日本帝国海軍提督か、プロ野球の監督に学び、その年のNHKの〝大河ドラマ〟の主人公が、きまって《養老乃滝》での〝歴史談議〟の中心人物になるようなサラリーマン(最近は〝ビジネスマン〟といわなければいけないらしい)が大手を振って生きている社会に——そもそもフランス革命など、どうでもいいことなのでしょうが。
 そして結局のところ、天皇・天皇制は、その歴史的経緯や現状での質にかかわりなく「ただ存在すること、それ自体が悪なのだ」という認識の明瞭な地点まで、この《戦後》にあってただの一度も到達することはなく、自らはある程度の軽侮と余裕、さらに少量の親しみ(!)をすらともなって、〝彼〟を——あろうことか——「天チャン」と呼びならわし、「気のいいおじいちゃんが手ェ、振ってるんや」とあっさり割り切って見せたつもりでいつづけたことによって、周到に、必然的に、不可避的に——現在を準備したのでした(とはいえ、しかも……それが無意識のものだったとは、私は決して思いません)。
 つねにつねに、《現在》という神の絶対性のもとに跪き、現状の権力・権益の構造を維持・温存・延命・強化しつづけることに関しては、最も有効な、圧倒的底力を見せるこの仕組み——。現在のなかの最も弱い部分をよりいっそう撤底的に痛めつけ、否定し……と同時に、強者に対しては、同様に徹底した幇間ぶりを見せて取りいることを賛美するこの仕組みは、現在の社会・現実のなかに少しでも居心地の良さを感じている人びとにとっては、なんと好郁合にできでかるのでしょう!
 思想家・著述家・文学者を標榜する人びとの大半が、この本質的問題に関してなんらのコメントをすることもなく、やすやすと、ぬくぬくと、いじましい〝人気〟と〝栄光〟とに包まれてその職能と生涯をまっとうすることができてしまうくらい、言語や思想、精神と魂が退廃しているこの国にあっては、いま言葉は瀕死の状態にあります。
      
 「一人の人間の終焉はそれなりに巌粛なもの」などと寝ぼけたことを言っているかぎり、「神」(であり、同時に《国家》主権である絶対者)の名のもとに行なわれた(る)いっさいは、最初から免罪・抹消されていることになります。こうした言辞が(他国の資源・労働力の上に)ますます繁栄しているから、この国にはふやけた労働祖合ごっことイメージ産業との、員数としての若者囲い込み合戦がつづくばかりで、ほんとうの《歴史》性といったものがないのでしょう。
 これは《輩語》前号で丸山邦男さんがいわれていることとも関係してくると思いますが、私の言い方は、その逆に聞こえるかもしれません。つまり、こういうことです。
 あなた方、そう言っている人びとよ——。あなた方は、そんなにもあっさりと、ろくろく考えることもなく、吐き気がするほど鈍感に、寛容に——彼〟を、また〝彼ら〟を、そんなにたやすく自分たちの仲間に加えてしまっていいのですか? 「人間」であると、まるでそれを自明のことででもあるかのようにそう規定する自らを——〝彼〟や〝彼ら〟と同じ次元におとしめてしまってもいいのですか?  一方で、本来、論ずる必要もなく、人間という概念が成立したときすでにそこに一義的に含まれていた人びと、その人びとのためにも、《人間》という、この最も普逼的な概念がまさに生まれた、その当の……〝被差別者〟・疎外された人びとをも、あなた方は〝彼〟を「人間」と呼ぶことによって、〝彼〟と同列の次元におとしめたことになる。それは「人間」に対する侮辱です。
 あなた方は———「人間」という言葉が分かっていないのではないか? その言葉のもつ恐ろしさ、その概念のもつ重さが、あなた方にはまったく感じ取られていないように思われてなりません。
 恐ろしいのは「神」などではない、「人間」なのです。もしそれがちゃんと理解されていたなら、〝彼〟について、「1人の人間が死に臨もうとしているとき……」などといった寝言は、「人間」という、このかけがえのない概念に対する、あまりのもったいなさに——おそらく、口が裂けても出てこないことでしょう! 「人間」をつねに絶えまなく浸蝕するものを、「人間」の敵を——「人間」などという言葉で呼ぶのだけは、やめたらどうだ?
      
 「全身をアンテナに1か月」「皇室門番記者の『つぶや記』」「1言に耳を集中」「動きに目をこらす」「『カラス』と呼ばれてるらしい」「安心したり『重さ』を感じたり」(以上、見出し)
 「……『カラス』と呼ばれているらしい。道端に黒い車をずらりと並べ、じっと門にへばり付いているからだろう。原稿を1行も書かずにただ目を凝らす。しかし、この姿勢があったからこそ、明らかになったこともある。かすかな情報の積み重ねが大きな変化を知る手がかりになると信じて、1羽のカラスになっている。」(朝日新聞・1988年10月19日付・第3社会面)
 〝情報〟……? その実、宮内庁が(実は、さらに高度な政治中枢が)握りこみ、そしていつでも好きなとき、民心操作のため発表できる〝餌〟にすぎないそれを、自ら学問的発見ででもあるかのように祭り上げ、その1翼をにない、片棒を担ぎ、結局のところ、自分たち自身を特権化している、この貧しい意気がり、安っぼい身のやつし! 「1羽のカラスになっている」?!〝進歩的(?)ジャーナリズム〟を自称する者たちの、こうした抜きがたい心情、斜に構えたナルシシズム(『大利根月夜』とか、『潮来の伊太郎』『旅笠道中』とかなんとか、それこそ、旅ガラス物のテーマソングでも聞こえてきそうだ)は、一体いつ、始まったものなのでしょうか。
 しかし、むろん新聞をはじめ、こうしたいっさいのジャーナリズムは、それを(積極的にせよ、消極的にせよ)支える〝大衆〟の支持を自らのアリバイとするに違いありません。そして事実、いまこの国で、消費社会の1ファクターとしてでなく、個個の問題に対する全人的な姿勢をもった個人の存在は、きわめて見えにくいところに隠蔽されてしまっているようです。
      
 そもそも私たちが生まれ、いまも生きているということそれ自体——実はあれら多くの死者に対してみるとき、とりもなおさず〝生き残っている運の良い人びと〟であるともいうことができます。そして、それはそれだけでは、偶然の結果としての曖昧な立場にすぎません。
 人間がひとりひとり、1度しか死ぬことができないのと同じように——それは残念ながら明白な事実です。それどころか、あらゆる死者たちもまた(少なくとも、日本人の死者に関するかぎり)、彼らは死んだことによって、もはやこれ以上、あやまちを犯さなくて済む位置に祭り上げられている人びとにすぎず、ほんの偶然でたまたま生死の境目が逆になれば、彼らもまたすんなりと、かつて、またいまもなお「過ち」を犯しつづけている人びとと同じ側についていただろうことも。少なくとも、《論理》にまでいたりつかない、「人間」の《論理》にまでいたりつかない、おのおのの自己特権化に依拠しているかぎりは——。
 南京でも、ヒロシマでも、アウシュビッツでも、ベトナムでも、水俣でも、チェルノブイリでもどこでもかしこでも、人間の人間による死が、それを「無駄にしない」といった教訓的消耗品として、功利主義的に崇められているかぎり、逆にこれら不当な死は永久になくならないでしょう。いま自分が生きているという事実さえ、その吐き気のするような恐ろしい切実さでとらえることのできない人びとが、自分たちをも、そして彼らより、さらに苦しんでいる人びとをも道づれにして、すべてを滅ぼそうとしている……。 
      
 遠藤さんがしばしば引用される山代巴さんには、私も先日お会いして、巨きなエネルギーをいただいてきました。その戦前の個人史においても、自身の生き方を恥じる必要のない、数少ない(ほんとうに、ほんとうに数少ない——) 日本人のお一人です。
 さて、その山代さんですが、あの15年戦争の終わり、和歌山刑務所を出獄後、ほどなく敗戦を迎えられた時点での彼女は、考えてみるとちょうどいまの私と同じ、33歳です。《戦後》という時代(なんだかんだいっても、それはこの九月の半ばまで、息も絶え絶えにつづいてきたと私は考えていますが)の始まりは、いま、その断末魔の喘ぎの地点から振り返るとき、私にとってはすでに「神話」の領域に属し、その明るさは眩ゆいほどです。
 初期日教組活動家の若い教師あたりが、窓辺にもたれ「さあ、みんな……」とか言って学級文集作りの呼びかけでも始めそうな、あるいは年代物のガタのきた拡声器からハウリングまじりにフォーク・ダンス用『オクラホマ・ミキサー』でも流れだしてきそうな——。そんな、〝青空のように透明な上昇〟とは、むろんその後の山代さんのたどってこられた、つねにこの日本の辺境を歩もうとされてきたようなプロセスがほど遠いものであることは、重重、承知しているつもりではいるにせよ——いまから始まろうとしているのが、どこまでの、どれほどの下降となるのかは、私自身、ちょっとまだ見当もつきません。
      
 これからの状況は、ある種の人びとにとっては(むろん、絶対的少数派です)暗澹たる下降——なまじ理念としては《戦後》そのものを背負ってきただけに、なまなかな敗北では済まない、知力・精神・魂のすべてを動員し、自己の全人格・全存在を賭けた凄惨な戦いとなるでしょう。いずれも不十分なものにしろ、憲法や参政権、また市民運動といったものの経験を踏まえてきたあとの私たちの状況への対応は、戦前のそれのように一部尖鋭なマルクス主義者やアナキストたち、またある種の人道主義的文化人たちだけが抵抗したといったものとは、やはり少しは趣を異にしてくるような気がします(それすら、あっさりできなくなるような展開というものも、また大いにあり得ますが……)。
      
 従来は、社会一般にはたとえば《貨幣》といった形式でしか、普遍的な力は(少なくとも表面的には)現われてこなかった国家暴力が、これからは大手を振って、警察的・物理的な暴力そのものとして、直接に猛威をふるってくることでしょう。町内会はやすやすと武装し、町内会費・秋祭りの寄付の取り立てにすらも、印袢纏にゴム草履の煙草くさい中年男たちによって、鳶口や竹槍、日本刀が携行されることでしょう。未払い者は、頭を割られて、墨田川に棄てられるでしょう……。
 かつて他民族であることを理由に虐殺された死者たちと同じ死をも甘受する覚悟をもつことだけが、ある種の人びとに今後、残された途となるかもしれません。端的にいえば、《国家》に疑議を呈する者、あくまで《個人》であろうとする者にとっては、いまから始まる時代、ついに完成した超天皇制国家・日本に身を置きつづけることは、それ自体《地獄めぐり》以外の何物でもあり得ません。
 《地獄めぐり》——。そう、このいかにも安易にも響く言葉を、しかし私は自分と、自分の同行者たちとのきょうからのために、どうしても使わなければならないような気がしてならないのです。なぜなら、「地獄」とはもちろん、この世にしかない、人間と世界との関係の、ある絶望的な状態のことを指すのですから。
      
 ……そして、私は?
 そう、私は——超特大状況に対してにせよ、大状況に対してにせよ、中状況に対してにせよ、小状況に対してにせよ、微小状況に対してにせよ——結局のところ、いかに自分自身の「生」「死」をまっとうするかしかないという思いを、いま、いよいよ深めつつあるところです。〔以下次号〕

1988年12月24日に開催された「大下血コンサート」ポスター

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新連載 数学と自由 湖畔数学セミナー

永島孝(数学者)

第1回 〝スパイ〟と言われ、学校へ行かなくなって……。
 
 数学は本当は面白いのだが、数学の嫌いな人が多い。本誌第1号の「時間を返せ」にあるように、人間はものを考えたり意見をもったり知識を求めたりするのがそもそも好きなのだが、たいていの学校はそのすべてを嫌いにさせてくれる。数学が嫌いだという人は、考える楽しみ、知る喜びを奪われてしまっているのだ。
 幸いにして嫌いにならなかった私の経歴から述べよう。太平洋戦争のとき、私たちの一家は長野県の野尻湖畔へ早々と疎開した。母方の祖母は祖父と結措してアメリカから帰化したので、母も私たち兄弟もいわゆる混血である。1942年、国民学校に入学、小学校が国民学校と名を変え、子供たちが少国民と呼ばれた時代である。片道2キロの道のりよりも、貧しい食べ物よりも、「あいのこ」といじめられるのがつらかった。休み時間には上級生の暴力におびえ、鐘が鳴のをひたすら待っていた。弁当をひっくり返され、空き腹をかかえて帰った日もあった。
 いつか永島の家は敵のスパイをやっているという流言飛語が流れ始め、ついには「無線機でアメリカと通信しているだろう」と警察に踏み込まれた。学校では「スパイ」とののしられ、殴られたり突き飛ばされたりして、頭痛を起こしては寝込んだ。欠席が多くなって三年生のおわりには落第。このとき、学校にはもう行くまいと決心したのを父母は快く認めてくれた. 1945年に父が海軍に召集されたが、そのうちに「広島に新型爆弾」という小さい記事が新聞に出たりして、まもなく日本は戦争に負けた。しかし、アメリカが敵でなくなっても相変わらず「あいのこ」などと言われるので、学校に行く気にはならず、家事を手伝いながら好きなことだけを勉強したりしていた。
 父が復員したときのみやげが嬉かった。軍隊でちり紙の代用に支給された古雑誌の中から面白そうなのを、算術の好きな私のために残しておいてくれたのである。表紙と一部のベージの失われた、旧制中学生向けらしい数学の雑誌が三冊あったと思う。これを読んで代数を覚え、連立方程式を解いたりして、大いに楽しんだ。学校で暴行されて具合の悪かった股間接が痛みだして歩けなくなり、ほとんど寝たきりになった数か月間も、数学に慰められて耐えていた。
 戦後8年を経て、認定試験で上水内北部高等学校の定時制の分校に入学を認められ、さらに長野西高等学校の通信制にも入学して併修することになった。進学とはほとんど無縁の農村定時制と通信制で、働きながら学ぶ人びとに囲まれ、励まされながら学んだ日々の思い出が、今も仕事の励みになっている。高校で勉強が嫌いにならず、幸いにますます好きになって、差別に苦しみながら学んできた私は救われた気持ちであった。
 数学を愛し続け、専門家になれたのは幸いだと思う。それは、理解ある両親、学問の魅力を教えてくれた高校の先生、その他の人たちのおかげである。
 さて、今の学校を見ると、数学の成績が人をふるい分ける目的に使われている。数学ができれば理科系へ、できなければ文科系へ進ませる。数学の試験の点数が低い人は頭が悪いと決めつけることさえある。点数と頭の良さとはまったく別のことなのに、こうして選別の手段として用いることが、数学嫌いを作り出している。数学を差別の道具にするのは許せない。
 数学を好きにさせるのも嫌いにさせるのも、教師の責任が大きい。実は、教師個人の責任ばかりでなく、政府の責任がさらに重大なのだが、主権在民の民主制度を認める限りその政治の責任はわれわれ人民にあるのだから、1億分の1の政治責任は決して0ではないことを自覚せねばなるまい。
 文部省の政策、例えば教科書検定が数学を非常につまらないものにしてしまう。考えることこそ数学の魅力なのに、生徒に深く考えさせるような練習問題は教科書に書けないそうだ。覚えた公式をただ機械的に適用してみるだけの問題なら通すが、自分の頭を少し使わせるような問題は削除する、というのが検定の方針らしい。
 学校でも無批判にこんな考え方を受け入れているのではないか。そして親までもそんな学校を絶対視しているのでは子供は救われない。試験の点数の上がり下がりに株価みたいに一喜一憂するよりも、親子が一緒にものを考えてみる方が心が豊かになって楽しいはずだ。
 歴史が年代の暗記と誤解されても、数学は「暗記もの」ではないと考えられていたのだが、近ごろは数学までが公式や解放の暗記になってしまった。自由に考えるということが生徒にどれほど許されているのだろう。公式に数値を代入して計算するだけなら計算機のほうが人間よりよほど速く正確にやってくれる。人間を機械の代用品に育てるのは教育ではない。
 機械にできるようなことだけの勉強では面白くないのは当然で、数学は人間味のない冷たいものという誤った印象を与えてしまうことになる。数学に必要なのは理性だけで、感性は不要だという誤解が生まれる。数の体系は宇宙よりも大きく、神秘にみちている。壮大なその体系の美しさに感動する心がなければ数の本質は埋解できないのだ。自由に考える喜び、知る楽しさ、美に感動する心をわれわれの手に取り戻そう。(つづく)

◆永島孝(ながしまたかし)/1935年生まれ。一橋大学教授。数理論理学専攻。東大和市在住。母方の祖母がアメリカ人のため、戦争中は疎開先の長野県で、迫害され、小学校を三年で中退する。

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『蜚語』第5・6合併号42ページ

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《ふりかけ通信》第8号

勝手な〝認知〟ができてしまう制度は、男基準の制度だ。
 これだけ戸籍の問題がクローズアップされているのに、認知制度については、まだあまり知られていません。大半の人は、子の認知に、その子を産んだ女性は全く関与できないことを知らないでしょう。しかも、認知制度は女性と子どものためにあると思い込んでいます。
 しかし、認知届の用紙には女性が判を押す欄はないのです。ですから、その子を産んだ女性が全く知らないうちに、男性から認知届が出されていたなんてことだって起こってしまうわけです。これを取り消すためには、「親子関係不存在」の訴えを、裁判所に申し立てるほかありません。最終的には、血液検査などをやるらしいのですが、こんなばかばかしい話はないと思いませんか。
 婚姻制度や戸籍制度に関する疑問から、制度に対する批判は、現実に自分が実践しなければ意味をなさないばかりでなく、制度そのものを支えてしまうと考え、婚姻届も認知届も出さない生き方を選ぶこともあります。
 しかし、相手の男性が、最初はそういった生き方を認め、合意の上で同居をはじめたにもかかわらず、いざ、子どもが生まれたら考えを変え、産んだ女性を説得できなくても、女性が知らないうちに、子の認知届を出すことが可能です。婚姻届や離婚届は受埋しないで欲しいとの届け出(不受理申し立て)が出来ますが、認知届にはその制度すらないのです。
 例えば、ある男性が未婚の母に結婚を迫ったとします。しかし、女性のほうにその意志がなく断られた腹いせに、その女性の子を勝手に認知することも出来てしまうのです。しかも、それを裁判で無効にするのは容易なことではありません。認知に関して、〝子に対する男性の責任〟として経済的保証をあげる人がいますが、子の養育にあたっての経済的保証を、認知に頼らなければならない社会なんて、いいわけありません。とくに裁判による強制認知なんて、自分と子どもを省みない男性からの金で暮らすことほど屈辱的なことはありません。認知制度なんて、子持ちの女性が働いて生活することが困難だったり、福社の貧困さを補完しているにすぎません。
 これでも認知が女性と子のためだなんて言えますか?
 認知は嫡出でない、つまり、法律上の父親のいない子に法律上の父親を確定するものです。実際にそうかどうかなんてことは問題じゃないのです。なぜならば、子の父が誰かなんてことは、産んだ女性にしか分からな
いし、もし複数の男性と性的関係があったら、その女性にだって分からないことでしょう。
 ——それとも、セックスするたびに、日時と相手を届け出ますかね? それでも確定は出来ないと思うけど……。
 例えば、法的には離婚が成立していないが、事実上夫婦とはいえない1組の男女がいたとします。妻が夫以外の男性の間に子を産んだら、生まれた子は、それぞれが否定しても、夫の子とされてしまいます。夫と妻以外の女性との間に出来た子は、法的には、男性が認知すれば姓の違う父親がいることになるし、認知しなければ父親はいないということになります。 生まれた子と父親の関係なんてそれくらいいい加減なものなんです。
 それを、相手の女性が制度も含めて否定しているのに(自分も同意したふりをし、それによって〝進歩的〟な男性像を演じてきつつ、後になると)、「俺の子だ!」とわざわざ届け出ることほど人間の尊厳を傷つける行為はありません1人の人間が社会に対して行った行為を、私的レベルに落とし込め、無にしてしまうようなことは、その闘いに対する、もっとも悪辣な敵対です。
 指紋押捺拒否をしている在日外国人に対して、押すことを強要するのと、まったく同じ行為だと思います。
 母子関係は〝生まれる〟ということによって発生し、これだけは生物的学関係としてひたすら神秘化され、子どもをかわいがるのは〝女性の本能〟だとかいわれ、一方、父子関係は、あくまで法律上の、社会的な関係として規定されています。そもそも関係の質が違うのなら、民法では対にして規定していること自体がおかしいのです。しかも、争いごとが起こったときだけ血液検査をやって、生物学的に決定しようという矛盾を乎気でやるわけです。
 中国残留孤児といわれている方がたが、別れたときの状況や「父親」の〝直感〟で、親子だと思っていたのが、厚生省の勧めでやった血液検査の結果、違ったということがありました。こうしたとき行なわれる血液検査に、なんの意味があるのでしょう? 「早く鑑定の結果が出て、お父さんと呼びたい」との報道の中では、あたかもやっぱり親子は血緑との印象を受けますが、そこに孕まれている金銭的な問題は、決して報道されません。おそらく、遺産相続などさまざまな問題が絡んでいることも、このような結果を招いた戦争と国家への批判として取り上げて欲しいものです。

1988年当時の認知届出用紙。多少の枠の違いはあるが、現在とほとんど変わりはない。

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嫁不足って何?
 「
どこか身をよせて、安心して出産が出来るところを知りませんか」と、友人から電話が掛かってきました。なんでも、男に逃げられ1人で子どもを産もうと決心している女性を、かくまってもらえるところはないかというのです。
 妊娠8か月になって、最初は「堕せ、堕せ」と迫っていた男の親が、いよいよとなったらこんどは「子どもだけをよこせ」と言いかねない態度で、不安だということです。
 『おしん』の時代じゃあるまいし、そんな馬鹿な! ……と思いますが、これは今日、この社会で現実に進行している事実です。子に対するこの男の親の態度こそ、女を「家と血」を存続させるための物としか考えていない典型です。おそらく生まれてきた子が男か女かによって、この男の親の態度は、また変わることでしょう。
 その昔、とくに農村では、嫁は労働力と子産み道具でした。今は? 「違う」と、誰が言えるでしょうか。
 最近〝嫁不足〟という言葉をよく聞きます。まるで水不足・米不足のようにやすやすとこんな言葉がまかり通る社会に、「私が私として生きる」場があるのでしょうか。
 「お嫁においで! まごころ秋田」なんてのぼりを立てた〝トラクター・デモ〟をやった記事が、「The Japan Times」に掲載されましたが、いったい〝まごころ〟ってなんでしょうね。
 この青年たちは、原宿から渋谷までデモをしながら、〝集団見合いパーティー〟ヘの参加ビラを、配って歩いたそうです。
 東南アジアヘの〝嫁探し〟が問題にされているなかで、農家の長男の母親日く、「脱ぎ棄てられた仕事着を洗いながら、着替えて遊びに行った先を思うとふびんだ」と。どうも行き先は、〝ソープランド〟のごときものらしい。
 冗談じゃないよ、まったく!
 「嫁」には、労働力と子産み以外にも、役目があるようですね。それにしても、こういう母親には反吐がでる。

『蜚語』第5・6合併号47ページ

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【編集後記】

『蜚語』第5・6合併号 裏表紙

【2022年の編集後記】

▶︎1988年からすでに34年の歳月が経ち、この年も終わろうとしている。34年前の12月24日、一切のイベントが自粛されるなか、私は友人たちと、東京・目黒区で「大下血コンサート」と銘打った音楽会を開催した。
▶︎この当時、あるセミナーのテーマに「天皇は神か、人間か」というものがあった。この設問をされると私は決まって思い出す映像がある。昭和天皇がソフト帽を振って歩く姿の写真だ。
▶︎その写真を前にして、〝勝手に人間になるな〟と私はいつも腹立たしい思いをする。絶対不可侵の神として君臨し、人びとを従えてきたくせに、戦争に負けたら、命惜しさに〝人間宣言かよ〟ふざけるな! 私はお前を人間とは認めない。
▶︎「ふりかけ通信」がテーマとしている戸籍に関する問題は、今日では「同性婚」や「性自認」・「代理出産」のことも、俎上に上がっている。これは、あらためて、取り上げ言及していきたい。
▶︎「代理出産」に関しては、〝血縁〟なるものをどのように考えるかも、問われる。
▶︎「認知届」は、胎児認知の場合は母の承諾書が必要。成人の場合は本人の承諾書が必要。裁判認知の場合は審判又は判決の謄本及び確定証明書が必要とあるが、未成年の認知に母の承諾が必要とは、どこにも記載がない。
▶︎「数学と自由」を連載していただいた永島孝さんは「野尻湖に生まれ育った」と記しましたが、「生まれは神田三崎町、その後、兵庫県西宮に移り、6歳のとき野尻湖へ引っ越しされました」。現在も、多摩湖畔にお住まいで、87歳になられました。


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