「狐と祭りと遊び上手と。」第二話
牛車はゆっくりときつね町の中へと入っていった。
道の途中、活気溢れる市のような場所があった。彩り豊かな旗や提灯が風に揺れ、町に優しい賑やかさをもたらしている。
一つしか目のない男の子や、首がとても長い女性など、明らかに人ではない者たちがそこには居た。――妖怪だ。彼らは美しく彩られた着物や不思議な装飾品を身につけ、品々を売りに出している。商売をする声や交流する声など、楽しいお喋りが聞こえてくる。
(妖怪も日本語を喋るんだ)
小珠は実物の妖怪たちを見て驚いたが、妖怪たちの方も牛車が近付いてくることに驚いたようで、小珠の隣にいる空狐を見た途端頭を低くして静かになった。一瞬にして市がしんと静まり返る。皆平伏し、空狐たちが通り過ぎるのを待っている。彼らは空狐の存在に怯えているようにも見えた。
――きつね町の統治者。妖怪たちの態度を見るに、それは確かなようだった。妖狐の一族はこの町にとって特別なものなのだろう。
しばらく行くと細かな石畳で舗装された道が現れた。その近くを小川が流れており、澄んだ水の中で色とりどりの鯉が泳いでいる。
小川を渡った先に、大きな屋敷が佇んでいる。道には細かい砂利が敷き詰められていた。
「到着しました。ここが我々の屋敷です」
空狐に手を引かれ、牛車から降りる。歩く時は必ず手伝わなければならなかったキヨを手伝おうと振り返るが、キヨは随分と軽やかに牛車から降りて歩き始めた。小珠は唖然としてしまった。
先を行くキヨを追いながら、こんなに立派な家があるのか、と屋敷を見上げて少し気が引けた。大きな門、その両脇には燈籠があり、門を潜れば広々とした庭園がある。朱塗りの屋根が青い空と重なって鮮やかに映え、屋敷の美しさを一層引き立てていた。
履物を脱いで上がろうとすると、待ち構えていたかのように真っ白な着物と真っ黒な着物を着た長身の男二人が立っていた。どちらも狐目で、髪色はそれぞれ銀色と金色。双子なのか全く同じ顔、同じ背丈をしている。髪の色と着物の色が違うこと以外、見た目の違いはないように思えた。
「ようおこしやす~。小珠はん」
「ほんまはもっとはよう会いたかったんやで。迎えに行くんおそなってごめんなあ」
二人とも声まで同じだ。喋り方には小珠の聞き慣れない訛りがある。
「ちゅうか銀狐、小珠はんは自己紹介せんと俺らのこと分からんのとちゃうん?」
「ああ、せやせや。俺は銀狐」
「俺は金狐ですぅ」
順番に挨拶された。髪が金色の方は金狐で、銀色の方は銀狐。分かりやすい名前だ。
「私は、小珠です……」
「知ってます~」
ぺこりと頭を下げた小珠に対し、銀狐はからからとからかうように笑った。そして、意味ありげな視線をじろじろと向けてくる。
「それにしても、玉藻前さまの生まれ変わりっちゅうからどないなド美人やろって期待しとったけど……案外乳臭い子ぉやなぁ」
「それ俺も思たぁ。思とったより普通の子やね。拍子抜けやわ」
「――金狐、銀狐。無駄口を叩きに来たのですか?」
空狐の冷たい声一つで、ひんやりとした空気が漂った。小珠を馬鹿にしたように笑っていた金狐と銀狐は空狐の言葉で黙り込み、はは、と誤魔化すような笑い方をした。
「冗談やんかぁ」
「堪忍な、空狐はん。俺ら珍しいからからかいに来ただけやねん。もう退散するわぁ。天狐様は奥の部屋で待っとりますよ」
ひらひらと手を振って、足音も立てずに去っていく金狐と銀狐。小珠がその背中をぼんやり見つめていると、隣のキヨが腹立たしげに文句を言った。
「なんだい、嫌な若者たちだね」
「彼ら、貴女よりは年上だと思いますよ。キヨさん」
妖怪は人間よりも長生きである、と聞いたことがある。金狐と銀狐は見た目は若者だが、実際の年齢は見た目では推し量れない。
小珠とキヨは空狐の後に続いて廊下を歩き、一番奥にある広い部屋に招かれた。畳の間の奥に、天井に頭が付くほど大きな真っ白な狐が座っている。その体躯は小珠の何十倍も大きいだろう。神秘的な姿に圧倒され、咄嗟の挨拶もできずに黙り込んでしまった。
「玉藻前か」
大きな狐――天狐が口を開く。嗄れた声だった。
問いかけられ、小珠は背筋を伸ばしてようやく口を開くことができた。出てきたのは小さな声だった。
「こ……小珠、です」
「ああ、そうか、今の名は小珠じゃったな。一石キヨ、そなたも大義であった。よくぞここまで小珠を安全に育ててくれた」
天狐が小珠の隣にいるキヨに労いの言葉をかける。
「これからおぬしらにはこの屋敷で暮らしてもらう。何か望みがあれば何でも叶えてやろう」
「では、おばあちゃんの薬が欲しいです」
はっきりと即答した小珠に、天狐は目を細め質問を返してきた。
「その話は先に到着したうちの使いから聞いておる。明日にでも町一番の医者をこの屋敷に呼び出そう。それはそれとて、おぬし自身が欲しいものは何だ?」
「誠にありがとうございます。……私が欲しいもの、ですか?」
「着物でも、櫛でも、おしろいでも。欲しい物は何でも与えてやろう」
小珠は少し考えた。急に欲しい物をやると言われても、これまでずっとキヨのことばかり考えて生きてきたのだから返答に困ってしまう。自分の欲しい物について考えたことなど、もう何年もなかった。
ここで暮らすとなれば足りないもの。キヨと暮らしたあの家にあってここにないものと言えば……。
「では、良い土と、日当たりの良い場所と、鍬などが欲しいです」
「……なんだって?」
「出過ぎた発言でしたら申し訳ありません。農作業ができる田畑が欲しいと思いまして……」
小珠の願いを耳にした天狐は目を丸くしてしばらく黙った。すると、隣にいるキヨが弾けるように大きな口を開けて笑う。
「こういう娘だよ、この子は。着飾るより体を動かす方が好きなんだ。専業農家だからね」
「……玉藻前には似とらん」
「生まれ変わりとはいえ、この子は玉藻前じゃない。この子らしく生きさせてやっとくれ」
キヨの言葉で、天狐はふむ……と少し驚いているような表情で納得したように頷いたのだった。
その日の夕方、小珠はキヨと一緒に屋敷の中にある大きな湯殿に入らされた。その後は、白い狐の耳が生えた美しい女性の使用人たちに髪の毛や体を丁寧に洗われた。彼女たちは、気狐《きこ》と言うらしい。湯から上がると、上質な着物が用意されており、てきぱきと着付けられ、今度は夕食の時間だった。
料理の間には、人生で食べたことがないほどの豪華な食事が用意されていた。野狐たちや金狐銀狐、天狐と空狐、その他にも沢山の妖狐――おそらくこの屋敷にいる全ての妖狐たちが揃い、ずらりと並んでいる。部屋の中心では狐耳の生えた少年少女たちが弦楽器での演奏を行っている。小珠はその非現実的な空間に驚くばかりで、折角用意された食事をゆっくりと味わう余裕がなかった。
ふと隣のキヨの様子を窺う。固形の食べ物はほとんど口にしなかったキヨがうまいうまいと沢山食べている様子なのが何より嬉しかった。
夕食後は寝間としてだだっ広い畳の部屋を与えられた。キヨは小珠の隣の部屋で休むことになっている。様子を見に行ったが、キヨの部屋も小珠と同程度に広く、ちゃぶ台や暇を潰せそうな書物なども揃えられていた。「何かあったらすぐ呼んでね」とキヨに声を掛け、自室へ戻った。
部屋には月明かりが差し込んでいる。屋敷は静かだ。他の妖狐たちは皆もう寝たのだろう。できるだけ音を立てないようにそろりそろりと縁側に座る。
庭園を流れる川の音が心地良かった。
「小珠様?」
月を眺めていると突然声を掛けられ、反射的に顔を上げた。そこにいたのは空狐だった。昼間とは違って絹の白生地で仕立てられた寝間着を身に纏っている。
「眠れないのですか? 寝心地が悪いのであれば敷布団を替えさせますが」
「いえ……。今日一日で信じられないことがいくつも起こったので、まだびっくりしていてなかなか眠れなくて」
小珠はそう答えた後、おそるおそる空狐を見上げて誘ってみる。
「少しお話しませんか?」
これからこの屋敷に身を置く以上は、この屋敷にいる妖狐たちとも親睦を深めておきたい。
空狐は少し驚いたように目を見開くと、無言で小珠の隣に座ってきた。断られなかったことにほっとした。
小珠の方から誘ったにも拘らず、話す内容が思い付かない。しばらく無言で月を眺めてしまった。何か言わねば、と思って無理やり話題を絞り出す。
「私とおばあちゃんが住んでいた家はどうなるのでしょう……。まだ収穫していない作物があるので気になります」
「空き家になるでしょう。畑が気になるのであれば野狐たちに向かわせます」
「何から何まですみません……。あの、もしあの家を欲しがる方がいたら譲ってあげてください。〝狐の子〟の私が住んでいた家など誰も欲しがらないかもしれませんが、家屋が小さくて困っているという声もいくらか耳にしたので」
もう戻ることができないのであればせめて誰かに譲りたい。キヨとの思い出の詰まった場所なので、使われずにぼろぼろになっていくのはあまりに悲しかった。
「貴女はあんな村の連中を気遣うのですか? 一石様と貴女を見下し見捨てた場所でしょう」
空狐が冷たい目をして言い放つ。
確かに、あの村の住民たちはキヨの体が悪くなっても誰も手を貸そうとはしなかった。小珠も酷い言われようだった。嫁にもらってくれる家も友達になってくれる者も居なかった。外に出れば嫌な噂ばかりされた。
……それでも。
「あの方々は、私の作った野菜だけは買ってくれていたんです」
村の中で協力し合って生活しているあの村で孤立することは命に関わる。しかし、それでも小珠とキヨが生きていけたのは、野菜の取り引きだけはしてくれる家がいくつかあったからだ。
「おばあちゃんは私が来る前、元々あの村で一番おいしい野菜を作ると有名で。その時代からの根強い愛好者がいたといいますか……隠れて応援してくださる方が一定数いました」
皆小珠を疎んでいたが、その中にも一部、小珠やキヨの作った農作物のことだけは認めてくれた老人たちもあの村には居た。そんな人達に支えられながら、あの村以外に行き場のない小珠は何とか生き長らえたのだ。
「確かに疎まれていましたし、酷いことも沢山言われました。でも、私はあの集落で一人で生きていたわけではないのです」
小珠が言い切ると、文句ありげだった空狐もそれ以上何も言わず、感情の読めない瞳でじっと小珠を見つめてくる。その目があまりに澄んでいて綺麗で、少しどきりとした。慌てて大きく首を横に振って邪念を振り払う。
(嫁入り前なのに他の男の人に見惚れてちゃだめでしょう……)
若い男性と関わる機会など滅多になかった。慣れていないが故のことだ、と自分を落ち着かせる。
「本当にあの玉藻前様の生まれ変わりかと疑うほどに似ていませんね」
ぽつりと空狐が呟いた。
何だか悪いことのような気がして「すみません……」と謝ると、「いえ、褒めています」と即答される。
玉藻前と違うという発言が何故褒めたことになるのか。違和感を覚えた。
「玉藻前様はどのようなお方だったのですか?」
「一言で言うならば冷酷無慈悲。横暴で我が儘なお方でした。僕の心と体を蹂躙し、酷く傷付け、最低な振る舞いをしてきたお方です。良いところは見た目だけですね。顔だけは國中を探してもなかなか居ないであろう絶世の美女でした」
それを聞き、身なりを気にせず化粧もしていない自分を恥ずかしく思った。小珠はお世辞にも絶世の美女とは言えない。村の他の若い女たちが嫁入りしていく中、早々にそのようなことは諦め畑仕事ばかりしていた身だ。
「そんなに美人だったなら、金狐さんや銀狐さんにがっかりされて当然ですね」
昼間この屋敷へ来た時のあの失礼な妖狐たちの反応を思い出し、がくりと項垂れる。すると、すかさず空狐が言った。
「心の美しさは見た目にも現れます。今の貴女の方が美しいと僕は思いますが」
不覚にもまたどきりとさせられてしまった。
――ただ異性に慣れていないからではない。あまりにも似ている。小さい頃祭りでキヨとはぐれた時、手を引いて正しい場所まで戻してくれた着物のあの人に。
「今の貴女であれば天狐様にも相応しいかと思います」
続けてそう言われ、はっと正気を取り戻す。小珠の結婚相手は天狐である。同じ屋敷で生活を共にする空狐に心を奪われてしまってはいけない。
「……何だか実感が湧きません。私、本当に嫁入りするのですね」
それも相手は人間ではない。自分よりも何倍も大きな狐の姿をした妖怪だ。
「ご不安ですか?」
「生活が大きく変わってしまうので。それにこのきつね町のこともよく知りませんし」
「では、明日の日中僕が案内しましょう。行きたい場所はありますか。高級な甘味処などどうでしょう」
甘味処と聞いても小珠はぴんと来なかった。
それよりも、今日ここへ来る時に通った市。数々の妖怪たちが楽しげに売り買いをしていたあの場所がやけに頭に残っている。小珠のいた村にあのような賑やかな場所はなかったのだ。
「甘味処……もいいのですが、今日通った市も気になります」
「しかし、あそこは身分の低い妖怪が集まる場所です。小珠様のような方が行くところではありません」
「……どうしてですか?」
「妖狐の一族はこの町を統治する存在です。威厳を保たねばなりません」
空狐は小珠が市へ行くことには反対であるようだった。妖狐の一族にとっては威厳というものが大事らしい。
「私が玉藻前の生まれ変わりであることって、他の妖怪から見ても分かるのですか」
「外見だけでは分かりません。この町の食べ物を摂取したことで少しだけ妖力が戻ったようですが、今はまだ微量です。気配はその辺の低級妖怪と変わらないでしょう」
「では、私が妖狐の一族ということは隠して市へ行くというのはどうでしょう……?」
折角初めて訪れる町へ来たのに、屋敷に引き籠もってばかりいるのは気が引けた。それに、色々と探索してみて面白い場所があればキヨにも紹介できる。
空狐は小珠の要求を聞いて少し考えるような素振りを見せたが、小珠が前言を撤回せずに期待しながらじっと見つめているとようやく納得してくれたようで、
「大胆な行動に出るところは玉藻前様に似ているようですね」
と苦笑した。
市へ行くことを約束した翌朝、野狐を通して天狐から手紙がやってきた。同じ屋敷内にいるとはいえ、天狐はあまり部屋から動けないらしい。
手紙の内容は、この屋敷の庭の一部を畑とするというものだった。庭の端の区画に既に場所を作ってくれているらしい。砂利庭なのでこのままでは使えないが、後日良い土を運んでこさせるとのことだった。
手紙と一緒に渡された鍬と袋に入った野菜の種を受け取り、「砂利庭も耕せば畑になるので、土はいらないですと伝えておいてくれますか?」と野狐に伝える。野狐は常にお面を被っているため表情は分からない。
「野狐さん、いつもお疲れ様です」
この屋敷では諸々の雑用を野狐たちが行っているようなので、最後にぺこりとお辞儀をして労いの言葉をかけてみる。野狐は無言でこくりと頷き去っていった。
小珠はその背中を見送った後、襖を閉じて家から持ってきた木綿でできた作業着に着替えた。何年も前から使っている作業着なのでかなりぼろぼろである。そろそろ切って雑巾などに変えるべきだろう。
鍬を持って外に出ようとすると、空狐が牛車に乗り込んでいるのが見えた。
「おはようございます。昨日はありがとうございました」と小走りで牛車に近付きお礼を言うと、空狐は「ええ。おはようございます」とにこりと上品に笑って返してくれた。ゆっくり話す暇もなく牛車が動き出す。その後ろを、何体もの野狐たちが続いていた。あの野狐はさっき小珠に天狐からの手紙を届けた野狐とは別者だろう。
(空狐さん、こんな朝早くから出かけてるんだ……)
きつね町はまだ夜明け前の薄明かりに包まれている。朝焼けの色彩が遠くの山々まで広がっていた。木々の間から覗く淡い光が柔らかな影を落としている。
小珠は庭園のうちの一角で、ざくりざくりと土を耕した。
「随分早起きさんやな」
そんな小珠をたまたま見つけ、縁側から話しかけてきたのは銀狐だった。最初に嫌な態度を取られた印象が強く、少し緊張した。
「空狐さんや野狐さんの方が早起きでしたよ」
「空狐はんと会うたん?」
「はい、先程鍬を運んでいたらすれ違いました」
早朝、空狐は何やら忙しそうに野狐たちを引き連れて屋敷を出ていった。空狐に朝早くから用事があるとは知らず、昨夜遅くまで話に付き合わせてしまったことを申し訳なく思った。
「空狐はんも忙しいからなぁ。なんせこのお屋敷の次期当主やし」
「当主……。天狐さまではないのですか?」
「天狐さまはもうお年やから。この町を統治できるほどの妖力は薄れてきてるんよ。そろそろ代替わりや」
そう言って暇潰しのように縁側に腰を掛けた銀狐は、小珠の姿をじろじろ見てきたかと思えば、呆れたように溜め息を吐く。
「ところで、昨日もろた着物は?」
「あ……着方がよく分からなくて。それに、畑仕事をしていたら汚しちゃいますし」
結局昔から使っているこの作業着が一番落ち着くのだ。
少しずれた軍手を直すと、また銀狐に大きな溜め息を吐かれた。
「自覚が足りんわ。仮にも君はこのお屋敷に招かれたお嫁さんなんやで? そないなぼろぼろの格好でええと思ってるん? おんなじ屋敷におるん恥ずかしいわ」
小珠はその言葉に少しむっとした。昨日からこの男は何だか失礼だ。一族の長の妻としてこの屋敷の飾りのような存在になれと言っているように聞こえる。
昨夜空狐に褒められたことで少し自信が付いた小珠は、胸を張って反論した。
「もちろん昨日頂いたお着物も大切にします。ですが畑仕事をする時は、それに適した格好をさせてください。畑仕事をしながらお着物を汚さないようにするのは難しいです」
「畑仕事なんかせんでいい、言うてんねや。そないに暇ならお琴や舞を教える先生付けたろか? 女の子はお化粧してかわええ着物着て微笑んどったらええねん。この屋敷はそういう屋敷や」
「それでは、おばあちゃんのお薬代を天狐様に返せません」
今は早急に薬が必要なので天狐に甘えたが、いずれこの恩は別の形で返そうと考えている。そのためには、今のうちからお金を貯めておかなければならない。
「……いまいち話噛み合わん子ぉやな。狐の屋敷に来たんやで、もっと喜びや。君はこのきつね町では何もせんでも何不自由なく暮らせる。やのに、畑仕事なんて庶民のやることやってみっともないわぁ」
「畑仕事はみっともないことではありません!」
声を張ってはっきりと否定すると、銀狐が驚いたように目を見開いた。そんな銀狐に向かって間を置かずに指を指し言い放つ。
「例えば昨日貴方が美味しいと言っていた夕食のお吸い物の中に入っていた大葉――あれも誰かが丹精を込めて作ったものです。大葉は初心者でも育てやすい野菜ですが、それでも日当たりや温度など気にすべき点が沢山あります。誰かの努力でできたものです。誰かが作らないと私たちは何も食べられません」
昨夜、だだっ広い部屋に一族揃って並んで夕食を共にした時、銀狐と金狐は小珠の斜め前に座っていた。小珠は緊張して静かに食事することしかできなかったが、銀狐と金狐はぺちゃくちゃと喋っていたので内容を覚えている。あの時銀狐が「今日のお吸いもん美味しいわぁ」と言っていたのを小珠は聞き逃さなかった。
「食事を楽しむ心があるのなら、それらを作る人を敬う心も持ってください」
銀狐はぽかんと口を開けて小珠を見つめてくる。
少し説教臭くなってしまったことを反省し、こほんと一度咳払いをしてから話を切り替えた。
「失礼しました。……あの、聞きたかったのですけれど、妖力ってものを使えば何でもできるんですか?」
銀狐は少し機嫌を損ねたのか座ったまま黙り込んでいたが、しばらくして口を開いた。
「できることは妖怪の種によるとしか言えんけど。妖狐の一族になら大抵のことはできる。妖狐の一族は妖怪の中でも特殊やからな」
「例えば、このトマトの種を発芽させたりとかってできます?」
小珠は野狐から渡された袋の中から種を一つ取り出して縁側の銀狐に近付く。銀狐は億劫そうな顔をしながらも人差し指で差し出された種に触れた。
――すると、ぽんと芽が出てきた。
「すごい……」
「は?」
「すごいです! これなら、通常の倍の速さで作物を収穫できます! ありがとうございます、銀狐さん!」
「……この程度のことで何感動してんねん。ちゅーか、その汚い格好で俺に近付かんといてくれる?」
興奮して身を乗り出してしまった小珠に対し、銀狐はしっしっと手で犬を払うような仕草をして距離を取った。
「トマトの発芽には頑張って管理していても四日から一週間かかるんですよ! それをこんな一瞬で……! 妖力って凄いですね!」
銀狐の失礼な態度ももう気にならない。それよりも、種が一瞬で発芽したことが嬉しい。
その時、くっくっくっと後ろから笑い声が聞こえた。振り返ると、そこには今起きて庭まで出てきたらしいキヨがいる。やはり昨日から調子がいいようで、杖なしでここまで歩いてきた様子だ。
「おばあちゃん、動いて大丈夫なの?」
「ああ、不思議と体に力が漲るようだよ。こんなに広い畑をもらえるとは、わしも張り切ってしまうね」
そう言って小珠が予備として持ってきていたもう一本の鍬を軽々と持つキヨの姿は、体を悪くする前――元気に畑を管理していた頃の姿そのものだった。
「今の次期はトマトとナスとキュウリとカブとピーマンとホウレン草の植付期だ。アスパラガスは栽培期間が長いが、この男の妖力を使えば早送りもできるだろう。本来野菜は自然の力で成長するもの……妖力でできた物がおいしいかは分からんが、試してみる価値はある」
キヨが威勢よく声を張る。
「さあ、やるかい小珠!」
「おー!」
小珠はキヨの言葉で拳を太陽に向かって高く上げ、張り切って鍬を持ち直した。
キヨと二人並んでざっくざっくと畑を耕す小珠を、銀狐は「え、俺手伝うとか一言も言うてへんねんけど……」と若干引いたような目で見つめていた。
次話:https://note.com/awaawaawayuki/n/nadcf7cf96685
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