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「山月記」李徴のカルテを作ってみたー統合失調症と捉えての医学的考察

親友と「山月記」の話をした。

山月記。
唐の時代の中国を舞台にした小説である。
清廉で優秀、前途洋々であったはずの青年・李徴が、失意の中で虎に変わり果ててしまった己の身の上を偶然通りかかった親友の袁傪に語る、という形で物語が展開される。

幻想的だが悲しい話だなあ、やりきれない気持ちが残るなあ、と二人でしみじみしていたのだが、ふと「もし語られるままの物語ではなく、李徴が人の姿のまま話をしているならまた別の怖さがあるぞ」という話になった。
その視点でもう一度読み返すと、李徴の語った来歴が統合失調症患者のそれと酷似していることに気がついた。

何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。

山月記(中島敦) 青空文庫 一部抜粋

要約すると、李徴は、生まれながらの才能に恵まれたにもかかわらず、臆病な自尊心と尊大な羞恥心を適切に制御することができなかったために逃避的な怠惰に耽る日々を過ごした。その一方で、己の才覚が評価されないことに悶々としながら徐々に社会との交わりを絶っていった、ということである。

さて、現在の疾患分類尺度であるICD-11が採用される1つ前、ICD-10では、統合失調症は主に破瓜型、緊張型、妄想型の3類型に分類されていた。
このうち妄想型でよくあるストーリーは、ざっくりいうと「生来真面目な人間が鬱屈した生活を送り続け、引きこもりの末、30歳前後で誇大/被害妄想を主体とする統合失調症を発症する」というものだ。
まさに、という感じではないか。

袁傪という冷静な第三者が虎の姿を見たという事実を一旦除き、この話についてただただ医学的に病歴をとるなら以下のようになるであろう。

ーーーーーーーーーー
患者氏名:李徴

主訴:
『肉体が虎になってしまった』『人間である時間が日に日に短くなる』『詩作で名を馳せたいが虎なのでできず、悲痛な気持ち』

現病歴:
年齢不詳、30代男性と推察される。妻子あり。生来真面目で頑固な性格。成績は常に上位。大学卒業後江南尉に就職したが職場の雰囲気に馴染めず離職。元々の夢であった詩人を目指すも金銭的な事情のため断念し、地方官吏に再就職した。再就職先では常に人間関係のストレスに苛まれていた。x-1年、出張先の汝水にて「深夜に自分を呼ぶ声に従って外に走り出したら身体が虎になった」。以後山野に起臥し、行方不明となった。
本人曰く、行方不明とされていた間は、野外にて虎として動物を襲って食べたり、人間として「虎として行った」行為を顧みたりしていたという。なお、大学在学中から現在(x年x月x日)に至るまで、「詩作によって後世まで名を残す」ことに強い執着を見せるが、特に誰かに師事したりサークルで交友関係を築いたことはない。

既往歴:不明(おそらくなし)
家族歴:不明

内服:なし
生活習慣:不明

評価(ICD-11に基づく):
・妄想あり(1年間持続)
・著しい統合不全あり(虎として振る舞い、人の意識を保てない時間がある)
ーーーーーーーーーー

この病歴を精神医学の立場から俯瞰すると、「ASD傾向のある高IQ者が上手く周囲と馴染めず、また自己イメージの理想と現実の乖離に失望して抑うつ気分を生じているところに、ストレスの多い環境がトリガーとなり統合失調症を発症した」というストーリーが浮かび上がる。

そもそも統合失調症の発症メカニズムとして現在最も有力とされているのが、「前駆症状である妄想気分を下支えしているのが環境にある刺激のセイリエンス(例えば五山送り火の光や隣人の笑い声のような、日常のバックグラウンドにある情報が視覚・聴覚を刺激する強度)の高さであり、その人物を取り巻く環境のセイリエンスが高いほど妄想に入り込みやすい」という仮説(異常セイリエンス仮説)である。
やや強引かもしれないが、発達特性(ASDによる知覚過敏)をベースとして、慢性的なストレスによって相対的に本人の周囲のセイリエンスが高じていた、という背景を想像すれば、このストーリーはこの仮説を満たすと言えるのではないか。

李徴は、統合失調症を発症するべくして発症したのである。

なお、現代日本においては、「己は次第に世と離れ、」の時点で医療介入が可能である。
社会適応上の問題を伴っていることから治療の対象となる。
この時点では妄想を認めないためうつ病と診断されるであろうが、継続的に診察を受けることで適切な治療に繋がった可能性はある。
しかしながら、李徴が「自作の詩が鳴かず飛ばずで既に自尊心が傷ついているのに、精神疾患だなんて……これ以上自己イメージの低下につながる事実は到底受け入れられない」と感じ、初診以降外来に足を運ばない可能性も大いにある。

早期に介入するほど予後は良くなるのだが、その時点で自傷他害の疑いのない者を無理やり治療することはできない。難しいところである。

この仮想李徴を軽症のうちに寛解に導くには、

・「この状態は病気だ」という認識が広く認知されており
・病気は治療で治るということも広く認知されており
・病識のない李徴を根気強く医療に繋げようとする者がいる

ことが必要だ。
うーん、かなりハードモードである。
現代日本に於いても彼は虎になるしかないというのか…。

《参考文献》
山月記(中島敦)
統合失調症(村井俊哉)
文化精神医学入門(荻野恒一)
日本医師会 生涯教育シリーズ103 精神疾患診療

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