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マイナスの感情に蓋をしたくない(自助研究③)

2-3週に一度、職場の福利厚生のカウンセリングを継続している。
本日のカウンセリングで、わたしの生きづらさの根底に関わる、とても大事なことに気づいた気がするのでここに残しておく。

なかなか助けを求められない

自分にとって全く取るに足らない浅い悩み、それから本当に心が折れる限界の限界なら人に相談して助けを仰ぐことができる。
でもその中間、それなりに深刻で時間に猶予のある悩みとなると、「話して解決が得られるとも思えないし、話すことで時間を取った上暗い気持ちにさせてしまうかもしれないし、友達に相談するのは何か違うかも」と感じてしまってなかなか人に相談できない。
ほんとうに切羽詰まった時に助けを求められる友人はいるが、その友人との時間はできるだけ有意義で楽しいことを話す時間であってほしい。しんどいことは結構多いから、「またしんどい話か…」とうんざりしてほしくない。大切な友人にとって「いつでも話したいと思える人間」であることを失いたくないから、笑い飛ばせない、中間層の悩みの話がなかなかできない。

そう言うと、「お友達から愚痴や相談を受けたことはなかったですか?」と訊ねられた。
そういえば愚痴や相談が多い友人が一人いるが、その子と接するのが正直しんどく感じている、同じ思いを他の友人にさせたくない、と感じている。
「なぜしんどいと感じるんでしょう?」
なぜだろう。わたしは辛いことがあっても、なるべくものごとの良い面だけを見て、心を明るく保つように心がけている。その努力ができていないことにもやもやしてしまうのかもしれない、と伝えた。

マイナスの感情を無視してきた

振り返れば、わたしがものごとの明るい面ばかりを見ようとするのは、幼い頃から親に酷い言葉で存在を否定され傷つけられ続けて、それでも未来に希望を持って生きるための生存戦略だったように思う。
「そんな言われ方をすると悲しい。こういう風に言って欲しい」と、(わざわざ伝え方の勉強までして)親に何度も伝えても改善されず、ますますひどい攻撃に晒され続けた。
それでも、十分な栄養と教育を享受するためには親元で庇護されていなければならないと思っていたので、ただ耐えた。
まっすぐな心を保つために、無理やり明るい面に目を向け続けた。

そしてその結果、わたしは人間関係の中でなにか不快なことが起きた時、感情ではなく事象にフォーカスを当てるようになった。
わたしに不快な思いをさせたその事象に対し、感情が湧き上がるのを一旦フリーズさせる。フリーズさせている間に、その事象の何が私を不快にさせるのかを分析、改善案をいくつか出して相手に伝えることで、大体の問題に対してはうまくやっていた。
改善方法が思いつかない、あるいはどうしようもないことに対しては、我慢を重ねて抑圧した感情を溜め、それを勉学などで昇華していた。

とにかく、不快な事象に対し、いったん感情を脇に避け、無理やり建設的な方向に自分を持っていくのがわたしの常套手段だった。

一人の時はそれでよかった。不健全ながら、問題は生じていなかった。
しかし初めて心から安心できる恋人ができたとき、願いを伝えても改善されない憤りを、限界を超えた感情を、何かに昇華させることができなくなり、噴出するまま相手にぶつける以外の方法がとれずに破局した。

このままではいけないと思うようになったが、負の感情の抑圧は反射的に行っていることで、どうすればよいのか全くわからなかった。

これから

「そうしないと生きてこられなかったんですね。でも、つらい気持ちって、本来は無視するものではなく、大事なものだと思うんです。いまはもう安心してマイナスの感情を受け止めても大丈夫だと思いますよ」
そうカウンセラーの方に言われて、そうだな、と思い、でもまだお腹のあたりがこわばって安心しきれないことに気づく。
頭ではもう大丈夫だとわかっていても、納得感がない。体に染みついた恐怖が離れてくれない。

でもこの対話を通じて気づいた。
友達の愚痴を不快に感じてしまうのは、つらいことに対し、できうるかぎりの全てを使って対処したり、むりやり明るく変換したりせずとも生きてこられた来歴に嫉妬していたのかもしれないということ。
それを考えると、普通の人は悩み相談を受けてそこまでつらくなることはないはずで、わたしはもう少し人に助けを求めてもいいのかもしれないと思った。

また、「思考方法の改変が身体のせいで阻まれている!これは身体からなんとかせねば」と感じたので、身体からアプローチする心理療法も予約してみた。

これからどうなるかな。もっと前向きで、身軽なわたしになれるといいな。

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