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家族の話。

こんにちわ。皆様いかがお過ごしでしょうか。寒い日がまだ続きますがお風邪をひかれませんようにお祈りします。

 さて私の実家でのお話なのですがあまり良い記憶が無くて、思い出したくても思い出せない、お母さんが出て行ったことのショックで恐らく自分の記憶がシャットアウトされてしまったんだと思います。
世間で実家の味とか独自のお料理とか全く記憶に残っていなくて何がお袋の味なのか想像すらできません。また、子供の頃の写真とか、もしかして時代的に無かったのかとも思いましたが、それは無いと言うことは分かります。でも写真が無い。消されたように存在感がない。程なくして新しいお母さん登場してきたのだけどもちろんご飯やおやつは食べていたのだけど決め手になる記憶が全くない。

記憶にあるのは毎日おやつと称したお爺ちゃんから送られてくる大量のパイナップルの砂糖漬けのようなもの、各種シーハーチョコ、何とかサンダーギー、あの丸っこい油で揚げたやつ、これが日替わりで来る日も来る日もおやつと称する拷問の始まり。当時お爺さんは沖縄に住んでおり、日本のために沖縄戦で戦ってくれた軍人だった。

そして一つ上の姉、そう、後で殺人的暴力的なバイエル攻撃してくるピアノ姉さんである。何かといつも比較され、小学生で私は理科、姉は学習(小学館の毎月の小学生の趣味の本w)姉は地元で一番の高校、私はそうでもないとこ、、ま、仕方ないかくらいに思っていた。

そして弟。今だに記憶に残っていない。何かしら有ったとしても私のことを見ていたので上手くかわすというか、スッと存在を消す忍者のような存在だった。あまり兄弟で話し込んだ記憶がない。

 新しく就任した新しいお母さんと言われる存在の人は、後で分かったことで、なんと私と仲が良かったK君の幼稚園の先生だったらしい。
その後、新しい兄弟がポコポコ出現するのだが、まぁ、私は邪魔な存在のようで何かと目の敵のような陰険な扱いになっていった。

この頃から親父の暴力がこちらに向けられた時期でもあった。
事あるごとに正座させられ竹で出来た物差しで太ももや背中をバシバシ殴られるようになった。殴ると言うより鞭と表現したほうがしっくりとくる。
パシッ!とジャストミートするとたちまちみみず腫れを起こし、熱く激痛が襲ってくる。それを何発も受ける訳で、最初は泣きながら悶絶していたがある時からこれは何かの夢なのだと思うことで現実逃避することで命を守るという自己防衛本能が働いていたのかもしれません。

このことがほぼ毎日の日課で今思い返すと完全にPTSDになった。そして全て記憶から消すと言う作業に移る。今でも何かピンチなことが有ってもなぜか意味なく楽しくポジティブシンキングなのは完全に後遺症。
そして、ある時にふっと頭をよぎったことがある。

皆様、わかりますか。

毎回、竹の物差しがバキバキに裂けて捨てていたにもかかわらず気づけば新品のものに変わっていたこと。もう辞めたってと言いながら次の日には新しいのもが家にあるという悪夢。
唯一覚えているのがクリスマスのプレゼントで枕元に吊るされていたのは「イワンのバカ」という本。おまけに3日以内に感想文を書けという完璧な嫌がらせだった。強烈な思い出だ。

新しい兄弟たちは何かと優先順位があり、私は小遣いすらもらえない、正月のお年玉は完璧に回収され、先の見えないとてつもない絶望感の中で生きていた。そんな中で唯一の逃げ場が学校だったのだ。

 いつも家にはデカい外車か高級セダンがあって、近所の同級生からはお金持ちと言われてたが「何も知らねーくせに」と思っていた。
その車が少し汚れてくると必ず手洗いさせられる。それも 一人で。
雪が舞ってる時でも手が死ぬかと思う時でも手洗いさせられてガソリンをドラム缶から給油させれていた。何回泣いたかわからない。

まだまだ書き足りないが真剣に書き出すと何文字になるのか想像すらできない。全て吐き出しちゃうと逆に自分の心のタンクが空っぽになってしまうかも知れないという恐怖と戦っている側面もある。

このくらいにしておこう。

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