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フランス語の道③フランス編その2


『フランス語が出来る』とは

長年に渡り、義母から私の欠点を指摘され続けてきましたので、
明るさが取り柄だった私でも、すっかり自信を失っていました。
(自信を取り戻すために、仕事をしなきゃ...)
と思いました。
そしてとりあえず、自分のリズムで出来る翻訳を時々引き受けていましたが、時給に換算すると 100~300 円ぽっち。
(私が今まで頑張って身に着けてきた能力は、所詮この程度の価値だったのか...)
とため息をついて、ますます自信を失うのでした。

ボンヤリとすることが多く、外でテキパキ働けるような状態ではありませんでした。そんな状態では、何をやってもうまくはいかないでしょう。
そんな時、私たちの仲人、コアラくんが日本からパリにやって来ました。

初めて出会った時は修士課程の留学生だったコアラくんですが、
その後博士号を取って、日本の大学助教授になっていました。
大学生たちのフランス語研修に引率する時や、研究で渡仏する時は、必ず我が家に立ち寄ってくれて、一緒に夕食をとり、積もる話に花を咲かせていました。
けれどその日、私は元気がありませんでした。
完全に自信を失っていたからです。
食後、コアラくんと夫はブランデーを片手に、
私はハーブティーを飲みながら、雑談を続けていました。

「えーっ!? 本当に!? えーっ!?」
とコアラくんが目を大きくして驚きました。
私の翻訳した本が、H 出版社から出版されていたと知ったからです。
「アヤさん、それはすごいことですよ!いや〜、すごいなぁ!
俺の同業者に東大出身のヤツがいるんですけどね、ソイツが自分の本をフランスの○○出版社から出したって自慢してくるんですよ。鼻持ちならないヤツでね。あー、ソイツにアヤさんのこと言ってやりたい!そうとう悔しがると思いますよ。H 出版社は超一流ですからね。フランス文学界の人間にとって、H 出版社で出版してもらえることは、大変な名誉なんですよ。出版業界の最高峰ですから。いや〜、すごい!」

元気な時の私なら、
「え〜!そうだったの!?わー、嬉しい!」
と答えていたでしょう。
けど当時、どん底気分で後ろ向きだった私は、こう答えました。
「私ハ 文学界二 イナイカラ、名誉ナンテ 関係ナイ。
ソレニ、夫ト義父ガ 手伝ッテクレタ。
私一人ノ チカラデハ ナニモ出来ナイ。
H 出版社モ、私ガ選ンダ ワケジャナイ。
タマタマ ソウイウ流レ二 ナッタダケ。」

そして私はその「東大出身の鼻もちならない人」を羨ましく思いました。
その人は、自力でフランスの出版社から本を出したのです。
そしてきっとこれからも、(いつか、H 出版社から出版してやる!)と野心を持って、研究を続けていくのでしょう。
私は野心もハングリー精神もない、森の中の迷子でした。
ただ、頼まれたことをやっただけ...。

コアラくんはそれでも
「すごい、本当にすごい。それに、あの世界的に有名なエリザベット・バダンテール女史の推薦文付きでしょ?本当にすごいよ。」
と感心していました。
「デモ、バダンテール女史二 翻訳ヒドイッテ 言ワレタ。」
「本当にひどかったら、前書き書くのをを断ったはずだし...。それに出版社だって、本を出版しなかったはずだし。」とコアラくん。
コアラくんはいつだって優しいのです。
そしてこう続けました。
「仏検 1 級も合格して、アヤさんは本当にすごいですよ。
大学教授でも仏検 1 級持っている人はあまりいないし、
日本では通訳者でも 1 級持ってなかったりしますからね。」

せっかくの誉め言葉も私は否定しました。
「ココ、フランス。日本ジャナイ。仏検 1 級ナンテ、ココデハ 全然大シタコトナイ。」
あの時期、私の中で、「フランス語が出来る」というのは、「法廷に立って、堂々と証言できること」を意味していました。そして、仏検 1 級は、裁判には何の役にも立ってくれないので、私にとって意味のないものでした。

「アヤさんは、俺の知ってる日本人の中で、一番フランス語の発音が上手なんですよ。アヤさん以上に綺麗な発音の日本人は見たことがないですよ。」
「デモ、私ハ ネイティブジャナイ。」
ハーブティーをがぶ飲みして、テーブルにうつ伏した私の姿は、酔っ払いそのものでした。
私は水でもハーブティーでも酔えるのです。

コアラくんは、ブランデーを飲みながら、私をなだめ続けました。
「アヤさんはすごいんだから、自信を持って。」
と言われても、
「自信ヲ持テト 言ワレテ 自信ガ持テタラ 苦労シナイ。」
などと、私はうだうだ言い続けました。

コアラくんは暴走族に入っていた元家出少年です。
私の胸ぐらをつかんで揺さぶりながら、
「テメー、いい加減にしろ!」
と言いたかったかもしれません。

けど、ため息をつくだけで、相変わらず根気よくなだめてくれるのでした。
あの時はごめんね、そして有難う、コアラくん。

愛情

人間には色々な面がありますから、
本来の私が打ちのめされて、うじうじしていても、
母親としての私、妻としての私は幸せ者でした。
子ども達と一緒に過ごすことは楽しく、フランス現地の小学校で、PTA 役員を 7 年、そのうち会長を 2 年務めたことからも、私は子育てに向いていたように思います。
子育ては私を元気づけてくれるものでした。
また、嫁姑問題に疲れ果てて、夫に別れを切り出したことはあったものの、それでも夫から溺愛されていることは、ひしひしと感じていました。
夫は仕事に行っても、私の声が聞きたいからと毎日お昼に電話をくれ、飲み会などは殆ど断り、どうしても参加しておいた方が良い集まりにだけ顔を出し、それも途中で引き揚げて帰ってくるのでした。
家族との時間を大切にしたいからと、昇進も断ったので、会社でも夫は愛妻家として有名でした。

夫への愛のために、祖国を離れてフランスに根を下ろした私は間違っていませんでした。もちろん、苦労も多く、ストレスだらけの日常ですが、後悔したことは一度もありません。
そして、日常の小さな幸せをかき集めて、私の心は回復していったのです。

ある日、小学校にいる子ども達を迎えに行く途中で、昔のご近所さんに会いました。
南米出身でスペイン語訛りのフランス語を話すお婆さんでした。
「貴女のお義母さんとは仲が悪いけど、あなた達のことは悪く思っていませんからね。」
と言って、子ども達を可愛がってくれる人でした。
引っ越してから会うことがなかったので、道端で偶然出会って、久々の再会を喜びあいました。
そして近況を聞くと、フランス人のご主人を亡くして、寂しい寂しいと嘆くのでした。

私は一時期、そのご主人に対して腹を立てていました。
エレベーターの横にベビーカーを置いていたら、ある日カッターで切られていたのです。
そのご主人がやったという噂を聞いたので、私は腹を立てていたのです。

けれど、ご主人を想う涙目のお婆さんに心を打たれて、ベビーカー事件のことなんて、もうどうでも良くなりました。
私は腕を広げてお婆さんを抱きしめました。
私より頭一つ分低い、小柄な人でした。

「目には見えませんけれど、ご主人はいつもそばにおられると思いますよ。」
と私は声をかけました。
「えぇ、えぇ、そうですとも。でも主人が恋しい。」
とお婆さんは泣きました。
歩道の真ん中で抱き合う私たちをよけて、通行人たちは通り過ぎていきました。
その泣きじゃくるお婆さんは、未来の私の姿かもしれないのです。
想像するだけで、切なくなりました。
私は思いつく限りの慰めの言葉をかけました。
そして、お婆さんが落ち着いたころに、
「子どもたちを迎えにいかないといけないから...」
と言って、お別れしました。
それがお婆さんを見た最後となりました。

それからしばらくして、
「ご主人を亡くしてから、お婆さんの言動がおかしくなっている」という噂を聞きました。
ある日、子ども達がお婆さんとバッタリ出会った日、相変わらず子ども達に優しい言葉をかけてくれたそうです。
そして
「昨日ね、あなたたちのお母さんと一緒にお茶したのよ。」
と嬉しそうに言ったというのです。

「あなたたちのお母さん」とは私のことです。
私は家にいましたから、お婆さんとはお茶していませんでした。
「やっぱり頭おかしくなっちゃったね。」
と家族が話す中、私の心は温かく震えていました。
お婆さんは妄想の中で、私をお茶に呼んでくれていたのです。
妄想の中の私は、ご主人との思い出話を、相槌を打ちながら聞いていたかしら。
お婆さんの良き話し相手だったかしら。
良き聞き役だったかしら。
お婆さんとお茶している光景を想像しながら、私は一人、ハーブティーを飲みました。

しばらくして、お婆さんが亡くなったと聞きました。
ご主人が迎えに来て、お婆さんが嬉しそうにご主人の手を取る光景が目に浮かびました。
これも未来の私の姿なのかもしれません。
(良かったね...)
と私はお婆さんに話しかけました。

今でもたまに、お婆さんの姿を思い出すのですが、
お隣にはご主人がいて、いつも二人一緒なのでした。

国外へ目を向けて

コロナでロックダウンになった時、家の中を快適にしようと、大掃除を始めました。
多くのものを処分したり、衣類なんかはサッと寄付できたのですが、どうしても手放せないものがありました。
子ども時代からの私の趣味、文通に使っていたレターセットや便箋です。
文通を中断して 10 年は経っていたと思います。
義母と一緒に暮らしていたころ、誰から手紙が届いたかチェックされるのが嫌でしたし、郵便事故も多く、また私が書ける内容は子育てと義母の悪口ぐらいしかなかったので、あまり書く気にもならず、ペンパル達に「しばらく文通やめるね」と連絡していたのでした。

コロナ禍を機に、また連絡を取り始ました。
「わぁ〜、久しぶり!」と返事をくれた人たちと、また繋がりました。
忘れかけていた英語を使うと、昔 NOVA で英会話を楽しんでいたティーンの頃の私が蘇ってきました!何という幸福感でしょう!
殆ど英語を忘れていましたので、昔のように英語で考えることはできず、
最初はフランス語で考えて、それを英語に訳すような形で手紙を書きました。
しばらくすると、英語の勘が戻ってきて、フランス語の助力は必要なくなりました。
でもオンライン辞書は必要でした。

それにしても、英語って何てポジティブな言語なんでしょう!
英語での思考が気分転換になり、私の心は晴れ晴れとしてきました。
また世界各国のペンパルからの手紙を読むことで、私の精神が解放されていくのを感じました。
フランスに住む閉塞感は、海外文通によって解消したのでした!

今の IT 時代にわざわざ海外文通を楽しむ人は、流行を追わない個性的な人が多く、どのように生きてきたか、どのように暮らしているかを知るだけで、私の世界は広がるのでした。
世界の人たちと繋がれば繋がるほど、日本に居たころの、オープンマインドな私が戻ってきました。
私は本来の自分自身を取り戻したのです!

ある日、アメリカ、アリゾナ州に住むペンパルに
「あなたって、波乱万丈な人生よね。」
と言われて驚きました。
(そっかぁ。私の人生は波乱万丈だったのかぁ。)
と気づきました。自分では平凡な主婦だと思っていたからです。
ケタケタ笑って、
「お互い様でしょう?いや、あなたの方が波乱万丈よ。」
と返しました。
彼女は、冷戦後に初めてアメリカからソ連に派遣された、「アメリカ少年少女の友好使節団」の一員でした。ソビエトの軍人家庭にホームステイをしたアメリカの少女でした。若い頃から世界中を旅行して、アフリカではキリマンジェロに登り、日本にも 7 年住み、今はアメリカを車で移動しながらバンライフを送っているのです。
そんな人に「波乱万丈」と言われる私の人生って...!と可笑しくなりました。

また、ロサンゼルス郊外に住むペンパルにも
「『催涙ガスの匂いが嫌い』って、あなたどんな生活してるのよ!?」
と笑われました。
私は反対に
「アメリカの大都市、ワシントンやロサンゼルスで暮らしてきたのに、催涙ガスの匂いを知らないの!?」
とケタケタ笑いました。
そんなこんなで、どうやら私の人生は、ペンパル達の目に面白く映るようでした。

そしてある日、そのアメリカのペンパルに
「デッサンの練習をしたいからモデルになってほしい」
と頼まれました。
モデル!21 年ぶりの依頼でした。
神戸の民間親善大使をしていた当時と違って、若さが失われたことは十分に分かっていましたが、それでも嬉しく、快諾しました。

私は妊娠した時点で、「赤ちゃんの口に入ったら危ないから」と、化粧品を全て処分していました。
子育てがしやすいように、コンタクトレンズをやめて眼鏡にしていました。
髪の毛は自分で切っていました。
もちろん髪は染めていませんでした。
これ以上ナチュラルにはなれない、正真正銘の私でした。
その 100%の素顔を写真に撮って送りました。

「あなたの髪、素晴らしいわ!」
と返信が来ました。
私の髪は私の人生を物語っていました。
辛かった時期も、白髪として髪にしっかりと残っています。
なので、そういう時期も全部ひっくるめて、
「あなたの人生、素晴らしいわ!」
と言われたような気がして、とても嬉しくなったのでした。

再会

それで「めでたしめでたし」と言いたいところですが、人生は続いていきます。
山あり谷ありで、幸せを感じたかと思えば、また谷底でいじけることだってあります。
実は、私がこの思い出を書き始めた2022年、私は極度のストレスを抱えていました。
自分一人ではどうすることも出来ない現実に動揺して、過去に避難し、思い出を書き綴ることで現実逃避をしたのです。
今は状況が改善し、気分も落ち着きましたが、問題が全て解決したわけではありません。今はまだ、そのことについては書けないのですが、また時が経過したら
「実はあの時はね...」
とお話ししましょう。

こうして、過去の思い出を書いて、本当に良かったと思います。
スッキリしました。
心の中にずっと抱えていたものを手放した開放感を味わいました。
そして書いているうちに、いかに多くの人たちに支えられ、大切にされてきたかを感じ、あまりの懐かしさに涙が出ました。
そして思い出の中の一人一人に感謝しました。
そして、これをきっかけに、昔のノートパソコンを開けて、
少しメールを読み返してみました。

受信箱に心のこもった英文メールを見つけました。
読んで心を打たれました。
昔の私は、まだまだ若く未熟者でしたので、今ほど感動していなかったと思います。そのメールを受け取っていたことも忘れていましたから。
そして、懐かしさを胸に、そのメールの送信者である昔のアメリカ人のお友達に連絡を取りました。
いつも私を励まし、応援してくれていた人です。
私のフランス赴任を、目を細めて喜んでくれた人です。
私よりもかなり年上の人ですから、
(まだ生きていて、健康でありますように...。メールアドレスが変わっていませんように...。)
と願いながら英文メールを書きました。

翌日に返信がありました。
生きていてくれました!
私のことも覚えていてくれました!
良かった!!

18 年ぶりの連絡を喜んでくれ、メールでは話すことがいっぱいでした。
そして相変わらず、私を励まし、応援してくれるのでした。
過去のセピア色の思い出から、お友達が戻ってきました。
そのお友達との思い出だけ、カラー写真になったかのように色づきました。
過去の思い出に逃げたのに、そこで新たな繋がりが生まれるだなんて、
人生って何て面白いんでしょう!

過去の思い出に逃げることは、決して後ろ向きなことではなく、未来に繋がることなんだ、と気づいた出来事でした。

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