ボヘミアン・ラプソディ~「私の時代が来る」~音楽家マーラーと歌詞の関係

こんにちは、みみです。

フレディ・マーキュリー作詞作曲の楽曲ボラプの謎ときにチャレンジしています。


今回は、歌詞の中でも、有名なバラード・パート(Mama~から始まる部分)から、謎だったフレーズ、

"my time has come"

について、クラシック音楽などと関連付けて考察します。


詳しい和訳や歌詞全体は、過去の記事「ボヘミアン・ラプソディ和訳」や、続く「ボヘミアン・ラプソディ和訳・深掘り」、「ボヘミアン・ラプソディ和訳後分析」のバラード(2番)部分を見てください。


Bohemian Rhapsody
Written by Freddie Mercury

バラード(詩)

Mama, just killed a man,
Put a gun against his head,
Pulled my trigger, now he's dead,
Mama, life had just begun,
But now I've gone and thrown it all away-
Mama, ooo,
Didn't mean to make you cry-
If I'm not back again this time tomorrow-
Carry on, carry on, as if nothing really matters-

Too late, my time has come,
Sends shivers down my spine-
Body's aching all the time,
Goodbye everybody-I've got to go-
Gotta leave you all behind and face the truth-
Mama, ooo- (Anyway the wind blows)
I don't want to die-
I sometimes wish I'd never been born at all-

my time has come

ですが、

私には聞くたびに、作曲家のグスタフ・マーラーの、「私の時代が来る」が思い浮かんできます。

これは、オーストリアの作曲家・指揮者で、ユダヤ人です。当時のチェコのオーストリア領、ボヘミア地方出身です。ドイツで活動。1860/7/7~1911年。「巨人」とかが有名かな?

現地の言葉(ドイツ語?)で何といったかわかりませんが、妻のアルマにあてた手紙に、「時の人リヒャルト・シュトラウスの時代は終わり、やがて私の時代が来る」、と書きました。

英語では、my day will comeと訳されていました。

実際、1971年にイタリアの巨匠監督、ルキノ・ヴィスコンティが、トーマス・マン原作の「ベニスに死す」を映画化すると、マーラーの交響曲第5番を使っていたりと、マーラー・ブームが起きます。マンは、亡くなる直前のマーラー(50歳くらい)と交流し、彼をモデルに1912年に小説を書いたといわれます。

以下、古典ではありますが、「ベニスに死す」のネタバレに一応注意してください。



この作品は、美少年タージオに心奪われる小説家(映画は作曲家)の死を描きます。有名な美少年はスウェーデンのビョルン・アンドレセンさんが演じます。マーラーは実際には同性愛者ではないと思いますが、小説や映画はそういう感じになっているのでしょうか。ヴィスコンティ氏は同性愛者をオープンにしています。(しかしビョルンさんはその後人生がめちゃくちゃになります。)

その後イギリスで「マーラー」という伝記映画も1974年にでます。

フレディはピアノを弾くし、クラシック好きなので、マーラーのことは知っていたかもしれません。映画も見たかもしれません。

mama, just killed~のカウボーイ部分は1960年代後半に書いてたかもしれませんが、2番がいつ書かれたかはわかりません。

マーラーの影響はあったかもしれない。


マーラーが特にフレディに似ているところ。

マーラーは、3つの意味で故郷がないといいます。

自身を、

オーストラリア人にはボヘミア人、
ドイツ人にはオーストリア人、
世界的にはユダヤ人、

とみられる、と語っていたということです。

さらにアルマと結婚し、ユダヤ教からカトリックに改宗します。

母が体が弱く、14人産んだうちの2番目でしたが、多分母が若いうちに生まれていると思われ(20歳で30歳の旦那と結婚)、母親にかなりの愛を感じていたということです。(出典:Wiki)

フレディも母親が大好きで、母は19歳の時に父(34歳)と結婚し、24歳の時にフレディが生まれました。


このように、恐らくフレディはマーラー・ブームとともに、マーラーのことを知り、ボヘミア人だったことや故郷がないこと、母に異常ともいえる感情を持っていたこと、いろいろな共感を受けたのではないかと思います。

また、性格も似ていて、指揮者として過激なパフォーマーといわれたこと、基本は明るくて優しいが、自分の仕事を果たさない怠慢なものには厳しく苛烈に当たること、また50歳くらいでなくなったこと。


そして、タイトルをボヘミアンにして、このセリフを入れたのではないかと思いました。

また、1960年代後半にはアメリカで、ベトナム戦争の影響かヒッピー文化が花開き、ネオ・ボヘミアンともいわれています。


フレディの「私の時間が来た」は、マーラーの言葉を引用したとすると、こういう考察もできます。

Too late, my time has come,
Sends shivers down my spine -
Body's aching all the time,
Goodbye everybody-I've got to go -
Gotta leave you all behind and face the truth -

ブームは来るけど、もう遅い状態で来る、(そんなことを想像して、)背筋がゾクゾクする。体は(酷使しすぎて、)すでにいつも痛くなっている状態で、幕引きをしなければならない。という意味。

因みに訳は、ハイフン「ー」カンマ「, 」の位置を意識して訳しています。ポイントは、セットのように思われる「ゾクゾク感(shivers)」と「疼痛(body's aching)」の間では文章が切れ、話も違うと思っています。

※あともう一個補足。shiversには、恐怖と興奮、2つの意味のゾクゾク感があります。つまり、いい意味でも使うということ。


とにかくこれは、想像の話ということになりそうです。

my timeというのが、自分の人気の時代を表します。

時制が現在系や現在完了ですが、想像した世界を描いているとすると現在系でもよしとなります。


ここではじめてあらわれるのが、「観客」(everybodyのこと)です。

ママでもなく、家族でもなく、世間の人たちです。

フレディにとっては、自分の作品を待つ人々です。マーラーなどの作曲家、指揮者にとってと同じく、とても重要な人々です。

ここが、ただのボヘミア少年と異なってくる部分です。


ブームというのも、2種類の考え方があります。

歴史上の音楽家たちなどは、その時代はもてはやされます。酷評もされますが。

しかし最も栄誉のあることは、自分が死んだ後も作品が残るかです。

自分が生きていて、一生懸命やっているときにもてはやされるのはいいとして、それが後世まで残るか、未来の人にも受け入れられるか、必要とされるような普遍的な芸術かどうかが気になります。

特に、命を削ってまで作った、人生の色々なものを犠牲にしてまで心血を注いだ子供のような作品がどうなるか。


つまり望ましいブームは、生前と死後の2回訪れます。


ここでの歌詞は、一応、両方考えられます。

死後のブームを想像して、ゾクゾクしている場合と、これから訪れるはずの生前のブームを想像してゾクゾク(ワクワク)している場合です。

too late(遅すぎる)には、皮肉が込められているとすると、

死後なら、皮肉そのもの。生前なら、ブームを望ましいと思わない人に対しての言葉だと思われます。または自分とか。

体が常に痛いのは、生前と死後のブームの間の時系列になりそうです。

引退間近の表現です。たぶん今の時点ですでにそうなりつつあると思われます。


つまり、生前と死後のブーム、両方を含んだ言い方と、次には今の状態から予想される引退をすでに予言しています。

そして、限界が訪れて観客から姿を消して、それから真実に向き合うのです。

つまり、死後にブームになるか。


続く、

「ママ。(風は吹く♪)死にたくない。時々思う、最初から生まれてこなきゃよかった!」

は、「死にたくない」というのは、そのままの意味もあるが、歴史的に死にたくないという意味もあると思う。(これはすでに和訳・深掘りで書いています)そして、ママへ心の中で告白することで、歴史的な壮大なプレッシャーに苦しんでいる様子を表している。


観客を相手にしていると思うと、「私の時間が来ちゃった」はトリプル・ミーニングとも言えますね。

1.生前のブームが来てしまった(直近の想像、願い)
2.引退の時間が来てしまった(=1度目の「死」の時間が来てしまった)
3.死後のブームが来た(かなり遠い時間の想像)

ポイントは、その時はまだ来ていないということ。想像であって、想像によりゾクゾクしているということ。実際のブームが来たり、死んでしまうから(末期症状の一つとして)ゾクゾクしているのではなく、想像でゾクゾクさしているということです。

次に時系列として、「体がいつも痛くなる」というかなり現実味の強い想像が来て、「さよなら皆さん」を想像するのです。

(最後の「死にたくない」も一連の想像の結末。)


複雑な文章になりましたが、私の言っていることが、すこしでもわかっていただけるでしょうか?

かなり省いていることは承知ですが、書こうとするとかなり長くなってしまいます。

しかし、私のマーラー仮説を取り入れて、歌詞を見つめてちょっと考えていただけると、そんな風に腑に落ちる瞬間が来ませんか?


かなり時空を超えまくっていますが、観客の要素、芸術家の要素などを取り入れると、なんかつじつまが合ってくる気がしませんか?


つまり、ボヘミアン少年の殺人告白よりも、かなり本当のフレディの姿に近い気がします。

天才が実際何を考えていたのか、何に苦しんでいたのか。

自分の存在があやふやなこと、芸術を作りたいがプレッシャーで苦しいこと、限界や時間が近づいていてそれもプレッシャーなこと、理解が得られにくいことなどなど、いろいろ想像してしまいます。


そのままストレートに書くと、自分を誰だと思っているんだと当時は思われるでしょう。苦悩をうまく隠して書いているのです。

しかし共感できる内容です。自分を信じるしかないのです。


つまり、芸術家として生きることに対する覚悟(苦悩)を描いたともいえるでしょう。音楽を愛し、音楽を通して自己を表現し、現実世界の人にすこしの愛と喜びを届けるのです。


こんな感じで、マーラーとの関連でバラードの2番を意訳してみました。


この流れで、いつかバラード1番にも戻って訳したいです。

お楽しみに。

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