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SNSを見てて思ったこと

SNSを眺める。
私の場合はお気に入りのお店の開店日チェックとか、そんな事が多いけれど、おすすめで知らない人の投稿とかもたくさん流れてくる。

特に「祭り」が起きているものが流れてきやすいのか、たくさんのコメントがついている。

共感する人
慰める人
解決策を提示する人
非難する人
突き放す人
そしてそんなコメント欄の方に反応する人。

人の反応はまさに様々なのだけれど、ちなみに私は今は、それを傍観する人だ。

今はと書いたのは、昔は違っていたから。


今の私は、非難したり突き放したりすることには良い効果はないのになぁと思っているけれど、それをする気持ちも実はとても良くわかる。

その行為は、無邪気にお手本に沿っていることで起きている行動もあると思うからだ。


親から生まれる生き物は、本能の他に生き方を目の前の親や大人から学ぶ。
それはとても理に適ったことなのだけど、人間の場合は身近な存在以外からも学ぶ土壌がある。

例えばテレビや新聞など。
なにか事象が起きたとき、テレビや新聞はまずその出来事の善悪を決める。
そして、善と決めたなら褒めそやし、悪と決めたなら非難する。

多数の人間に、テレビや新聞が決めた善や悪を教え込み、悪なら非難するという対応の仕方を教え込む。

そして、テレビや新聞は、ニュースの時間になれば淡々と出来事を述べたあとに専門家や市民の声なども入れ、必ず1つくらいは何かを非難しているようなところがある。


それを、良いものだと思いながら毎日毎日見ていればどうだろう。

それをすることが当然のようにならないだろうか。


正義論を持ち出しながら人のコメント欄で批判をしている様子はまるでニュース番組に出てくるご意見番のようで、おそらく学校では優等生として、教えられたことを忠実に学んできた人なのかもしれない。
そしてそうであるならば、承認を受けてきた自分の振る舞いには一部の迷いもないはずなのだろう。
その正しさを、自分がしてもらったように他人にも教え込むこと。それこそが人として良い振る舞いなのだと信じているのだろうな。
と、ふとそう思った。


だとすれば、荒れに荒れているコメント欄の批判の中には、日頃の憂晴らしでやっているような攻撃的な気持ちだけではなく、実は良かれと思って書いている人も結構混ざり込んでいそうだ。

非難されて育った人は、非難以外の振る舞い方を知らない。

本当は思いやりの発露なのにも関わらず、その思いやりの出し方がおかしなことになっている。

実はそんな人が、とっても多いのかもしれないなとちょっと思った。

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