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【書評】又吉直樹「火花」

【火花:又吉直樹:文藝春秋:2015】

 笑いたくなるような物事というのは、一般性から外れたところにある。あるいはむしろ、一般性からの逸脱行為そのものが鑑賞者に笑いを催させる、と言ったほうが正確かもしれない。漫才でもコントでも、そこで語られていることが単なる日常の、よくありそうな一コマに過ぎないとしたら、笑いは起こらないだろう。逆に、一般性からあまりに離れると、そもそも伝わらないか、最悪笑いを通り越して嫌悪や恐怖を催させることになる。
 だから意図的に他人を笑わせるためには、一般性とはいかなるものかを肌感覚として体得している必要がある。多くの人が笑うような笑いというのは、高度な「日常感覚」があって初めて生み出すことができると言える。――とはいえそれは「秀才的な笑い」と言うべきだろう。
 天才的な笑いというのを想定して、それは例えば、それが笑うのに値するということから遡及的にわれわれの生きる日常の「一般性」を暗示するようなもののこと、ではないだろうか。それが笑えるということが、翻って、今まで意識さえ出来ないほど浸りきっていた「一般性の地盤」を明らかにするような笑い。ここまで来ると相当レベルが高い。
 とはいえ、一般性という尺度そのものが相対的なものなので、何が笑えるのかもまた相対的なものと言わざるをえない。関西では通じていた笑いが関東では通じない、といった地域性ももちろんあるだろうし、もっと細かく見れば個々人の趣味嗜好もあるだろう。そこでさらに考えを進め、超天才的な笑いを想定してみると、それは「私にとってのみ有効な笑い」と言えるほどに、鑑賞者の根差す地盤そのものを対照する力を持った笑い、ということになるかもしれない。ここまで来ると、理解者の数はごく少数となるだろう。

 お笑いコンビ「スパークス」として活動する「僕」は、花火大会の営業で知り合った芸人「神谷」に弟子入りする。天才的な才能がありながら世間に認められない神谷を歯痒く思いながら、他方自らの芸に満足しきれないままそれなりに売れていく僕の葛藤が、二人の交流を通じて描かれていく。
 お笑い芸人というのは、因果な商売である。ほんの一握りの売れっ子を目指して明日も知れない不安定な生活に甘んじることになるのだから、芸人の道を歩むのには相当の覚悟がいる。しかも彼らの売り物は「笑い」なのだ。自分がいかに苦しい状況にあろうと、他人を笑わせなければならない。

「漫才師である以上、面白い漫才をすることが絶対的な使命であることは当然であって、あらゆる日常の行動は全て漫才のためにあんねん。だから、お前の行動の全ては既に漫才の一部やねん。漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない純正の人間の姿を晒すもんやねん。つまりは賢い、には出来ひんくて、本物の阿呆と自分はまっとうであると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん」

(p16)

 と言う神谷は、自らの苦境など他人事のように、次々と現実をボケ倒していく(むしろ、どうしようもなく苦しい現実を都度笑いに変えることでギリギリの息継ぎをしているようにも感じられる)。そうした神谷の、命を燃やすような徹底した姿勢を目の当たりにして、僕は芸人としての自らを恥じ、芸に悩み、また神谷の苦しみを(もしかしたら当の神谷以上に)苦しむ。
 単なる人生模様の描出に終始せず、芸を志す者の矜持や葛藤が、明晰かつ有機的に描かれているところが本作の見どころだろう。それが画家や音楽家ではなく「お笑い芸人」であればこそ、卑近な生活というものの恐るべき深淵が垣間見える。と同時に、足元のすくむような「生活の恐怖」そのものさえをも高らかに笑い飛ばそうというお笑い芸人の、悲愴にして凄絶な性が色濃く描き出されている(ラストの光景はもはやホラーと紙一重である)。
 全編通じて苦しみに溢れているものの、要所要所に現れる絶妙なおかしみが読み手に呼吸の機会を与えている。泣きじゃくる赤ちゃんに「蠅川柳」を繰り出すところとか、怒って帰るつもりがベンチに財布が挟まって引き戻されるところとか、ソーセージを頼んだら七輪で出て来るところとか、随所に笑いどころがある。そうした笑いというのが、生きることにまつわる錯綜した苦しみに対照されて影のある諧謔として立ち現れてくるところには、テレビで漫才やコントを見るのとはまた違った味わいがある。
 面白く読んだ。

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